月の蘇る
6
夲椀の事があるからと、華耶は城に行く日を延べた。
確かにそれどころでは無くなった。長屋は皆こぞって母子の世話を焼いている。
帰国は彼女の体が回復してからという事になるだろう。
新しく産まれた命は皆の希望だった。
朔夜はその輪に入れず、遠巻きに見ていた。
人の命を奪う自分が、まだ触れるだけで壊れそうな命に近付く事が怖かった。
ただ無心に刀を振る。
早く決着を付けたいと願う気持ちは変わらない。
「さく」
幼い声に振り返る。
祥大に会ってくると聞いていた春音が、縁側から見ている。
「見たか?お前の弟分」
問うてやると、こくりと頷く。
「ちっちゃかった」
「お前もそんなだったよ」
あの日を思い出して、やっぱり戸惑い恐れていたあいつの顔が浮かぶ。
あの時は親子である事なんて、微塵も信じてなかっただろう。そうするのだと周囲に担がれただけだったのだから。
ここに来て、一年間だけだったけど、確かに二人は親子となった。
命を捨てる所まで行って、帰ってきた、その果てに手に入れた絆だった。
守ってやりたかった。
頭を振る。まだ後悔に塗れている。早く切り替えねば。
「さく、しゅんおんもやりたい」
「ん?何を?」
縁側から後ろ向きに降りてきて、とたとたと走り寄ってくる。
小さな指で刀を差した。
「これは駄目。危ないから」
「やーだ。やるもん」
「我儘言うな。母さんに怒られるぞ」
「やーだー」
「もー」
刀を持つ手で器用に頭を掻く。
とりあえず危険な刃は一旦鞘に納めた。
辺りを見回して、柿の木に目をやる。
今年もたわわに実を付けている。
そこから手頃な枝を一本拝借した。子供の手にも握れるくらいの太さの。
小刀で少し表面を削り、怪我しないようにして。
「ほら。これが刀だ」
わあい、と素直に喜ぶ。
自分は木刀を取りに動いた。そう言えば道場にも随分行ってねえなと思いつつ。
あの日、行かなければ。
無意識に動きが止まっていた。
その背中を枝で叩かれた。
「あ、こら!人を叩くもんじゃねえぞ!取り上げるぞ!?」
咄嗟に怒る。春音は笑っていたが、朔夜の顔が本気だと分かるとしゅんとした。
幼子に相対して、息を吐く。別にこいつに怒っている訳じゃない。
自分自身に言った。
「刀は他人を傷付ける為に持つもんじゃない。出来れば持たない方が良いんだ。お前の父さんはそれを望んでる。でも、それでも持たなきゃいけない時があるんだ。その時の為に正しく刀を振れるようにならなきゃならない。大事な誰かを守る為に」
小さな口を尖らせて聞き、春音は「あい」と返事した。
その頭を撫でてやり、今度こそ木刀を手にして。
改めて考える。そう言えばこいつは桧釐の血が流れているんだった、と。
あの悪餓鬼の大将っぷりを受け継ぐのだろうか。だとしたら刀の腕も相当になる。
自分の中の血が疼いた。鍛えてやれば面白いだろう。
燈陰と同じ思考に苦笑して。
「やろーよ、さく」
この身長差でどうやって打ち合えば良いんだと頭を悩ます所だ。とりあえず差し出した木刀を枝で叩かせる。
それだけで楽しいらしく、際限なくその遊びは続いた。
時々押し返してやる。その力に負けて後ろにこける。それでも向かってくる。
それだけで、良い使い手になると手応えを感じながら。
龍晶は嫌がるだろうか。そうだろう。我が子が戦士になる事など望む筈が無い。
だが、いざという時に刀を使えるに越した事は無い。そうすれば、恐らく複雑になっていくであろう彼の人生の中で、父の末期(まつご)を繰り返す事は無いと思う。
あいつは、反撃の術があったとしても、斬られていたような気もするが。
涛虎(トウコ)に斬られた自分には何も文句は言えない。
運命を受け入れた。それだけの事だろう。
「さくー?」
また涙が落ちていた。自分に苦笑して、空いた手で頭を掻き毟る。
「今日はここまで。お前に付き合ってたら、自分の事が出来ねえんだよ」
幼子に悪態を吐いて立ち上がる。
「あしたまたやる?」
「そうだな。また」
これでは習慣化してしまうなと再度苦笑する。
「わかった」
大人しく春音は引き下がる。朔夜は不要になった木刀を置こうとして、思い直した。
子供の前で斬れる刃を抜くのは気が引けた。万一の事があってはならない。
木刀で基礎中の基礎的な素振りをしながら、時々春音を窺い見る。
縁側に自力でよじ登った彼は、じっと朔夜の動きを見ている。
