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月の蘇る
  10
 醒め切らぬ頭で、何処かに運ばれている事は分かった。
 結局、薬からは逃れられなかった。吸わさねば暴れて叫ぶし、飯も食わないと死んだ兄から聞かされていたのかも知れない。
 お陰で禁断症状の地獄からは逃れたが、夢か現か分からない世界でずっと息している。
 幻の世界は優しかった。華耶が抱きに来てくれた。朔夜が横で笑っていた。そして、母が会いに来てくれて。
 醒めねば良いと思っていた。
 このまま死ぬのだと。
 それでも醒める度に地獄を見た。亡者に取り囲まれながら、己に絶望した。
 殺してくれとあの男に縋って、そしてまた薬を吸わされて。
 自分は息をする屍だ。
 中身は十分腐っているのに、形を失えない屍だ。
 暗く狭い場所から引き摺り出された。
 床に転がされる。猿轡も含め、全身を縄で縛られているので起き上がる事は出来ない。
 そもそも起き上がろうという意思も持てない。
 目が回ったように、自分が倒れているのか立っているのかも定かではない。
 現実は遠い。
 だが、声は聞こえた。
「無惨な姿だな」
 この声。知っている。
 だけどもう、どうでもいい。
 思い出す事など出来ない。それを考える頭は破壊されている。
「仮にも我が息子だ。縛めは解いてやってくれ」
 父上?兄に毒を飲まされて死んだ父上?
 死んでから会いたいとは一度も思わなかった。だから夢にも幻にも出てこない。
 亡者の中の一人として見る事はある。
 自分にとって父とはそういう存在でしかない。虚しいが。
「良いんですか?自由になったら死のうとして面倒なんですよ。陛下がそれでも良いと仰るのなら解きますが」
 これは薬を持ってくるあの男の声。
「我々の前でそういう真似はすまい。解いてやってくれ」
「分かりました。ただし正気ではない事はご留意下さい」
 縄が解かれた。自由になった手足が力なく床へ落ちる。
「泰執、苦労であった。退がって良いぞ」
 別の老いた声がした。これもつい最近聞いたような声だが。
「はい。しかしこのままでは話にならぬでしょう?目を覚まさせておきますよ」
 男は言って、耳元に口を寄せてきて。
 呪いの言葉のように。
「悪魔は死んだぞ」
 目を見開いた。途端に世界が頭の中に入ってきた。
 何もかもどうでも良かった。その言葉を否定してくれれば、他の何も。
「嘘だ…嘘だ!あいつは死なない!」
 胸倉を掴もうとした手は空を切った。
 男――泰執は笑いながら去って行った。
 叫んだ。ただ苦しかった。全てが壊れていて、何も救いが無かった。
 あいつは生きているという希望だけが救いなのに。
「嘘ですよ。朔夜君は生きています」
 神の声のように。
 それが神のような悪の声だと分かっていても、壊れかけた世界はその一言で救われた。
 自由になった手で顔を撫でる。己の荒い息を感じながら。
 現実が重く重くのしかかってきて。
 また地獄の中に放り出された。
 地獄の中でも、これは。
 神判の場だ。
「龍晶殿、儂らの事が判るか?」
 岳父の問いに抱えた頭で頷いた。
 重い身を起こしてその場に座る。まるで奴隷のようだ。
 対する二人の王は円卓に座っていた。
 その奥の壁に寄りかかって、王をも操る男が立っている。
 己を屠る者が揃っていた。
「おぬしもまだ王なのだから、この卓を囲むが良い」
 苴王に誘われて、頭を上げた。
 目を細めて勧められた椅子を見る。
 空間が歪んで見える。距離感すら掴めない。
 だけど、確かなのは。
 あの椅子は、北州から灌、そして哥に向かい、都の城へと戻ったあの旅と同じ距離にある。
 とても一人では届かぬ場所に。
 支えてくれるあの手は、今は無い。
