[携帯モード] [URL送信]

月の蘇る
  5
 丸一日、昏々と眠った。
 夢も見ずに。常日頃魘される悪夢すら見なかった。
 気付いたら夕暮れ時で。
 それが寝始めたその日ではないと聞かされて、呆然とした。
「体は正直なんだよ。お前がどう誤魔化そうとしたって、限界だったんだ」
「そんな事ない…」
「まだ認めねえのか。まあ良いけどな。次は飯だ。この波瑠沙様が作ってやるから食えよ」
「まだ食欲が…」
 言い訳は許して貰えず、むずと首根っこを掴まれた。
「土間で見てろ」
「ここで大人しく待ってるって!なあ、聞けよ!?」
 自由が与えられず、引きこもっていた部屋から引き摺り出される。
 まだ夕刻の事だ。皆の視線を浴びる。
「あら朔夜。おはよう」
 華耶が当然のように目覚めの挨拶を口にする。
「眠り姫が漸くお目覚めになったか」
 燕雷に揶揄われる。
「さく!」
 春音が纏わりついてくる。
 そのどれにも応える気になれず、土間に繋がる上り框に座って背中を丸めた。
 その背中を春音は勝手に登って遊ぶ。
 波瑠沙はそんな彼を放っておいて夕飯の支度を始めた。
 彼女がこうした理由は解る。一人にさせられないからだ。
 ある時期の龍晶と同じだ。何をするか分からない。
 実際に、現実の傷を増やしたい気はあった。ただ息をしているだけでひりひりと痛む心より、表面上の痛みの方が何倍もマシで、紛らわしたかった。
 眠っている間に傷跡は消えている。
 その手首を握って膝を抱え、その中に頭を落とし込むようにして。
 なるべく何も見ずに待つ。
 見てしまうと、この建物にはあいつとの記憶がそこここに埋まっていて。
 それが不在感をますます掻き立てられる。辛かった。
「春音、朔兄ちゃんの背中をとんとんしてあげて」
 華耶の声が隣に。
 小さな手が、母に言われた通りに動く。
「さくー。げんき、だして」
 小さく息を吐いて、腕の中で言う。
「俺は元気だよ。大丈夫」
「強がらないの」
 窘める幼馴染の声。珍しい事で、少し顔を上げて彼女の表情を確かめた。
 怒っている訳ではない。微笑んでいる。
 失ったものは同じ筈なのに。
「焦らなくて良いから。納得するまで悲しめば良い。朔夜がまた自然に前を向けるの、私達は待ってる」
 彼女の顔を見ながら、膝の上に重苦しい頭を置いて。
 目を閉じる。まだ何も見たくない。見れない。だけど。
 闇の中でも温もりは感じられる。
「おら、出来たぞ。食え」
 波瑠沙が出してきたのは北方の料理なのだと思われる、菜と肉が煮込まれたものだ。そこに米も混ぜてあるのは彼女の工夫だろう。
 同じものをよそって華耶や春音、燕雷らにも分ける。
 自然と皆が朔夜の周りに集まり、思い思いの場所に座って、いただきますと食べ始めた。
 朔夜ものろのろと匙を動かした。
「どうだ?美味いだろ」
 隣から自信満々に訊いてくる。
 朔夜は頷いた。
「うん…美味い」
「お前な、美味いんだったらもうちょっとそういう顔して食えや!」
 理不尽に怒られて目をまん丸にする。
「華耶には笑ったのに」
 むくれられて、焦りつつどうにか笑おうにも上手くいかない。
「波瑠沙さんには愛想笑いしなくて良い関係なんだよ」
 反対側から華耶が救いの手を差し伸べた。
「朔夜が波瑠沙さんに向ける笑顔は、本物ばっかりだから」
 ちらりと波瑠沙の目が向けられる。そして悪戯っぽく細められた。
「そういうのを甘えって言うんだよ、知ってたか?お前」
