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月の蘇る
  10
 北州の風はもう冬だった。
 雨粒の中に雪が混じる。もう少し気温が下がれば、辺りは一面雪景色となるだろう。
 帰って来た。
 あいつがここに居たいと望んだ場所に。
 馬上で朔夜は遺骨の入った袋を握った。
「見てるか?ここは変わってねえぞ」
 語りかける。
 国を守りたかった。とりわけ、この母の故郷を。
 必死で駆け抜けたあいつの人生の中で、それはいつも変わらず存在した信念だった。
 産まれ育った都より、己と共に在ってくれたこの街を、埋葬の地に選んだ。
 王として送られたくなかったのかも知れない。
 権威よりも実を選ぶあいつらしい。
 この街があるから戔は国として成り立つ。だから、守らねばならない。
 譲れぬ遺志を、皆で受け継ぐ。

 母娘は静かに泣きながら甥であり従兄弟である白い砂石を受け入れた。
「ごめん、別れにはさせないって言ったのに」
 朱怜(シュレイ)に以前の言葉が嘘になった事を詫びる。
 彼女は首を横に振った。
「いいえ。あの時は助けて頂いたのは確かなんですから。その後お会い出来なかった私が悪いんです。一年猶予があったのに、私に灌に行く勇気が無いばかりに」
 それは必ず生きて帰ってくると思っていたからだろう。
 まさか、こんな結末になるなんて親族である彼女達は想像もしていなかった筈だ。
「朔夜君」
 朱怜の母の黄花(オウカ)の声に振り向く。
 深々と、頭を下げられた。
「ありがとうございました。あなたの龍晶様へのご厚情、妹に代わり親族として礼を言います」
「俺は友であっただけです」
 頭を下げられる居心地の悪さに、背を向けながら。
「礼を言われるような事は何もしていません。何も出来なかった。あいつから貰うばかりで、返せなかった」
 逃げるようにあてがわれた部屋へ駆け戻った。
 波瑠沙が刀を手入れしていた。
「また泣きそうな顔してんな」
 答えず、寝台へ飛び込んだ。
「明日は晴れると良いがなあ」
 埋葬は明日と決まった。
 地面がぬかるむのは仕方ないとしても、雪で凍らねば良いのだが。
 朔夜は仰向いたまま、袋から骨片を取り出し、親指と人差し指の間に挟んで目の上に掲げた。
「なあ龍晶、お前は戔を永遠に見ててくれって言ったけど、俺はただ見てるだけの役割じゃないだろ?お前の作った戔を、俺は守らなきゃならないんだ」
 この国は既に、あいつの作った国では無くなっている。
「体が動けばお前は動いてた。俺も一緒に動いていた。もう一度、お前の夢を叶える為に。その夢はまだ、残ってる筈だよな?お前が死んだからって全て消えて終わらせて良い夢じゃないよな?だって、戔の民の為の夢だもの。皆が幸せに生きていく為の、壮大で切実な夢だろ。絶対必要だろ?…だから、俺が」
 間違ってるなら、止めてくれ。
「俺が、春音…いや龍起と共に引き継ぐ。誰に反対されても、必ず」
 掌の中に遺骨を滑らせ、握り締めた。
「朔、お前」
 波瑠沙が非難を込めて呼ぶ。
「そうすべきだと思う。お前に嫌われても、俺はいつかそうする」
 静かに返して、揺るがない目を向けた。
「もう一回あいつと立ち上がる。そうしたいんだ」
「あの子がそれを望むかどうかだろ」
「あいつはもう己の役割を分かってると思うぜ?俺があいつに刀を与えようと思う。…尤も、俺自身があいつの刃になる事を望むよ」
 波瑠沙は暫く生涯の相手を睨んでいたが、ついぞ見なかった真っ直ぐな碧眼に、何かを諦めて目を逸らした。
「嫌いにはなれないな。こういう、真っ直ぐな馬鹿」
 口の両端を引き上げ、掌の中の友を胸の袋に戻した。
「今度こそ、必ず全てを守る。それだけ強くなる。だから波瑠沙、俺を鍛えてくれ。お前にしか出来ない」
 頷き、立ち上がって。
 起き上がった朔夜と相対して。
「覚悟しとけよ?」
「お前になら、地獄に落とされても良いや」
 まだ子供のような細い顎を持ち上げて。
 誓い、確かめるように、口付けを交わした。

 白い陶器の前で、華耶は眠れぬ夜を過ごす。
 後ろで春音の健康な寝息が聞こえる。旅に疲れたお陰か、夜泣きは止まっている。
 目を閉じる。
 あなたの声が聞きたい。
 姿を見たい。
 もう一度、抱き締めて欲しい。
 願っても、虚しくて。
 汚れているから見えないんだと自嘲した。
 義父の狙いに気付いてない訳では無かったのだ。
 ただあの時は、とにかく彼の命を救う事に必死で。
 自分はどうなっても良い。とにかくあの人を死なせてはならないと、そう信じて立ち回った。
 間違ってはいなかったと思う。彼は、まだ生きるべき人。
 他人の為に己を犠牲に出来る人。だからこそ、身近な人間が守ってやらねばならない。
 朔夜だってそうした。桧釐、宗温という彼の重臣達も。皆その使命を分かっていた。
 男達は戦える。では、一番身近に居るべき自分は?
