月の蘇る
3
七年前、お前を連れ帰ると言われたその場所に初めて足を踏み入れた。
随分かかったなと我ながら思う。
お前の父親になってやると言ってくれた彼は、今の自分をどう見ているだろう。
母親と華耶以外で初めて俺の幸せを考えてくれた人なのかも知れない。
その幸せを人の姿にして、一緒にこの街にやって来た。
少しはそれで報いる事が出来るだろうか。
殺してしまったのは、この手だけど。
「また随分、大きな街だな」
波瑠沙はきょろきょろと街並みを見ながら馬を進める。
その前を先導する侖賓はゆっくりと進んでいる。
この街は幸せが詰まっていると信じていた。
確かに繍と違って誰もが明るい顔をしている。戦の影が遠い。
それが当たり前なんて、当時の自分は知らなかったから。
子供は戦わなくて良いと言われて、それが信じ難くて、でも憧れて。
心底、そうでありたいと思ったから。
刀を置きたかった。
叶わない夢だった。
千虎の刀は今どこに在るのだろう。龍晶に預けて来たが、本人が持っているとは思えない。
戔に残してあったのかも知れないが、探す術は無かった。
生きろと言って渡された刀。
同じ事を願って預けたのに。
やっぱり千虎は怒っているのだろうか。あの刀に呪いをかけて死んでいった?
普通はそうだよなと思い直して。
でも、憎まれているとしても、自分は彼をずっと慕い続けている。
自分を愛してくれた父親として。
「姫、あれが王城ですぞ」
侖賓の言葉に顔を上げる。
丘の上に聳える白亜の城。あれが苴の王城。
そして。
「ああ、我が主です」
辻に立ってこちらを見ている人が居る。
あれが孟逸の友か、と。
想像していたような威厳は無く、どこか人懐こい印象の笑みを向けてきた。
「長旅ご苦労」
波瑠沙が先に下馬して、手を差し出した。
その手を取って馬を降りる。こういう事が自然に出来るくらい、この格好に慣れてしまった。
人目が多いからだ。好奇の視線が自分に向けられている事は分かる。
「意外だったな。こんな可愛らしいお嬢さんが来るとは思わなかった」
朔夜の顰め面を人目から上手く隠しながら、波瑠沙は応じた。
「そうだろう?姫はお疲れだから、早く何処かに落ち着かせてくれ」
「ああ。男やもめの家で良ければ」
範厳の家はその辻の角にある一軒屋だった。
男やもめというのは本当らしく、使用人すら居ないようだ。見事に家の中は散らかっている。
「足の踏み場も無い!」
波瑠沙が絶句するくらい。
侖賓がせっせと片付けて、主である範厳はのんびりと言った。
「別に蹴散らしてくれて良いからな?」
「蹴るのも嫌だ」
言いながら片付けに参加している。何気に家事が出来る娘だ。
朔夜は困って立ち尽くしていたが、範厳に手招きされて彼の横の椅子に収まった。
「朔夜というのは女の名だったか」
首を横に振って、苦笑いしながら白状した。
「いろいろあってこんなナリをしてるだけ」
声音に目を見開いて、まじまじと観察される。居た堪れなくて波瑠沙を呼んだ。
「どーしたどーした姫君。男に見詰められて困ったちゃんか?」
「もう良いからその設定…。着替えていい?」
「それは、さ」
範厳に目を向けて。
「王様にはもう会えるのか?」
「夜まで待ってくれ。毎晩俺が薬を届けているから、その時なら言い訳も出来るだろう」
「なるほど?じゃあ暫しそのままで」
「まだ時間あるのに…」
時間は昼過ぎ。まだまだ日は高い。
「ん、じゃあ夜にもう一回とびきり可愛く化粧してやるから良いぞ、男に戻っても」
「やった」
そのくらいで喜んでしまう。とにかくこの白粉というやつがべたべたして嫌いなのだ。
その場で服を脱ぎ出す。おいおいと範厳は笑う。
「おい朔夜、美少女がはしたないから場所を変えるぞ」
「え?あ、だめ?」
範厳が上を指差した。
「二階はがら空きだ。好きに使って良い」
「分かった!ありがと!」
長い裾をたくし上げて階段を駆け上がる。その後を荷物を持って波瑠沙が続く。