「えっ…えっと、ごめん…」
「謝るなっての」
 きょとんとしてしまう。
 にやりと波瑠沙は笑って華耶に言った。
「あんまりこいつに優しくし過ぎるのも考えものだぞ?本当なら、こいつがお前を慰めなきゃならなかったのに」
「そっかあ。貴重な機会を逃しちゃったんだね、私」
「ぇええ、ごめん!華耶!ほんとごめん!」
「なんか私より必死なんだけど」
「良いの。謝らないの、朔夜」
 申し合わせたように二人、同じ事を言う。
 勿論それは、あいつの言葉。
 朔夜は泣き笑いになった。
 抉られる心の痛みとは別の、締め付けられる感覚。
 二人が愛おしい。
 これからの自分が守っていくべき彼女ら。
 それと。
「さく、げんきになった。あそぼ」
「まだよ春音。まずちゃんと食べてから」
「あーい」
 聞き分け良く食事を続ける。
「お前は食ったら風呂に入れよ。何日入ってないんだよ。鼻の良い私への嫌がらせか」
「っ…ごめん!!」
 あの日からそんな所まで気が回らなかった。
「お前自身の匂いならいくらでも嗅いでやるけどさ、血生臭いまんまなんだよな」
 珠音の血も浴びてそのままなのだ。
 朔夜は改めて反省した。
「ごめんなさい。ちゃんと人間らしい生活します」
「分かりゃ良いんだよ。時間かかり過ぎだけど」
 言って、いち早く食べ終わった椀を置いた。
「沸かして来る。ちょいと待ってろ」
 彼女が去った後、くすくす笑う華耶に真顔で訊く。
「臭い?」
「ううん。私は全然」
「良かった…」
 やっぱり野生並みの波瑠沙の鼻だからだ。
「顔色良くなってきたね。波瑠沙さんのお陰だわ」
「うん…」
「良かったね。素敵な人を見つけられて」
「…うん」
 それは素直に頷いた。
 いつしか長屋の光景はいつもの光景になっている。
 血に汚れ悲しみに暮れて見えていたのは、自分だけなのか。
 もしかしたら今にもそこの戸が開いて、あいつは顔を出すかも知れない。
 いつまで騙されてんだよお前、間抜けだな。そう悪い笑みで言いながら。
「華耶」
「なに?」
「ありがとう。…いろいろ」
「それは波瑠沙さんに先に言うべきだよ」
「そっか。じゃあ、内緒で」
 春音が食べ終わり、鞠を手に戻ってきた。
「あそぼ」
 受け取った鞠を、軽く投げて渡す。
 一年前は一回一回転がっていたが、もう上手く受け取れるようになっている。
 時間は進んでいる。それぞれに、変化を齎しながら。
「朔夜」
 同じ動きを繰り返しながら彼女の言葉を待った。
「明日にでも王宮に行こうと思う。義父上にお暇(いとま)の挨拶をしなきゃ。戔に帰る為に」
 朔夜は春音に鞠を投げ返し、華耶にも言葉を返した。
「俺も行く」
 彼女は微笑む。
「そうしてくれると嬉しい。でも無理しないでね」
「ああ。もう大丈夫だと思う」
 彼女を守ると決めた強い目が戻ってきている。
「俺も行くからな?お前だけに任せとくのは些か不安だ」
 燕雷に言われて、春音ごしに不満の目を向けた。
「何が不安なんだよ」
 投げられた鞠が体の横を擦り抜けて、土間に落ち転がる。
「あー、さく。とって」
 言われるまでもなく取りに動いていたが。
 拾った鞠を、春音の向こうに投げた。
 燕雷が片手で受け止める。
「下手に動くなよ。俺が波瑠沙に恨まれる」
 彼は言いながら春音に鞠を返した。
「動かねえよ。まだ」
「証拠を探らなきゃな」
「ああ。…出て来るとも思えないけど」
 軽く首を横に振って、今度こそきちんと鞠を受け止めて。