 虚しかった。いつも朔夜に置いて行かれて。待つばかりで、凶報だけ報されて、何も出来ない。
 何でもするつもりで灌に行った。目的の為なら手段を選ばない。そういう夫と同じに。
 対面した義父――灌王の狙いは分かっていた。
 それは義理の娘になるという時、初めて対面した時から。
 近くで顔を見たいと乞われて、間近で誰にも聞こえぬ声で言われた。
 孕まぬとは、便利な身よの、と。
 あの時は聞き間違いだと己を納得させた。彼と朔夜が待っている、その事しか頭に無かったから。
 灌で再び対面して、その言葉を思い出した。
 この人は後継争いに膿んでいる。嫡男と皇后、その息子、そして数多の寵姫達の争いに。
 身から出た錆だとも自覚せずに、ただただ喧騒を遠ざけたい一心で、また新たな女を得るのだ。
 だから――孕まぬ女は都合が良い。
 灌から苴に向かう道すがら、二人きりの馬車の中でその約束を取り交わした。
 その時は自信があった。彼の死後、という条件だったからだ。
 死なせるつもりは無い。当然だ。
 そうだとしても、この王より後の事だろう。そうすれば約束は反故となる。
 もし、万一、この騒動の中で彼が命を落としたならば。
 その時は自分も一緒に死ぬ。元よりその覚悟だった。
 甘かった。
 まさか彼から全てを取り上げる条件を用意しているとは。
 それでも良いと、あの瞬間思ってしまった。そのまま彼の前に飛び出した。
 本気で死のうと思った。共に。
 永遠の、安らぎの場所へ。
 優しい彼がその願いを聞き届ける筈が無いと、どうして分からなかったのか。
 後悔はその瞬間だけ。
 私が全て奪ってしまった。
 あの時、壁の向こうで喉を突いておけば良かったのだ。そうすれば彼も迷わなかった。
 間違っているとは思う。実際、この一年はそうしなくて良かったと思っていた。それがお互い同じ思いだと知って、嬉しかった。
 だけど。運命は意地悪だ。
 もう死ねなかった。彼の願いを聞いて、目の前に我が子が居て。
 選べなかった。あの王の思惑通りに。
 そして、永遠に彼だけのものにしたかった、この身も。
 小さく息を吐く。
 選べない。このままでは皆に迷惑を掛ける。
 朔夜は見放してくれる。それで良い。
 彼が居ては事は大きくなる。それは望まない。
 自分一人が我慢すれば良いのだから。
 否。
 一人じゃないか。
「仲春…ごめんね」
 全て分かって自ら罠に飛び込んだ。
 でも救いは、あなたに汚れた身を抱かせなかった事だ。それだけはあの王は守ってくれた。
「ごめんね。あなたの優しさは、忘れない」
 もう一度、抱き締めて欲しい。
 虚しい願いは、涙と共に流れていった。

 願いは天に通じた。
 青い、抜けるような空。そこに細長い雲が一頭の白龍のように駆け抜けている。
 北州の人達が墓地に集った。黄浜(コウヒン)とも久しぶりに顔を合わせた。その顔は泣き顔でくしゃくしゃだったが。
 皆が泣いている。その中で、朔夜は一人、不思議な清々しさに包まれていた。
 あいつは俺の決断に頷いてくれている。
 この空を見ると、そう思えた。
 俺は刃となる。お前の夢の為に。
 それが叶って初めて、刀を置けるんだ。
 俺達が目指していたのは、戦無き世なのだから。
 戦が世の中から消えた時、初めて戦場の悪魔も消える。
 どうせなら自分の為に戦えよと、お前は言ってくれた。
 だから俺は、永遠に近い時をかけて戦える。
 戦無き地平を、人々が幸せに暮らせるそんな世界を、お前と目指して。
「さく!」
 姿を見つけたらしい春音が走り寄って来て、朔夜はその身を受け止め抱き上げた。
「さく、とーとはどこ?」
 朔夜は笑って空を指差した。
「あれだ。あの龍。空からお前を見てんだ」
「りゅう。とーとはりゅうしょう。おれはりゅうき。おうさまだね」
「ああ。そうだよ。お前は王様になる」
 良いよな、龍晶。
 俺がこの子を守るから。
 もう一度立ち上がる。駆け抜ける。
 お前とそうしたように。
「良い天気だね」
 華耶が隣に並んだ。
 彼女も、空を見ながら。
「かーたん、あれ、とーと」
 小さな手が指す雲を見て、微笑む。
「本当だ。あそこに綺麗な龍が居る」