 龍晶は首を横に振った。
「ここで」
 苴王は口をひしゃげた。立場を堅守する者には理解出来ぬのだろう。
 灌王は頷いただけだった。
「ならばこのまま本題に入ろう。早くせねば気を失うと聞いておるからの」
 確かにこの意識は長く持たない。だが気を失う前に己で己を殺そうとする発作が起こる。だから周囲が意識を失わせるのだ。
 否、自分では発作のつもりは無い。己の意思で死のうとしている。
 死にたいのに、誰も殺してくれないから。
「戔からおぬしの助命嘆願が次々と来ての。無視も出来ぬから苴王に掛け合うてこの顔合わせが実現したのだ。このお二人に感謝しろよ」
 こうして中身を壊しながら生かし続けた事を感謝しろと言うのか。
 冗談じゃない。俺は早く殺せと言い続けている。
「それで、おぬしを生かす為の条件だが」
「必要無い。生きる気は無い」
 久しく出す事の無かった芯の通った声。
 己の意思を通さねば、また生きたまま壊されてしまう。
 もう嫌だ。
「婿殿…まあ、そう言わずに。聞くだけでも聞いてくれ」
 地面に這いつくばる者の意思など、彼らには無いも同然なのだ。
 その高みからでは見えない。
「一つは、今すぐ王位を手放し、鵬岷に戔王を譲る事」
「あなた方に言われる間でもない。最初からそのつもりだった」
「だが、王が生きながらにその地位を捨てる事は普通有り得ぬのでな」
 口の端が歪んだ。
「生きながらに殺しているのはお前らだろ?」
 苴王を睨んで。
「早く殺せよ。そうすれば戔は否応なく代替わりするだろう。準備は既に整えてある筈だ」
「生かしてやろうと言うのに、そんなに死にたいか」
 灌王が責めるように問う。
 頭が重くなって、ふっと意識が途切れかけて。
「早く終わらせてくれ」
 俯いたまま言った。頭の中だけで言ったのか、口から言葉が出ていたのか、それすら定かでは無かった。
「…もう一つ条件がある。おぬしが在位中に整えた法を、全て破棄する事」
 反射的に顔を上げていた。
 ふつふつと怒りが込み上げ、身は震えて。
「ふざけるな…」
 何の為に。
 何の為に、ここまで生きてきたのか。
「どうしてお前達にそんな事を決められなきゃならない!?俺が生きた証を徹底的に消したいのか!俺が戔を守ろうとした証を!」
 これは、誰が決めた?
 誰にとって一番都合が良いか。
 皓照を睨み、叫んだ。
「最初からそのつもりだったのか!?俺に反乱を起こさせ兄を殺し、その果てに全て乗っ取るつもりで貴様は!!」
「やめよ!皓照殿にそのような口を叩くな!」
 灌王が怒鳴った。
 続く言葉を奪われて。
 怒りではなく恐怖に震えた。決して岳父が恐ろしい訳ではない。
「…どうして分からない…!?」
 言葉が通じない。
 否、通じる者の方が稀である事は知っていた。だが、ここに居るのは王だ。国を、民を守る王達が。
 真実を見ようとしない。この言葉を聞かず、理解しない。
 その現実に震えた。
「次にこうなるのは苴だ。そして灌だ。お前か、その子供は、この男の手で殺されるぞ…!?分からないのか…?そうやって、国を、世界を、こいつ一人が操るんだ…!」
 皓照は、笑い出した。
「いや、見事な狂人の妄想ですね。面白い。しかし王に相応しくないのはこれで明確になりました」
「確かにそうだ」
「危険な妄言ですな」
 愕然と、大人達を見やって。
「…狂ってる」
 そうとしか、思えない。
「狂ってるのは、お前らだ…」
 一人の男の掌に疑う事なく転がされて。
 それで得た地位で満足して。
 果ては他国を荒らして人を殺し、平気な顔をしていられる。
 正気で出来る事ではない。
「いいえ、龍晶陛下」
 皓照は近寄り、目前に屈んだ。
「あなたは言いましたよね?この世の中で正気では居れない、と」
 声を潜め、耳元に囁くように。
