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月の蘇る
  8
 家の中には誰も居なかった。
 とにかくまず、このふざけた格好を脱ぎ捨てて自分の服を着、双剣を装着する。
 顔を洗おうと土間に下りて、竈がまだ温かい事に気付いた。
 さっきまで人が居た。恐らく範厳だろう。
 燭台に火を灯してまずは顔を洗い、注意深く室内の様子を見る。
 嫌な予感がした。
 波瑠沙が一度ここに戻って来ているのなら――そして何かしらの罠に掛かっているのなら、何らかの痕跡がある筈だ。
 卓上に紙切れと湯呑みが置いてあった。
 紙は見慣れた、祥朗の薬の包み紙。
 龍晶の為の薬を煎じていたのかとも考えたが、これは自分達が持ってきたものだ。
 範厳が荷物からこれを勝手に取り出して煎じたのか。
 湯呑みに目を向ける。
 飲み口に薄く、紅が付いていた。
 波瑠沙は普段化粧っ気が無いのに、お前がやるなら私もやると言って近頃は口紅を塗るようになっていた。
 今朝もそんな事を言ってたような気がする。王様に会うならそれなりに化粧しようかなぁ、と。
 ここに彼女は帰ってきている。
 湯呑みの中を覗いた。
 液体は殆ど残っていなかった。僅かに底に残ったその中に。
 時間が経ち沈殿した粉が見て取れた。
「…飲まされたのか…!」
 この薬が入ったものを、彼女は知らずに飲んで。
 薬が効いて昏倒した所を。
 そこまで分かれば十分だった。外に出ようと走り出す。戸口で急に現れた人影とぶつかりそうになって。
「…範厳…!」
「お、帰ってたか。どうした?」
 考えるより先に刀を抜いていた。
 胸倉を掴み引き倒して、首筋に刃を当てて。
「どうしたじゃねえよ糞野郎…!彼女を何処へやった!?」
「何の事だ」
「とぼけんな!薬を飲ませただろ!?お前が敵と繋がってんのはもう知ってんだよ!」
「敵…まあ、確かにお前達にとって俺は敵国の人間だからな」
 そんな人間を信頼した事が甘かったという事か。
「答えろ。彼女を何処にやった」
「取引といこうか。答えてやるから殺すな。お前に協力してやる」
「信じられるか…!」
「信じて貰わないと彼女を早急に救う事は出来ないぞ?昨晩の事で拷問にかけられているだろうから」
 苛立ち紛れに叫びながらその男を蹴った。お陰で範厳は刃から逃れた。
「言え!早く!全員殺してやる!」
「俺以外でな」
「分かったから、言え!」
 範厳は顔を歪めて笑い、言った。
「軍本部の地下牢だ。その最奥に拷問部屋がある。今頃そこに居るだろう」
 先刻まで居た建物で間違い無いだろう。
 今度こそ朔夜は駆け出した。先刻帰ってきた道をまた辿る形で。
「あーあ、悪魔を怒らせた」
 範厳は一人ごちて、笑った。

 水を掛けられて目が覚めた。
 それでもまだ意識がはっきりとしない。こんなに強い薬だったのかと見当違いの事を考えながら。
 現実を考えたくないだけでもある。
 裸に剥かれて縛られていた。もう既に体に違和感がある。寝ている間にやられたのだろう。
 またあいつを怒らせる事になるかな、でもそれはそれで可愛いから良いか。そう呑気に考えながら。
 囲む男達を見回した。
「知らないものは知らないんだけど?」
 聞きたい事は分かっている。だがこちらはしらを切り続けるという大前提。
「泰袁王子の事はもういい」
 男の言葉に眉を上げる。
「我々の仲間が三人、惨殺されていた。つい先刻の事だ。やったのは恐らく、お前と共に来た女――いや」
 男が傍らに屈んで、顎を持ち上げた。
「奴は何者だ?」
