月の蘇る
9
於兎が産んだ子は男の子だった。
今度は正真正銘の自分達の子となる男の子だ。桧釐は満足そうに後継ぎを抱いた。
「さあ、今度は誰似でしょ?」
相変わらず産後でもけろっとしている於兎が夫に問う。
「流石にまだ分からんな」
言って、春音に血縁上の弟を見せた。
「誰に似てる?」
「おれ!」
嬉々として返す。
笑って、桧釐は二人の息子を見比べた。
「案外そうかも知れんな。春音に似て綺麗な顔をしている」
「だからそれは私に似てるのよ」
「そういう事だな」
於兎の手に赤子を返す。すやすやとよく眠る子だ。
「だけど、やっぱり春音はお前の顔とはちょっと違うよなあ。綺麗なのはそうなんだけど」
切れ長な春音の目に対して、於兎は大きなぱっちりとした目をしている。
産まれた子もどちらかというとそんな雰囲気がある。矢張り於兎似である事は間違い無い。
「やっぱりあなたの母系の顔立ちなのよ、春音は。ねえ?お父さんにそっくりだもんね?」
於兎が春音に問うと、本人は首を傾けた。
「おとーさん?」
「あら、とーとの事よ?龍晶のこと」
呼び方の問題かと言い直す。
「とーとはいなくなったよ」
春音はそう言って顔を伏せた。
実の両親が目を見合わせる。
「見えないだけなんだろ?」
桧釐が何かに急かされるように問うた。
「みえないから、いないんだよ」
当たり前のように言う。
少し前までその存在を強く信じていたのに。
「…さくとあそんでくる」
言って、部屋を出た。
「どうしたんだろ」
父親は軽く首を捻っただけだが、産みの母は深く溜息を吐いた。
「やっぱりあの子にとっては、あの二人が両親なのよ」
「そりゃそうだけど」
「二人とも目の前から居なくなったのよ?寂しいに決まってる」
「うん、でもだから俺達が…」
「花音とこの子との差を、春音は感じ取ってるわ。賢い子だから」
「差、って言っても」
「私達にそのつもりが無くてもそうなのよ。育ててくれる大人は沢山居ても、自分にはお父さんもお母さんも居ないって、そう感じるのよ」
うーん、と桧釐は唸って。
「どうしてやるのが正解?」
「正解は無いわよ、こんな事。あの子が自分で乗り越えるしか。私達はそれを見守るだけ」
頭を掻いて。
「そうか。仕方ないな」
於兎は頷いて、我が子を少し持ち上げて見せた。
「で、この子の名前はどうするの?」
「今度こそ俺に付けさせてくれる?」
花音は於兎が付けた名前だ。つまり、三度目にして漸く命名権が桧釐に回ってきた。
「早く決めないと私が付けるわよ?」
「えっ!待ってくれ!ええと、そうだな…」
「今まで何も考えてなかったの!?信じられない!」
「そんな事は無い。無いんだが、ちょっといろいろあり過ぎてな…」
「分かった。私の考えてた名前で良いわね?」
「え、待って」
「春音に花音でしょ?音で揃えたいのよね。だから」
「待って待って待ってその一字は俺が」
「あなたの一字からリオンはどうかしら?漢字は難しいからあなたに任せる。考えといて」
「ええーっ!?良いけど!?」
微妙な命名権になった。
結局、名は里音となった。
彼が愛した故郷で産まれた子だ。
いつものように波瑠沙との稽古を終えて、朔夜はふらふらと縁側に座った。
目元を押さえて体を丸めている。
「どうした」
異変に気付いて波瑠沙は横に座った。
「…何でもない。ちょっと目が眩んだ」
「お前、さ」
彼女は顔を険しくして相手を覗き込む。
「この所眠れてないだろ。いつも魘されてる」
「…そう?」
「魘されてなければ目が開いてる。誤魔化せねえぞ、私は」
目元を押さえていた手で顎を支え、俯く。
伸びた髪が顔を隠した。
「…梁巴の夢を見る。この手で故郷を滅ぼした時の」
ぽつりと答えを言った。
波瑠沙は息を吐きながら顔を上げた。
春の気配が濃くなった空。
もうすぐ発たねばならない。
「どうやったら治るのか、忘れられるのか…教えて欲しい」
「そんな方法があるなら私こそ知りたい。お前の為に」
朔夜は少し顔を上げた。風が銀髪を散らした。
虚ろな瞳の辛そうな横顔は変わらなかった。
「やっぱりケリ付けるしか無いんだろうな」
そのままの顔で言う。
「そうかなあ?そうだとしても、その前に死にそうだよ、お前」
辛辣な指摘に苦く笑う。
「祥朗に睡眠薬を貰おうかな」
「それが良いかもな。当面は」
「お前も気になって眠れないだろ?悪いな」
「私は体力お化けだからちょっと眠れりゃ大丈夫」
今度こそ本当の笑いを見せて、重たい頭を横に倒した。
彼女の体に寄りかかる。
「本当に死んだらごめん」