「皆そうですよ。真実を見過ぎると、狂ってしまう。だから誰もが神を持ち、信ずる事で正気を保つのです」
 その神は、自分だと言うのか。
 王を、国を、世界を操る神は。
「あなたは何も信じなかった…いえ、取り憑かれたのは悪魔でしたね。残念な事に」
 反発は、言葉より先に手が出た。
 近付いた相手の体を思い切り押し返して。
 皓照は後ろに手を付いただけだった。代わりに龍晶は周囲の兵に直ちに拘束された。
「あいつは悪魔じゃない!普通の人間だ!俺の友だ!お前と同じにするな…!」
 後ろ手に掴まれながら叫ぶ。王達は顔色を変え、皓照は笑った。
「いやはや恐ろしい。狂った人間は何をするか分かりません。ねえ陛下方?悪魔を生きる縁(よすが)にする者など、この世に居てはいけませんよね?」
「なら殺せ!今すぐ俺を殺して、こんな馬鹿げた茶番は終わらせろ!そんな条件なんか飲めるか!戔はお前達の好きにはさせない!」
「死にますか?」
 なんでもない事のように問うて。
「手を解いておあげなさい」
 兵に命じると同時に、懐から短刀を取り出して。
 解放された手元に投げた。
「どうぞ。お好きに」
 突如投げ渡された解放の手段。
 震える手でそれを取って。
 鞘から抜いた。
 これで首を突けば良い。それで全てが終わる。それで故国は救われる。そして永遠に楽になれる。
「言っておきますけど、あなたが死んだとて同じですからね?」
 冷たく言葉は落とされた。
「あなたという邪魔者が居なくなって、戔は無事鵬岷陛下の世となり、彼の下で泰平の世となる法を新たに整えますから。その為にはこちらの灌王 鵬韃(ホウタツ)陛下の助力は欠かせないでしょう。この茶番は、その鵬韃陛下のたっての願いです。生かしても殺しても同じなら、あなたを生かしたいと陛下は仰せになった。私はそれを叶えようと思ったまでの事。しかしそこまで死を望むのなら、お好きになさい」
 分かっていた。
 所詮、どう足掻こうとも、この男には勝てない事。
 国は守れない。初めから自分の手の中には無かった。
 全てこの男の手中に。
 ならばもう、自分が何を望むかという、それだけで。
 この壊れた頭で生き続ける勇気は無かった。
 首筋に、刃を付けて。
 あとは引くだけ。ほんの少しの力を込めて。
 嗚咽が喉を動かした。
 悔し涙だろうか。ただ悲しいだけだろうか。自分でも判然としない。
 手の震えが邪魔だった。思うように動かなくて。
 そこまで黙って見ていた灌王は、おもむろに立ち上がって、横にある戸を引いた。
 そこに居たのは。
「仲春…!」
 春の日の暖かさを思い出させる名で。
 愛しい人が走り寄って来た。
「華耶…」
 まだ夢を見ている。きっと。
 そうでなければ。
「あなたが死ぬのなら、同時に私も死にます。その為に来ました」
 刀を持つ手を包み込んで。
 ふわりと、微笑む。
「ねえ、仲春、良いでしょ?何処に行くのでも、私は一緒に居たい。天国でも地獄でも、あなたと共に行きたい」
 華耶の手に導かれ、刃は彼女の喉元に向いた。
 このまま、一緒に。
 永遠の場所へ。
 否。
 そんな事は、望まない。
 龍晶は刀を握る指を解いた。
 掌の中に刃は吸い込まれ、そして床に落ちた。
「…負けたよ」
 そこに居る全員に告げて。
 華耶を抱き締めた。選べる筈の無い選択だった。
「ごめんね…」
 耳元の声に首を横に振る。
 彼女が仕組んだ罠なら、いくらでも身を捧げよう。
 その為に生きてきたと自分を騙しても良い。
 こんなに愛していたなんて。
 自分でも知らなかった。
「ならば気の変わらぬうちに最後の仕事をして貰おうか」
 灌王の一言で、書状と筆が用意された。
「先程述べた条件に署名して貰おう。これを戔に送れば、全てが滞りなく進むであろう」