 波瑠沙は口の端を吊り上げた。
「ただのお嬢ちゃんだよ」
「男の首を一刀で断ち切る女児がこの世の何処に居ると言うんだ」
「失礼な。私もやってたよ」
 男はせせら笑って波瑠沙の体に目を落とした。
「じゃあ聞いてやろう。お前の正体は何だ?」
「哥軍の兵だけど、何か?」
「哥…?」
「北方民族は頭が良いから、どっちの言語にも堪能なんだよ。単細胞で本能剥き出しのお前達と違って」
 男は鼻で笑って立ち上がり、鍛えられた腹を蹴り上げてきた。
 咳と共に迫り上がるものを吐き出して、男を嘲笑う。
「図星だな?」
 髪を掴まれ、水中へ頭を突っ込まれた。
 引っ張り出されて、髪は掴まれたまま。
「それで?奴の正体は?」
 ふん、と鼻を鳴らして。
「別に私が言う必要無いだろ。あんた達の方がよく知ってるんじゃないか?」
「予測は付いているが信じ難いから答え合わせがしたいんだが」
「ああ、確かに信じ難いよな。あれじゃお嬢ちゃんじゃなくて実は男なんだって言っても信じられない」
「まだ惚(とぼ)ける気か?」
「本当の事言ってやってるけど?」
 また水中に突っ込まれる。今度は長い。
 遠くなる意識の中でぼんやり考える。範厳はこの点を喋っていないのか、或いは言ったとしてもこいつらが信じていないのか。
 信じ難いのは確かだろう。悪魔の首は落としたと思い込んでいるのだから。
 だけど首を断ち切るというのは悪魔のやり口だと、苴の人間なら熟知している筈だ。
 だから混乱している。ならばそれを更に引っ掻き回してやろうと考える。
 どうせ悪魔への対抗手段なんて存在しない。
 本気で怒らせたあいつに人間ごときが手を付けられようか。
 頭が上げられ、足りない空気を吸おうと喘いだ。
 同時に、足の付け根に嫌な感触を覚えた。
 声を抑えようにも間に合わなかった。その口に指が入れられて、掻き回されながら。
 睨んだ相手は薄ら笑いで言った。
「奴と男女の関係だというのは確からしいな?」
 だから?と目で問う。
「餌としては最高だろう。誘き寄せて、ゆっくりその正体を知れば良い」
 その時は、お前達の破滅の時だと。
 腹の中でそう言ってやるしか無かった。
 この体に手を付ける事で、自分の命を縮めているとも気付かぬ愚かな男達に。

 辿って来た道は既に屍と血で埋まっている。
 雑魚兵はキリがなく湧いてきた。城門を潜った時からここまで、一体何人殺したか。
 奴らの目論見ではこの数に負けて既に亡き者にされているのだろうが、結局は兵の損失を無駄に増やしただけ。
 早く気付けよ、と嘲笑って。
 また向かってきた兵を双剣の餌食にした。
 先刻潜った門をまた潜り、その建物に侵入する。
 この際、過去の精算も纏めてしてやっても良いかも知れない。いずれにせよ、何人(なんぴと)たりとも生かしておくつもりは無い。
 あの時と同じに。
 梁巴を蹂躙し、母を奪ったのは苴兵だ。
 そして俺が全員殺してやった。
 また同じ事を繰り返したいらしい。
 懲りない奴らだ。
 そんなに月夜の悪魔に滅ぼされたいか。
 望み通りにしてやろう。
 燈陰が殺(や)り損なった王まで、この刃を届けてやろう。
 あんな偽物の首を取って良い気になってんじゃねえよ。
 本物は、俺だ。
「死ね化け物!!」
 くるりと刃を躱して、そのまま間抜けな兵の首を捕まえる。
 短刀を突き付けて、問うた。
「地下への階段は何処だ?」
 震える手が一方を指差す。その手の先に視線を滑らせた時、別の刃が襲ってきた。
 身を翻すと、その刃は味方を斬った。
 朔夜は笑ってその間抜けな兵を袈裟掛けに斬った。