「いや、まだ灌はどうでも良い。華耶さえ守れれば。俺にとってはまず繍だ」
「遠い方から片付けるのか」
「一瞬でも長くあの野郎が生きてるのが許せねえんだよ」
「あまり物騒な事を子供の前で言うなよ」
 朔夜は肩を竦めて華耶に謝った。
「ごめん」
 彼女は春音に目をやって何も返さなかった。
「風呂沸いたぞ。入れ!」
 波瑠沙が戻ってきて語気荒く命令。
 朔夜は従うしかなく立ち上がる。
 一人風呂場へ入る。波瑠沙は火の調整をすべく壁一つ隔てた向こうに居る。
 風呂釜に手を付けて、心地よい熱さを確認する。
「良い湯加減だよ波瑠沙。ありがとう。こっち来ない?」
「珍しくお誘いか?」
「だって、臭いが流れてるかどうか、お前の鼻で確認して貰わなきゃ」
「確かに。背中も流してやらなきゃならないし?」
 窓越しに彼女の顔が覗いて、にやっと笑ってその場を離れた。
 回り込んで来るのだろう。その間に頭から湯を被る。
 伸びた銀髪が体に張り付く。そろそろ切っても良いかなと考えつつ。
 するりと、後ろから体に腕が回された。
 背中に密着する彼女の肌を感じながら。
「…波瑠沙」
 胸の前で交差する腕をそっと掴む。
「ありがとう。…お前が居るから、もう寂しくない」
「嘘つけ。寂しい癖に」
「あいつの事を考えるとそれはまだそうなんだけど。でも独りじゃないから救われてる。お前が居なきゃ死んでた。それか悪魔になって暴走してた」
「それは知ってたよ」
 見上げた顔に、覆い被さってきた唇を受けて。
 このまま、生きていたいと。
 やっと、そう思えた。
 自分の幸せを棒に振るなと、あいつに怒られた。だからそれが正しいのだと思う。
「その前に、だ。背中流すぞ」
「あ、うん。頼む」
 血生臭いまま抱かせる訳にもいかない。
 あらかた体を洗い終えた所へ。
「波瑠沙さん!ごめん!!手伝って!!」
 華耶の焦る叫び声。緊急事態だ。
「どうした!?」
「夲椀が産気づいたの!産まれる!!」
「何!?」
 そこにあった盥を引っ掴んで湯船からざぶりと掬って。
 そのまま走り出しそうになり、ああ、と思い出したかのように衣を纏う。
「俺も何か手伝う!」
「馬鹿!何も出来ねえよ!風呂入っとけ!」
「あ…はい」
 頭を冷やされて、ばたばたと去っていく彼女を見送った。
 言われた通り大人しく風呂へ浸かった。
 一人になって、ちょっと笑ってしまう。
 何も出来ない自分が却って清々しい。
 強がっても、虚勢を張っても、所詮。
 久しぶりに水中へと頭から潜って、水面を見上げた。
 銀髪がゆらゆらと絡み合う。その向こうの世界はぼやけ滲んで少し遠い。
 この中なら、泣いていても分からない。
 でももう、涙は出尽くしたようだ。
 前を向こう。それを待っていてくれる人達の為に。
 走り出せ。もう一度。その向こうに居るあいつの為に。
 きっといつか辿り着ける。
 「またな」の、その先へ。

 夲椀が苦心の果てに産んだ子は、男の子だった。
 里から呼んだ産婆が取り上げ、母が抱き、手伝った女達が覗き込む。
「可愛いね」
 華耶が自然と微笑んで言った。
 夲椀が息を吐きながら、口元に笑みを浮かべ頷く。
 波瑠沙は目を丸くして、こういうものなのかと言わんばかりに。
 十和が父親を招き寄せた。
「祥朗、あなたもお父さんですよ」
 彼もまた、あの日から乾く事のない目を瞬かせて。
 小さな、小さな命を抱いて、また泣いた。
「これで母上様とお兄様に孝行が出来ましたね」
