月の蘇る
6
木枯らしの吹く中、北州へと戻ってきた。
祥朗一家と十和夫妻も既にこの地へと着いていた。やはり共に暮らす事になった。
華耶は変わらぬ笑顔で迎えてくれた。
「おかえり」
その言葉で、帰るべき場所に帰ってきた安堵を抱く。
「ただいま、華耶」
矢張り彼女は、帰る場所。
赤子を抱いた夫婦の姿を見つけて、朔夜は声をかけた。
「祥朗、先生が待ってるぞ。早く顔を見に行った方が良い」
笑みの無い、真剣な提案に、彼も察して頷く。
「先生の容体は…」
華耶が心配げに問う。
「うん。あまりもう長くないと自分で言ってる。お医者さんの言う事だからさ、こればっかりは」
希望的観測は出来ない。
「そっか…私もお見舞いに行きたいけど」
「華耶はここを離れない方が良い」
彼女は肩を落として頷いた。
祥朗夫妻は急ぎ都へと向かった。雪で道が閉ざされないうちに行って帰って来ねばならない。最悪、行ったきりとなっても。
道が通じる最後の時期に、行くばかりではなく来たものがあった。
「都からの使者?」
桧釐から聞いた言葉をそのまま返す。
少し考え、皮肉に口元を歪めた。
「俺をどうこうしようとするなって言ったのに」
「用件は分からんが…お前は顔を出すな。俺と燕雷とで対応する」
「引き渡せって言うなら、俺は別に行ってやっても良いけどね」
朔夜は言って、にやりと笑う。
「この機にひと暴れしてやる」
「絶対に引き渡さないからな」
冗談に包んで燕雷に返された。
今戔王府を潰す訳にはいかない。全ての計画が台無しになる。
何より、春音の立場が悪くなる。強硬手段で王位を狙ったと難癖を受ける事になる。
「大人しくしてるよ。その代わり後で話は聞かせてくれ」
「それは勿論」
燕雷が答えた時、部屋の中に親子が入ってきた。
「さくー!あそんで!」
早速春音が懐に飛び込んでくる。
「ごめんね朔夜。一緒に遊びたいって聞かなくって」
申し訳なさそうな笑みで華耶が言う。
「お、春音、私と遊ぶか?」
後ろで成り行きを見ていた波瑠沙が悪戯っぽい笑みを満開にさせて言う。
「やだー!さくがいい!」
「はあ!?なんだよこのやろ」
波瑠沙が頬を引っ張ろうと手を伸ばす。きゃっきゃと笑いながら春音が逃げる。
「仲が良いなあ」
実父が苦笑いしながら言った。
「じゃあそういう事で。話を聞いてくる」
先方は既に応接室に待たせてある。
「俺の事、いくら悪く言ったって構わないから」
朔夜はそう二人に告げた。後ろ手に二人は手を挙げて応じた。
使者の顔触れを見て二人は同時に息を飲んだ。
韋星(イセイ)。灌王の手先。
何の交渉に来たか、目的は明白だ。
その他は戔の臣下だが、結局は碑未に仕える者だ。
灌王の意図が色濃い訪問。桧釐は腹を括って席に着いた。
守るべきものは守る。
「お久しぶりですな、桧釐殿。とは言え、数日前まで都に居たと伺いましたが」
碑未の右腕と言っても良い臣である孥晋(ドシン)が口火を切った。
実質、この使者は孥晋と韋星の二人であると言っても良い。後は孥晋に仕える三下だ。
「都で話は出来なかったのか」
桧釐は孥晋に問うた。わざわざここまで来る労を厭わなかった感がある。目的の為に。
「ええ。当事者が居られなかったので」
意味深に言った孥晋の言葉を継いで、韋星ははっきりと言った。
「お迎えに上がったのです。華耶様を」
桧釐は鼻から息を吐き、不遜に言い放った。
「分からんな。何の事だ」
韋星は眉間に皺を寄せて答えた。
「よもや知らぬとは思えぬが…。華耶様は我が灌王室に迎えられる事が決まっている。亡夫の埋葬の為、一時的にこの北州へ戻るという話であった筈だが、あまりにも帰りが遅い事を心配された我が陛下がこうして迎えを寄越された。燕雷殿はその一部始終をご存知の筈だが」
名指しされた燕雷は肩を竦めて抜け抜けと言った。
「他言出来るかよ。そんな恥ずかしい話」
「何だと?」
主人の侮辱にも繋がる発言に韋星は双眸を鋭くした。
そんな事は構わず燕雷は言い放った。
「一応、若い時からあの王を知る以上はそれなりに情はあるんでね。夫を亡くしたばかりの義理の娘に手を付けようなんて、獣にも劣るような考えを他人に広めるのは良心が咎めたのさ」