三つ子の魂とは言うけれど。
こいつは本気なのかも知れない。
一体、どういう人生を歩もうと言うのか。
お前の父の仇は俺が貰うぞ、そう腹の中で告げた。
「朔夜」
華耶の声に振り返る。
「ありがとうね。春音の相手をしてくれてたでしょ」
動きを止めて彼女に向き合った。
温かに笑う彼女に対して、顔に笑みは無い。
今持った危惧と期待を、彼女に告げておきたかった。
「こいつは刀を持つ事になると思う」
「春音が?」
頷く。真剣な顔で。
「今ならまだ引き返せる。…どうする?」
彼女の視線は宙を漂い、我が子へと向いた。
無邪気な目と向き合う。
「なるようにしかならないんじゃないかな」
決して投げやりに言っているようには聞こえないが。
彼女は縁側へと動いて息子を抱き上げ、膝へ乗せた。
「朔兄ちゃんと遊ぶの楽しかった?」
春音は笑顔で頷く。
「あしたまたやるー!」
「そっか。楽しいんだね」
その笑みを、そのまま朔夜に向ける。
「朔夜さえ良ければ、相手をしてあげてくれる?」
笑い返せず、見つめ返す。
「…良いのか?」
「お願い。それがこの子の為だと思う」
「あいつは嫌がると思うけど」
「そうかな?彼はきっと、こう言うと思う」
華耶は夫の怜悧な表情と口調を真似て。
「やるなら誰よりも強くしろ」
そしてにこりと笑う。
朔夜も流石にちょっと笑って、木刀を肩に担いだ。
「強くなると思うよ」
「転んでも転んでも立ち向かうの、小さい頃の朔夜みたいだった」
「こんなに小さくなかったけど」
「嘘。朔夜は五歳でもこのくらいだった」
「そんなに小さいかなぁ」
眉間に皺を寄せて返し、華耶が居るならもう大丈夫だろうと木刀を置いた。
刃を抜く。と、春音が首を伸ばすようにそこへ惹きつけられ、目の輝きが増した。
憧れ。この、凶器に対して。
「さく、いいなあ」
そのまま言葉に出る。
「大人になったらな」
なるべく素っ気なく返して、華耶を窺い見る。
彼女は消えていた笑みを急いで戻し、子に言った。
「そうよ。良い子にしてないと、あげられないからね?」
「いいこにしてたらくれる?いつ?」
「朔夜はいつ頃だったかな」
「華耶」
厳しく彼女の名を呼ぶ。
「龍晶も言ってたけどさ…俺も同じ事を言う。"俺のようにはならせるな"」
笑みの消えた彼女の顔を見ていられなくて、別の場所に移ろうと足を踏み出した。
「何か夢中になる事をさせてあげたいの」
朔夜の足を止めようと華耶は言った。
「夢中になって…何もかも忘れられるもの」
「何を…忘れなきゃならない?」
「朔夜を責めるつもりじゃないけど。でもやっぱり…全然影響が無い訳じゃないから」
見てしまった、見せたくなかった、あの光景の。
朔夜は吐く息と共に肩を落とした。
「責任取れって事だよな」
「そんなつもりじゃない。本当に。春音は朔夜が大好きだから、お父さんのようになってくれたら嬉しいと思うだけ」
肩越しに振り向いた目は、またあの日のように、虚無だ。
「無理だよ、華耶」
再び歩き出しながら。
「北州に帰れば桧釐が居る。あいつに頼むべき事だろ。そんなの」
「そう言ってまた遠くに行ってしまうんでしょ!?」
鋭い叫び声。
やっと彼女の本意が分かった。否、ずっと分かってはいた。
応えられないから、逃げているだけ。
変わらない。変われない。
「繍に行くなって?それこそ無理だよ」
殆ど、睨むように。
「誰が何を言ったって、止めるつもり無いから」
「朔夜…!」
もう足を止める事は無かった。
長屋の裏手に回り込む。姿は消えた。
「悪いな、華耶。あの馬鹿」
波瑠沙が物陰から出てきて言った。
「聞いてたの?」
「うん。済まんな、加勢すれば良かったんだろうけど、あいつの気持ちも分かるから」
「…私にだけ分からない」
「それが良いんだよ。命のやり取りをする人生なんざ、知るもんじゃない」
華耶は目を見開いて波瑠沙を見、そして小さな溜息と共に息子へ目を落とした。
疲れたのか、眠そうにしている。
夜はよく寝てないせいだ。夜泣きが続いている。元々よく夜泣きをする子だったけど、あの日以来またぶり返した。
忘れさせてあげたい。これは親心だ。
「あなたも朔夜も、その道を選んだ事で辛い目に遭ってきたんだよね」
「そうだなあ。私だって普通に大人しく出来てりゃ今頃どこか良い所の奥方様になってたんだろうけど」
冗談めかした言葉に華耶は複雑な笑みを見せた。