 続く敵を斬りながら進み、階段を見つけた。
 駆け寄ろうとした時、横から急に刃が放たれた。
 ぎりぎりで己の得物を合わす。が、短い分防ぎ切れず、脇腹を切った。
 躱しながら後ろに跳び、低い姿勢で着地して。
 口元は笑っていた。
 久しぶりに骨のある太刀筋に会った。
 闇に包まれた陰から、相手が姿を現した。
「…久しぶりだな」
 その顔に朔夜は笑みを深くしながら言った。
「覚えているのか」
 相手は意外そうに目を細めて問う。
「勿論。あの時の事はどうにも忘れられねえんだよ」
 孟柤(モウソ)。
 千虎(センコ)の副将を務め、あの戦で一人生き残った男。
「互いに殺し損ねたからな。そろそろ決着を付けようか」
「良いぜ。ただし先を急ぐから加減出来ないけど」
「もうそんなもんは要らない」
 朔夜が先手を打った。
 低い姿勢のまま走り、斬り上げるかと思わせて足を狙った。
 だがそこは歴戦の将で、落ち着いたまま刃を突き落としてきた。
 相手の得物を軸に弧を描くように足を滑らせ、飛び上がったかと思うと、振り上げられた刀を双剣で受けながら弾みを付けて宙返りし、間合いを取る。
 その着地点に滑り込んできた刀を見えぬ刃で防ぎ、一瞬地に着いたかと思うとまた跳び上がった。
 上から双剣が襲う。
 孟柤は刀を振り上げた。動きは読み切っている。これで体を断ち切る筈だった。
 にやりと、朔夜は笑う。
 孟柤の、刀を持つ手首が弾け飛んでいた。
 同時に悪魔は刃と共に降って来た。首筋を掻き切り、背中を切り下ろされて、巨体の将は斃(たお)れた。
 その前に立ち上がり、一瞥をくれて。
 階段を駆け降りる。邪魔する者は皆殺す。ただそれだけ。
 地下牢の最奥に居ると範厳は言った。並ぶ鉄格子を横目に奥へ奥へと走る。
 波瑠沙の名前を叫び、応える声を祈るように待ちながら。
 やっとそれらしき場所に辿り着いた。拷問器具が並ぶ牢。
 その床に、彼女の服を掛けられた人型の盛り上がりを見つけた。
「…波瑠沙!」
 服は血染めだ。焦る気持ちのまま牢に入り、傍らに跪いた。
 その瞬間、牢の扉が閉められた。
 はっと顔を起こして、錠を掛けていた兵を見る。その瞬間、その兵の首が飛んでいた。
 扉に飛びついて押したが、もう遅かった。
 舌打ちする。とにかく今は彼女を救わねば。出血量からして恐らく酷い怪我をしている。
 もう一度跪いて、覚悟を決めて服を剥ぐった。
「…え」
 思わず声が出た。
 そこに居たのは知らない女。
 顔色からして既に死んでいる。
「ここまでするかよ…」
 この罠を作る為に殺されたのか。
 頭がくらくらした。疲れの為か、怒りの為か。
 再び立ち上がって、扉の鉄格子を掴む。
 びくともしない。閉じ込められた。
 体の疲労が襲ってきた。鉄格子を掴む手を滑らせて、ずるりとそこに座り込んで。
 己の呼吸音の向こうで、足音がした。
「ここまでのようだな」
 あの宴会の中で聞いた声だ。間違いない。
 松明の熱が己に向けられているのを感じた。
「銀髪か…」
「範厳も言っていたな。悪魔の証拠は銀髪だと」
 別の声。これも宴会の中で聞いた。
「月夜の悪魔がまだ生きていたなどと信じられんが、だからこそ悪魔という事か」
「だが以前より随分小柄だな。子供のようだ」
「まだ気付いてないのか。これは先刻、皓照が連れて来た子供だ」
「何…!?」
「あの男、何を企んでいるのか知らんが、どうやら我々の敵となるらしい」
「こんな餓鬼を使ってか」
「餓鬼ではなく悪魔だと言っているだろう。だが、悪名高い月夜の悪魔もここまでだ」