「燕雷殿!」
あけすけな発言に韋星は一声威嚇した。
そんな事には動じず、彼は返した。
「だってそうだろ?焼きが回ったとしか言いようの無い醜態だ。俺は女は大概にしとけって忠告し続けてやってたんだぞ?それがこのザマだ。華耶は渡せんよ」
「貴殿の考えなど関係無い。華耶様は連れ帰る」
「どうする?桧釐。こいつら話が通じそうにないぞ」
燕雷は隣に問う。
「さてな。向こうも同じ事を思っているんだろうが」
孥晋が空咳をした。
「まだ話は途中だが」
「途中?まだ何があるって言うんだ」
眉を顰めて問うた桧釐に孥晋は言った。
「若君は都へお連れさせて頂く」
「は…?何を言っている…!?」
「先王の例もあるだろう。王位継承権の無い母子が共に在れば、要らぬ疑いを招く。この北州においては尚更だ。ならば若君は都でお育ちになった方が良い。王弟としての儀礼も身に付く」
「成程。断る」
すっぱりと桧釐は言った。
本当なら言葉ではなく刃で切りたい所だ。
「春音様を実の親である我が元で育てるのは、龍晶陛下の御遺言だ。背く事は許されない」
「ほう?その証拠は?」
「どうせ口約束だよ。わざわざ書く関係でも無かったからな」
「ならば関係無いな。貴殿が勝手に申しておるだけ」
桧釐は吐く息に目一杯の不快を込め、そして言った。
「今母子は悪魔と共に居られる」
「なんと。危険な」
「危険なのはお前らの身だよ。今ここにあいつが居たら、お前らは二、三度死んでるぞ」
孥晋は笑った。
「何だそれは。例え話か?」
「いや。これからの予測だよ」
それを合図と受け取って、孥晋は背後の部下達に目をやった。
「探せ」
男達が屋敷内に散る。桧釐は相手を睨んだ。
「やめてくれよ。俺の家を血の海にするな」
「抵抗させねば良いだろう」
「燕雷」
桧釐は横に目を流した。
無言で彼は立ち上がる。
朔夜に殺させてはならない。問題を更に難しくする。
「孥晋」
桧釐は座ったまま相手を見据え言った。
「俺達が妥協するのはお前らの命を惜しんでやっているからだ。それを頭に入れておけ」
「ほう。脅しか?」
「いや…事実だよ」
燕雷は朔夜と華耶の元へ向かった。
当然、その後をついて来る輩は居る。構わず真っ直ぐに居室へと向かう。
「朔」
扉を開けながら言った。
春音の相手をしていた朔夜がきょとんと見上げてくる。
「誰も殺すな。北州が守れなくなる」
端的に伝えられた言葉と入って来た輩を見て瞬時に察した。
「華耶様ですね。灌王が帰りを待っておいでです。行きましょう」
男達が華耶を囲もうとした。その前に波瑠沙が立ちはだかった。
「良い年して若い女を漁るような王の所へ返せるか、ばーか」
「貴様…!」
「殺さなきゃ良いんだろ?燕雷」
「大丈夫か」
この心配は多義的だ。
波瑠沙は何も持っていない。対して男達は刀を抜いた。
無論、心配は彼女の身と言うよりは。
振り下ろされた刀をちょっと身を捻って躱し、すかさず束を握るその腕を掴む。
にやっと笑いながら捻り上げる。思わぬ力に男は悲鳴を上げた。
「このアマが!!」
別の男が振り下ろしてきた刃は、届かず弾かれた。朔夜の刀だ。
逆刃にして持ち、峰を男の腹に叩き込む。相手は激しく咳き込んでその場に崩れた。
その間に波瑠沙は捻り上げた腕から取り上げた刀を構えていた。
「もう少し数を用意してくれれば楽しいのにな」
何故か残念そうに波瑠沙は言う。
「春になれば嫌ってほど叩く事になるって」
苦笑いで朔夜は応じた。
次の集団がやって来た。その中に韋星の姿もあった。
「あなたは…」
春音を抱く華耶が呟く。
「もう良いでしょう。これ以上は互いの為にならない。華耶様、あなたが約束を果たせば済む話です」
「聞くな、華耶」
厳しく朔夜が言った。
構わず韋星は続けた。
「あなたがお帰りにさえなれば、若君はこちらで変わらず養育出来るよう主人に掛け合いましょう。戔は我々に従うより無いのですから」
「韋星!やめろ!殺すぞ!」
朔夜が怒鳴る。その余韻の中で、静かに華耶は言った。
「やめて…朔夜。私の為に誰も傷つけちゃ駄目だよ」
「華耶」
見開いた目を向けられる。だが今更だ。同じ事を何度も聞いてきた。