「でも後悔はしてないよ。他の道なんて選べなかったし。想像してみろ、私が良い服を着て扇子片手にお上品に笑いながら男の酌をするとか、出来ると思うか?絶対無理だろ」
「波瑠沙さん、自分で言うほど無理じゃないよ」
「うん、まあ、その酒に毒を仕込んであれば私もやるんだが」
どうにも思考が物騒だ。
「ま、そういう世界だよ。私と朔が生きてるのは」
「春音をそっちに行かせたくないから」
「そう」
華耶は黙って息子の頭を撫でる。
さらさらとした柔らかな黒髪。それだけでも彼を思い出す。
「ただしそれは朔夜の意見な。私はちょっと違う」
「そうなの?」
「やってみるだけやらせてみたら?そこに才能があるから朔は恐れたんだろ。なら寧ろ、可能性はある」
「可能性?」
「刀一本で道を切り開いていく可能性だよ」
そうしてきた彼女の自信に溢れた笑みがある。
「朔も本当は分かっている筈だ。こいつの運命だと、丸腰であるより武器は持ってた方が良い。親父のようにしたくなければな」
見開き、潤んでいく華耶の目を見ながら彼女は続けた。
「朔は龍晶の死に責任を感じてるから、これ以上背負えないだけだよ。今はまだ無理だ。でもそのうち、笑ってこいつの相手をするようになってるよ。私はそんな気がする」
近い未来の、二人の笑顔を想像する。
朔夜はきっとこの子に己の全てを教えるだろう。強くする為に。
龍晶との約束だ。干戈の中でも生き残れる程に、強く。
「そっか…。そうだと良いな」
波瑠沙は頷いて、庭に出ながら言った。
「繍行きは見逃してやってくれ。私が責任持って生きて帰す」
「怖い国だよ、あそこは」
「そうだよな。華耶はそれをよく知ってるからだよな」
振り向いて、太陽のような笑みで。
「でも、この私が居るからには大丈夫。二人で刀持ってりゃ最強なんだよ。お前にも見せてやりたい」
華耶は微笑んで頷いた。
納得して貰えたと見て、波瑠沙は『あの馬鹿』の後を追った。
長屋の裏に回り込む、その途中に。
壁にもたれて座り込んでいた。
「朔?」
項垂れた頭から、細く声が返った。
「なんか…変で」
苦しげに息を継ぐ。波瑠沙は横に座って頭を起こさせた。
熱い。熱がある。虚ろな目が涙を溜めて己を見る。
「体を疎かにし過ぎて逆襲されてんだよ、お前」
熱を上げられるだけの体力を体に与えたという事でもあるだろう。
波瑠沙は小柄な体を担ぎ上げた。
「華耶達に見られないように…」
背中からの小さな願いに、やれやれと思いながら。
裏手側から回り込み、濡れ縁から直接中へ入る。
寝かせて、横に胡座をかいて。
「華耶をどうしたいんだ、お前は」
辛そうな目が虚空を彷徨う。
「近くに居て守ってやりたいのか、突き放して彼女の人生を送らせたいのか。どっちなんだよ」
「…俺には守れない」
震える声で、朔夜は言った。
「守れないどころか、傷付けるだけだから。近くに居ても」
波瑠沙は溜息を吐いたが、ややあってその口を吊り上げた。
「だから私を選んだんだよな」
朔夜は小さく顎を引いた。
そして手を伸ばす。助けを求め縋る手を。
「…寒い」
震える体を抱いてやる。縋り付く背中を撫でて。
「私ならお前の弱みを全部抱えて共に戦ってやれる。それを期待してるんだろ?任せとけよ」
治そうと心を決めただけで、どの傷もまだ治ってはいない。裂けたままの傷口を撫でるように。
「大丈夫だ。いつかは、全部落ち着くさ…」
包まれたまま朦朧とした意識で夢を見る。
遠去かる背中。
霧の向こうに霞んでゆく。
「待って…」
願ってもあいつは足を止めない。
「待って龍晶、俺も…」
肩越しに振り返って。
にやりと、悪く笑って。
消えた。
「俺も、逝きたい…」
自分の泣き声で目が覚めた。
波瑠沙に抱えられて。その中で。
「ついでに泣けば?心ゆくまで泣いておけよ」
促されて。
声を上げて泣いた。体面も憎しみも後悔も捨てて。ただ悲しくて泣いた。
置いて行かれるしか、もう無いのだと分かって。
そうせねばならない未来が辛くて。
守らねばならない約束。永遠は矢張り呪いの言葉。
だけど、あいつの、希望。
「私はお前を独りにはしない」
波瑠沙の言葉に、縋った。
「絶対に。置いては行かないからな…」
俺も、と。
胸の中で呟き、眠った。
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