 華耶に連れられて、卓上に用意されたそれを見て。
「皆がこれで納得するとは思えない」
 桧釐は反発するだろう。
 南部の件の偽造文書の事もある。これも偽物だと言い出すのではないか。
「心配無い。この事は鵬岷にも伝えてある」
 上目遣いに岳父を見て。
 全てが最初から仕組まれていた事だ。誰も恨めない。
 諦めて筆を取った。
 だが筆を下ろそうにも、手が大きく震えた。
 拒絶する気持ちと、薬による症状で、文字など書けぬ手を逆の手で握って。
 憔悴しきった息を吐く。
 華耶の手が慰めるように肩を撫でた。
「…代筆を頼んでも?」
 灌王が頷いた。
「良いだろう。致し方ない」
 隣に立つ華耶に、視線を送る。
「え?…私?」
 頷いて、筆を差し出して。
「二人の名を書けば良い」
 戸惑いつつ筆を受け取る。
「立派な字は書けないよ?」
「大丈夫だ。前に練習しただろ?」
 新婚の頃、文字を習っていた時に、せめて自分と夫の名は書けるようになりたいと言って。
「そうだけど、まさかこんな大事な時に…」
「頼むよ。王が無理なら、次に権限を持つのは皇后だ」
 華耶は納得したような、諦めたような顔で頷いて。
 責任を負って、筆を下ろした。
 その様を見届けて、龍晶は大人達を睨んだ。
「こちらからも条件がある」
「何でしょう?」
 応じた皓照を、一際鋭く睨んで。
「俺達の前に二度と現れないでくれ。朔夜にも構うな。権力とは関係の無い所で俺達は生きる」
 にっこりと、皓照は笑った。
「勿論、それが良いでしょう。その場所については追ってお知らせします。戔にお帰しする事は出来ませんけど、それはご了承下さいね」
 そんな事はとっくに知っていたと。
 龍晶は頷いた。

 仮の住まいは都の中にある王宮の別荘だった。灌王が華耶の為に苴から借り受けていた。
 疲れ切って意識は朦朧としていた。駕籠から出されて、両肩を支えられて宮殿の中を進む。
「仲春、朔夜たちに会うでしょ?」
 先を進む華耶が微笑んで訊いた。
 一刻も早く倒れ込みたかったが、頷いた。
 生きているのなら、あの笑顔に会いたい。
 華耶が扉を開いた。
「あ、お帰り龍晶!」
 朔夜の声が飛んできた。
 初めての場所なのに、帰ってきたのか。
 違いない。俺はお前の許に帰ってきた。
 その当人は布団の上に寝転んでいる。体中が痣と包帯と添木だらけで。
「お前、それ…」
「着地に失敗しちまってさ。だいぶ治ったんだよ、これでも」
 苦笑いで朔夜は答えた。
「そうだよ。この馬鹿、手が動き出したらまず真っ先に私を治したから、自分はまだこのザマなんだ」
 隣に胡座で座っている波瑠沙が言った。
「だって」
「だって?私に世話されたいから?」
「あ、まあ、それは…」
 顔を赤くしてもごもごと何か言う。
「そうよねぇ。朔夜だって大好きな人にお世話して貰いたいよねえ」
 華耶が悪戯っぽく言って、トドメとばかりに付け加えた。
「ずっと仕方なく私にお世話されてたし?」
「ちがっ…!」
「うん?」
「いやそうじゃなくて!」
 何も言ってないのに責められる。
 思わず龍晶は笑った。
 こういう馬鹿げているけど愛すべき日常が欲しかった。
「俺も揶揄ってやりたいけど、流石に疲れた。後でな」
「うん」
 素直な返事に送られて、妻と共に寝室に入って。
 漸く横たえた身の隣に、華耶も収まった。
 二人きり。至近距離で見つめ合う。
 言うべき事は山積していた。謝罪も感謝も、未来への警告も。
 だけどもう、過去も未来もどうでも良くて。
 今この時だけを確かめるように、唇を重ねた。
「おやすみ、仲春」
 きっとこれは最後のあの夜の続き。
 その間の事なんて、悪い夢だった。


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