 液体が床に落ちる音。
 顔を顰めてそれを視界に入れた。
 自分にもそれは散らされて。
 油だ。
 男達は後ろへ退きながら、松明を投げた。
「っ…!」
 咄嗟に身を引いた。
 油の上に炎は瞬時に燃え広がる。
 牢の外は炎の壁に包まれた。
 灼熱が襲う。そこにあった水盥を頭から被って。
 頭の中で憎いあいつを呼んだ。

 悪魔を殺す代償に軍部を燃やすくらい安いものだろう。
 男達は勝利を確信して踵を返した。
 が、背後で有り得ぬ音がした。
 振り返る。が、黒煙ばかりで何も見えない。
 急がねば自分達が煙に巻かれる。
 だが、今の音。
 鉄がばらばらに崩れ、床に落ちるような音。
 火の力では有り得ない。
 足は何かから逃げるように速まった。
 熱と共に。
 殺気が。
 途端に階段を昇る足を掬われた。
 そして上から球体の物が落ちてきた。
 つい一瞬前まで言葉を交わしていた男の頭だと気付き、鋭く息を吸う。
 そして、頭上には。
 ぬらりとした、笑みがあった。
「よくもまあ、ここまで大掛かりな舞台を設えてくれたもんだな」
 悪魔は、手にした刃を振り上げて。
「待て!待ってくれ!女の居場所が知りたいんだろう!?」
 手が止まった。
「最上階だ。早くせねば焼け死ぬぞ!」
 自分などに構っている暇があれば早く助けに行けという事だろう。
 悪魔は何度か頷いて、底抜けの笑みを見せた。
「お前も焼け死ねば?」
 二度と立てぬよう、足の筋を切り裂いた。

 煙を振り払い、炎の足に負けぬように階段を駆け上がる。
――こんな時だけ俺を呼ぶなよ。
 不満げに悪魔が言った。
――もう誰も居ねえじゃねえか。つまらん。お前ばっかり殺して。
「俺が殺してるから良いじゃねえかよ!同じだ!」
 声には出さない。声を出せばそれだけ空気を無駄に消費する。
――確かにな。そうやってお前は本物の悪魔に近付いていく訳だ。
 それで制御不能の怪物になるんだろ?
 面白いな。その時この身に居るのは俺なのかな、お前なのかな。
「どうだっていい。今は、そんな事」
 そうだな。お前は今、女の事で頭がいっぱいだ。
 邪魔なんだよな。お陰で俺はお前を完全に乗っ取れない。
「そういうものなのか」
 死んでればいいのに。あんな女。
「うるさい…」
 死んでるよ、もう。あいつら散々犯して嬲って殺してるって。こんなの無駄無駄。
「黙れ!」
 声に出して叫んでいた。
 頭の中に煩く笑い声が響いて、消えた。
 ぐらりと、視界が揺れた。
 酸欠と、悪魔と意識の奪い合いをした疲れ。
 思わず足を止めて、階段に身を臥せて、唸って。
 ずるりと体を起こして、這いながら進む。
 上がれば上がるほど、煙は濃くなった。
 これは彼女は煙でやられているかも知れないと、頭のどこかで虚しく考えて。
 それでも進まねばならないと己を叱咤して。
 やっと、階段が途切れた。
 真っ黒な煙幕の中、手探りで進む。
 ふと、指先が何か柔らかなものに触れた。
 掌で撫でて、すぐに分かった。手に馴染んだ肌。他に知らない。
 これだけ近くても不確かな視界で、なんとかその体を抱き留めて。
 まだ辛うじて息がある。
 階下からは炎が追い掛けてくる。
 このまま二人で死ぬ?馬鹿な。
 俺は良くても、彼女は駄目だ。
 神経を研ぎ澄まして外からの風を感じた。
 煙を掻き分けて、それは優しく誘うように。
 しっかりと体を抱き直して。
 駆け抜けて、宙へと舞い降りた。


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