 十和の言葉に頷いて、まだ完全には出せぬ声で妻にありがとうと頭を下げた。
 再び母の手に戻された赤子は、乳を探り、元気よく吸い出した。
「ねえ、祥朗。実は、預かり物があって」
 華耶は微笑んで懐から紙を取り出した。
「ほっとしちゃった。女の子の名前はまだ考えてる途中だったから」
 言いながら差し出された紙を、祥朗は受け取って開く。
 涙で濡れた目が見開いた。
「兄様…」
 呆然と、呟く。
 紙には、『祥大(ショウタイ)』と。
 約束した、子供の名前。
 その横に小さく、『我が弟に捧ぐ』と。
「あれこれ考えて、幸の多い名前にしたいって。だから、その名前」
 紙面を見せられた夲椀も、泣き、笑った。
「ありがとうございます。華耶様、龍晶様…」
「私は横で見てただけ。彼がぶつぶつ言いながら考えてるの見てて、楽しかったから」
 皆で笑う。
 幸せはまだ、ここにある。
「気が早いかもだけど」
 華耶は微笑みながら言った。
「春音と祥大、仲春と祥朗みたいになれば良いよね」
 祥朗が深く頷いた。
 上げた顔に、晴れ晴れとした笑みがあった。
「なりますよ、きっと」
 夲椀が子の頭を慈しみ撫でながら応える。
「同じように三歳差ですね。ただの偶然ではないでしょう」
 十和の気付きに一同が顔を見合わせる。
「運命、なのかな」
 華耶が呟いて、そっと戸を開けた。
 暮れた空に、星が光る。
 空に向けて告げた。
「仲春、あなたの弟の子は男の子だったよ。私達に幸せを届けてくれる、可愛い子が産まれたよ」
 瞬く光は、優しく笑っているようだった。

 夜半、部屋に戻ると、寝息が聞こえた。
「…寝てんのかよ」
 苦笑いで呟いて、まあ良いかと布団を持ち上げ隣に潜り込む。
 薬無しで眠れるようになったのなら、それも進歩だと思って。
「…っ寝てない、よっ!」
 がばりと跳ね起きた。大焦りなのは見え透いている。
「すやすや良い寝息が聞こえたけど」
「寝てない!ちゃんと待ってた!」
「嘘を吐け。丸一日寝た癖にうたた寝かよ」
「だってやる事無いし、眠かったし」
「寝てたんだな」
「…はい。ごめんなさい」
 素直に頭を下げる。
 上げた顔を波瑠沙は笑った。
 朔夜も笑う。愛すべき日常を。
「やっと笑った」
 言いながらその笑顔を指先で持ち上げ、口で蓋をした。
 離しながら教えてやった。
「男の子だったよ。名前は祥大だ。龍晶が考えてた」
「あいつが?」
「約束してたんだって。名前を付ける事」
「…そっか」
 微笑んで。
「良かった。またあいつの家族が増えるんだな」
「ああ。なんせもう、春音と兄弟になる事が運命付けられてるからな」
「そっか。そりゃ良いや」
 笑って。見つめ合って。
「続きと行くか」
「波瑠沙がやりたいなら」
「お前は?」
「言う事聞くよ。これまでの詫びをしなきゃ」
「それじゃ仕方なくって聞こえるけど」
「いや、うーん、そうだな…」
 考えて、懐の中に入り込む。
「ここに居たら、いろいろ治りそうな気がするから」
「癒されたいのか」
「こんなの甘えてる?」
「甘やかしてやるよ。今日は」
 抱き竦められて。いくらか擽ったい気持ちで。
 傷付き、復讐に怒り燃える心をそのままに、さらに大きな柔らかなもので包まれるような。
 そんな、ひと時の幸せだった。


[*前へ][次へ#]

5/10ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!