「喧嘩はしないで下さい、皆さん。子供の前ですから」
穏やかに彼女は呼び掛ける。春音は母の言葉を真似て「けんか、めー」と言って無邪気に笑う。
波瑠沙は鼻で笑って刀を捨てた。
「しゃーねーよな。坊ちゃんの為だ」
朔夜も自ら刀を納めた。相手を鋭い目で牽制しながら。
「もう良いだろう。退がっておけ」
韋星は周りの男達に命じた。
「ごめんなさい。一晩考えさせて下さい」
華耶は灌王の臣に告げた。
「お考えになる事はありません。結論は一つです。しかし待つ事は吝(やぶさ)かではない。一晩、お待ちしております」
華耶は小さく頷いた。韋星は一礼して退室した。
「…華耶!」
朔夜が怒りを滲ませて名を呼ぶ。
「ごめん。ごめんね朔夜」
自嘲気味に彼女は言った。
「でも良いの。こうするしかない。この子の為を思えば、こうするしか…」
母に頬を擦り寄せられた春音は、不思議そうな顔をしている。
何かに当たりたい衝動を、その顔を見てぐっと堪えた。
「金の供給を止めてやると脅したら向こうは黙った。打つ手が無い訳じゃない」
桧釐はこの屋敷に集う面々に言った。
夜。
招かれざる使者達は屋敷の外で宿を取っているのだろう。朝になればまた煩いのだろうが。
「実力行使は最終手段だ。北州の独立も考えない訳ではないが、如何せんまだ準備が足りない」
「独立か…」
燕雷は天井を仰いで考えている。
朔夜にとってはとにかくまず華耶と春音だ。二人がここに残れるのなら何でも良い。
不貞腐れた顔で話を聞いてはいる。その内容が頭に入っているかどうかはともかく。
諦めている華耶の姿しか脳裏には無かった。
諦めるとは即ち、灌王を受け入れるという事だ。それが本意ではないのは分かるが、それだけは譲って欲しく無かった。友の為に。
龍晶の為だけだろうか。
自分の為。
心の底を覗けばそれが見えてくる。
別に彼女を己のものにしたい訳ではない。
二度も、自分の力不足のせいで、彼女を憎い男に汚される事が許せないのだ。
華耶は自分に対する見せしめの為に桓梠に貞操を奪われた。
同じ事を繰り返す訳にはいかない。
彼女が諦めようとも。
「朔、聞いてるか?」
燕雷に言われて顔を上げる。
「今にも殺しに行きそうな顔してんじゃねえよ」
桧釐に笑われる。
「行かないけど…行きたい」
それが本音だ。
「今殺せば、都は全力で北州を潰しに来るぞ。それを率いるのが宗温だとしてもな」
「その時はあいつは身の振り方を考えるってよ」
「間に合わんだろう。それに使者を殺したこっちが全面的に悪になる。あいつは正義に従う男だ。普通に攻めて来ると思うがな」
「だから、殺さないって」
朔夜は言って、また不貞腐れた顔で頬杖をつく。
「とにかく今はのらりくらりと追い返すのが良いだろう。そのうち諦めてくれると良いが。春になればお前は繍に行くんだろ?その前に梁巴か」
「ああ」
それは譲れない。何を置いても。
華耶を置いても?
優先順位が付けられずに居る。
「春音もな…。後宮に入れさせる訳にはいかない。龍晶様の二の舞になる」
親も、後ろ盾も無い状態で一人後宮で育てば、どうなるか分からない。
鵬岷だけが頼みの綱となるだろう。皮肉な事に。
父親のように大きな孤独を抱えながら育って欲しくはない。
突然、戸が開いた。
波瑠沙だ。腕に春音を抱いている。
「…居ないか」
やや焦りを滲ませて彼女は呟く。
「どうした?」
朔夜が問う。
返したのは、春音だった。
「かーたん、いない」
「えっ…」
絶句。
「かーたん、とおくにいっちゃう」
言いながら春音はべそをかきだした。
「泣くな。今探してやってるから。こいつらも今からみんなで探すぞ」
波瑠沙が強く言う。幼子は泣き声を引っ込めて頷いたが、泣き顔のままだ。
朔夜は何かを振り払うように首を振った。
「奴らの所だ。行って来る」
「朔!」
危惧を孕んだ燕雷の声を振り切って。
闇夜に飛び出す。もう余計な事を考えてはいられない。
華耶は俺が守る。
龍晶の為だけではない。
己が一生を懸けて果たさねばならない誓いだった。
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