 視線を下ろし、朔夜を見つめて。
「私が間違ってた。ごめん」
「…謝る事じゃない」
 彼女は頷いて、我が子の頬を撫でた。
 擽ったそうに春音は笑う。
「この龍は、いつ起きるかな」
 その名に込められた龍晶の意図を知った時だろう。
 目覚めた龍は、必ずこの国を豊かにする。
「何年かかるか分からないけど、俺はこいつを起こしに必ず戻るよ」
 華耶は目を合わせず、返した。
「待ってる。この子を、お願いね」
 その言葉に感じた小さな違和感と。
 彼女の悲しげでありながら意を決した横顔と。
「華耶…」
「華耶様!」
 桧釐に呼ばれて彼女は行ってしまった。
 あいつにそっくりな母親の像の前で。
 男達が墓石の蓋を開ける。
 中には既に、骨壺が一つ。
 桧釐は預かっていた骨壺を、恭しく華耶へ手渡した。
 彼女は陶器の肌に頬を寄せて。
 瞼を閉じる。
――貴女の居る場所が、俺の帰る場所。
 必ず帰る。
 貴女の元へ。
「仲春…」
 最後に抱き合ったあの時から時は止まった。
 永遠に止まっていても、それで良い。
 もう何も見たくない。あなたの居ない世界など。
 それでも生きてゆく。
 それがあなたの望みであれば。
 生きて、地獄の中で生きていったその先に、あなたがそのままの姿で帰ってきてくれる事を信じている。
「さよなら」
 涙と共に遺骨を彼の母の隣に置いた。
 いつか、私もここで、共に。
 それも叶わぬ願いだろうか。
「先王の腐敗政治を断ち切り、この北州を復興し、戔を救った英雄たる龍晶前陛下の冥福をお祈り下さい」
 桧釐の大音声で、人々は目を閉じた。
 それだけの言葉では語れぬ功績がある事を、言った本人が一番知っている。
 だが全て葬られた。この手でそうせねばならなかった。
 無念。本人もそれは悔しかっただろう。
 何の為に地獄の底から這い上がってきたのか。多くの血を流して。
 何の為に――その答えは知れている。
 あの、幼少期の温かな暮らしを、純粋な笑みを、取り戻す為だった。
 叶ったのだ。それは。
 だから、悔いは無いのだろう。
 桧釐自身も悔いは無い。それを取り戻させた。だから満足している。
 無念は、その時間があまりにも短かった事。
「朔夜」
「ん?」
 春音を抱いたまま振り返る。
「後でまた太刀筋を見てやる。出立までに直れば良いんだが」
「ああ。頼む」
 こいつの刃に、己の無念を託す。
「はーさ」
 人が徐々に少なくなっていく丘で、春音は波瑠沙を見つけて駆け寄った。
 北州の人々に遠慮して彼女は屋敷で待ち、終わる頃に迎えに来たのだ。
 春音を抱き上げて、丘の様子を見る。
 墓の前で、華耶は未だ立ち尽くしている。
 朔夜はその横顔をじっと見ていた。
 その横に近寄って。
「あ、波瑠沙」
「何やってんだよ、お前」
「え?」
 何やってんだの意図が本気で分からない。
 その答えは、もっと予想の斜め上だった。
「好きな女が泣いてんのに、横で突っ立ってる奴があるか」
 目を瞬(しばた)いて。
「…本気?」
「冗談でこんな事言うか。春音連れて先に行っとくぞ」
 言葉通り、幼子を抱いて丘を降りてしまった。
 公認を頂いてしまった。寧ろ背中を押された。
 二人きりになった丘で。
「…華耶」
 あいつはそれを望んでいたと、彼女の口から聞かされたから。
 それだけじゃない。責任を持てと、本人の口から何度も言われてきたから。
 そっと、背中に手を回した。
 肩の上に彼女の腕が乗り、頭をくっつけて。
 嗚咽を耳元で聞き、溢れる涙を浴びながら。
「二人で待とう。あいつが帰ってくる日を」
 華耶は頷いた。
「朔夜が一緒に待ってくれるなら」
 一人で待たされるのは、もう辛い。
「俺も、華耶が居てくれるなら、この世界で待っていられる」
 なあ龍晶。
 俺にお前の代わりは出来ないよ。
 華耶にとってはお前だけ。
 だから頼む、帰ってきてくれ。
 俺に託すなんて無責任な事言わずに、帰って来いよ――
 丘の上を風が駆け抜けていった。
 空の白龍はいつしか形を崩して消えていた。


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