「死なすかよ。死にかけても首根っこ捕まえて連れ戻すわ」
「うん。でも…自信が無くなってきた。梁巴に立って、自分を保てる気がしない」
「早めに行くか。いきなりそういう状態で戦うより、慣らした方が良い。下見も出来るし、罠も仕掛けられる」
「そうしよう。滅茶苦茶お前に迷惑かける気がするけど」
「大丈夫だよ。殺されてやる気は無いから」
「うん…」
自信が無い。何も。
自分が生き延びる事も、彼女を守り通す事も。
再び、生きてこの地に帰れる事も。
軽い足音がした。
「さく、やろー」
その一言が習慣になった。春音が木刀を持って寄ってくる。
波瑠沙の体から頭を起こしたが、立ち上がる気力が無かった。
察した波瑠沙が木刀を持つ。
「今日は私が相手だ。厳しく行くぞ」
「ええー!はーさ、やだ!つまんない!」
「なんだとお!?お前ちょっといっぺん痛い目見せてやる!」
「やだー!」
笑いながら逃げ回る春音と、怒った顔を作って緩く追う波瑠沙の姿にちょっと笑って。
ゆるゆると立ち上がる。彼女の厚意に甘えて自分はやるべき事をやろうと思った。
祥朗は屋敷の近くに居を構えていた。
医師はこの街に数少ない。いつもここに悩む人の姿があるが、幸い今日は誰も居なかった。
「あ、朔夜さん。珍しいですね」
すっかり声は普通に出るようになった。少し掠れた低い声だ。人に落ち着きを与える。
祥大を背中に負った夲椀が茶を出してくれた。赤子はよく眠っている。
「もうこんなに大きくなるんだな」
子供の成長に目を見張る。
「よく食べよく眠る良い子です。於兎さんにもお子が産まれたんでしょう?男の子だとか」
夲椀が目を細めて言う。
「そうらしいな。俺は会ってないけど。於兎に会うと必ずなんか怒られるからさ」
「旧知だから心配なんでしょう?今日はどうされました?」
祥朗に本題を聞き出され、朔夜は言い辛いながらも正直に答えた。
「睡眠薬が欲しい。旅の間も必要になるだろうから、ちょっと纏めて大量に」
「眠れませんか」
「やっと寝付けたと思ったら、魘されて目が覚める。この所…ほら、春めいてきて温くなってきた辺りからずっと。波瑠沙にも迷惑かけるから薬でどうにかしたいと思って」
祥朗にこれだけ自分の弱味を喋れるのは不思議な気がした。彼が子供の頃を見ているから。
それだけ、自分が誰かに縋りたい事の裏返しでもあった。見えない影に追い詰められている。
「分かりました。容易い事です。僕も同じ薬を飲んでいるのですから」
「そうなのか。…あいつの事があるから」
彼は頷いた。龍晶を失った傷は彼も同じだ。
今まで面と向かって話した事が無かったが、彼の苦しみは朔夜にはよく分かる。
己の全てであったのは、自分と一緒だから。
「お前は何も悔いる事は無いよ。今や立派な父親じゃねえか。あいつも喜んでる」
「そうだと良いのですが」
自分の事はその弱気な一言で収めて、医師として目を上げた。
「朔夜さんこそ、どうか自分を責めないで下さい。兄は何度もあなたに救われた。それは事実なんですから」
「…一度でも失敗したら意味無い。これがその結果だ」
「あなたの責任ではありませんよ。それが眠れない要因の一つでしょう。気分を軽くする薬を混ぜておきますね。あなたには是非とも必要だと思います」
自嘲して朔夜は頷く。全て気持ちの問題と言えばそうなのだから。
「他に気になる事はありますか?」
うーん、と天井を見上げて。
「体力付ける薬とかある?」
「持久力を付けて疲れにくくする薬があります。調合しておきましょう」
「ありがと。助かる」
「お代は桧釐さんが払ってくれますから、どんな高価な薬でも混ぜられますよ?」
悪戯っぽく彼は笑って言う。朔夜もにっと笑って頷いた。
「調合してきます。少しお待ち下さい」
祥朗が席を立って奥の間へと向かった。
代わりに夲椀が祥大を抱いて戻ってきた。
「なかなか顔をお見せする事が出来なくて。華耶様にも元気だとお伝え下されば嬉しいです」
「うん。手紙で伝えておくよ」
華耶が消息を伝えてくる返信を朔夜が出している。こちらの近況と、春音の手習の成果を交えて幼子に書かせてみている。何なら春音の方が朔夜よりよほど上手い字を書く。
やっぱり龍晶に似た秀才なのだ。文武両道とは言うが、それを素の才能だけで発揮している。
十年後の姿を是非見てみたいものだが、それは叶うのだろうか。
「よく寝てるな。羨ましい」
祥大について朔夜は言って笑って見せる。
「朔夜さんは背負い過ぎなんだって、於兎さんは言ってましたよ」
敢えて避けている於兎の言葉を伝えられて、朔夜の表情は無になった。
「昔から何もかも一人で背負おうとするから、無理が出てきて結局潰れてしまうんだって。ごめんなさい、そこまで私が言う事ではないんですけど。あまりお顔が辛そうだから、つい」
虚無の目が己の足元を睨んでいたが、我に返って笑って見せた。
「於兎には敵わないなぁ、全く。その通りなんだけどさ。それに自分でうんざりしてるからここに来た訳で」
「そうですよね。来て下さって良かったです」
笑顔を向けられて、それに応じる。年下の彼らに心配されるのは気恥ずかしいが、それを繕う余裕はそれが限界だった。
祥朗から薬を受け取り、帰途へ着く。
街の中で一人になった途端、萎むように肩から力が抜けた。
きっと、体と同じで精神も何処かで成長を止めている。本当に大人なら、もっと上手く割り切って処理出来る筈だ。
止めているのではなく他人よりずっと遅いのかも知れないが。
龍晶にも同じような事を言われたっけ。生きる時間が長いだけ大人になるのも遅いんじゃないか、と。
伸び代があるなら希望もあるんだろうか。否、そんな希望は要らない。今すぐ強くなりたい。
それが出来ないのは繰り返し燈陰から叩き込まれた事ではあるが。
街の中で、迷い子になったように足を止める。
空を仰ぐと、青は霞んで見えた。
春になる。恐れていた季節が訪れる。もう時間が無い。
怖い。本当は怖くてたまらない。
この先何が待っているのか。
この手が何をするのか。
この身が、頭が、保つんだろうか。
「大丈夫」
自分に言う。
眠れないから弱気になるだけ。体も頭も弱っているから。
薬を飲めば何とかなる。少し休めれば。
まだ俺は戦える。そうでなければならない。
辛い、怖いなんて言えるか。俺が始めた戦だ。
戦だ。自分の為の。
虚しい手紙を書き終えて華耶は筆を置いた。
本当の事は元より書けない。書けば朔夜は黙ってはいない。その気持ちは嬉しいのだけど。
そうでなくとも、検閲される事は分かっている。灌王の目にも晒される手紙だ。別に取り繕う気は無いが、本音を書けばその場で捨てられるのは分かっている。
届いた手紙の、春音の字を愛しく撫でる。
上手な字を書くようになった。自分よりずっと上手だ。
父親と手習していた姿を思い出す。きっと彼も喜んでいる。
『母さまへ。春音はげんきです。さくにかたなをもらいました。まだつかってはいけないといわれてます。ごさいになったらつかいます。だいじにします』
書く事も成長した。四歳になった我が子の姿を想像して微笑む。
そして朔夜の行動の裏側を考えざるを得ない。五歳になったら使うよう言って、今渡す。
帰って来ない気だ。
深い溜息と共に頭を沈める。
「仲春…あなたの大事な人を、守ってね。お願い」
きっと言われるまでもないと思うのだが。
春音を守ってと願った。彼自身そう言ったし、実現した事も知っている。
それに朔夜まで足したら負担だろうか。霊魂にどれだけの力があるのか知らないけれど。
じゃあ自分は。
「やっと執務が終わった」
扉が開いて憎い男が入ってきた。
「ご苦労様でした」
感情無く告げる。互いの立場がそう言わせるだけ。
「手紙か」
「また戔に届けて頂けますか」
「容易い事だ。おお、これはそなたの子の字か。あの坊やがのう。子供の成長は早いものだ」
それを言いながら。
もうその精神が信じられない。そうする己に罪は全く無いと信じているのだろうか。
それとも、抱くこの身は玩具同然で、心など無いと思っているのか。
「陛下」
「なんだ?」
「後宮にお帰りにならなくて良いのですか。皇后様は待っておられると思いますが」
この身だけではないのだろう。
女は皆、己の意のままになって当然だと。
「そのような事、お前が心配せずとも良い」
肩を抱かれ、椅子から立つよう押される。
溜息を隠さず、しかし従った。
帯を解かれ、衣を剥がされて、寝台に倒される。
もう抵抗すら虚しかった。これだけ繰り返せば意味が無い。
乱暴な手が足を開く。こうして当然という仕置きだ。
本当に虚しいが、子を成せる身でなくて良かったと思った。
――きっと。
私の事なんかとっくに見放してくれているよね?
自分だけのものにしたかった私に、唯一惚れてくれた女に、こんなに易々と裏切られたのだから。
それでも良い。だからその分、朔夜を。
あなたの為だけに真っ直ぐ過ぎて、道を失っている彼を、助けてあげて欲しい――
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