大きなくしゃみが響いた。
「…埃まみれ…」
波瑠沙、二度目の絶句。
侖賓と共に掃除していたら結局、日が暮れた。
風呂を借りて汗と埃に塗れた体を二人分丸洗いし、侖賓に頼んで調達して貰った目立たぬ着物を朔夜に着させて、本日二度目の化粧を施す。
「どうしてまた、そんな手の混んだ事を」
半笑いでその様を見ながら範厳が問う。
手を動かしながら波瑠沙は答えた。
「女の方が警戒されないだろ?」
「まあ確かに。俺も引き入れ易いが」
「こいつの正体は絶対に知られちゃならないんでね」
「正体?」
肩越しに振り返って波瑠沙は問うた。
「報せが来てないのか?こいつの事はただの王の友人って?」
「波瑠沙、良いよ。知らない方が良い」
厳しい口調で朔夜が口を開いた。
「それはどうかな。知ってた方が良い事態もあるぞ?」
「そうならないように気をつける」
「ふーん。ま、良いけど」
そこまで聞かされたら範厳とて察しは付く。
「…父親と同じ髪色なんだな」
伏せられていた目が開いた。
碧眼も、同じ。
「知っているのか?」
波瑠沙が問うた。
「最期の瞬間に立ち会っちまったからな」
「聞きたくない」
続く言葉を打ち落とすように、朔夜は言った。
「いいよ、あんな奴の話は。…分かったなら仕方ない。俺は月夜の悪魔だ。この国で正体を明かしたくは無かったんだ」
「確かに…それが賢明だな」
「あんたは俺に恨みがあるか?」
先に訊いた。あると言われれば即刻出て行くつもりで。
「無いかな。幸い、同じ戦場に立った事が無いんでね」
「それは良かった。何よりだ」
同じ戦場に居れば、こうして相見える事も無かっただろう。
「寧ろ会ってみたいと思っていた。戔王の話を聞いていたら、どんな奴なのか興味が湧いて。悪魔と言う割にはあいつ、お前に救われたような口振りだったから」
小さな溜息と共にまた瞼が伏せられた。
「俺があいつを救えた事なんて無いのに」
「今からだろ?」
ついでとばかりに瞼に化粧を施しながら波瑠沙が言う。
目尻にほんのりと紅を差すと、見ていてぞくりとするような美少女に変わる。
今のように涙目になると尚更だ。
「まだ泣くなよ?全部やり直しになるから」
「なんでだよ、泣く訳ないだろ」
「友に会ったら思い切り泣いて良いからな?」
「…泣かないし」
「賭けようか。私は無理だと思う」
「何賭けるんだよ」
「今晩の事だけど、あー、ちょっと他人の前じゃ言えないなあ」
「馬っ鹿…!」
顔を赤らめて悶えている。波瑠沙はげらげら笑って、最後の口紅を手に取った。
「ああ、君たちはつまり、そういう関係?」
範厳の問いに今更何を言わんやとばかりに視線をくれる。
「悪いな。独り身の男の前で」
「良い良い。俺も今夜は出る事にするわ」
「そうしてくれると助かる」
「何でだよ!?」
何故か一人納得いかない朔夜。賭けに勝てる気がしないのだろう。
「しかしあの悪魔が普通に人としての情を持ってるなんて、意外だ」
紅を塗られた口を少し尖らせて。
少し前の自分も、そう思っていた。
生きる事と死ぬ事以外に、自分の中には何も無いと。
七年前は確実にそうだったと思う。
龍晶に会って、少しずつ変わっていった。
人としての感情を教えて貰った。
楽しいとか、好きだとか、愛する事も。
そして、希望を持って未来を見る事も。
あいつの作る国を見ていたい。これからも、ずっと。
「よし…良い頃合いだ。行くか」
煎じた薬を手に範厳が立ち上がった。
「あいつ、ちゃんと飲んでる?」
問うと、厳しい顔で返された。
「今日こそ飲ませてやってくれ」
城の敷地内に入り、軍部と王宮の間にある建物の前に立った。
見張りの兵に範厳は、戔王の世話をさせる為に連れて来た自分の縁者だと二人を説明した。
怪しまれる事も無く通される。
通路を歩く足をふと止めた。
人の耳の無い事を確認して。
「武器の類(たぐい)は持ってないだろうな?」
朔夜は首を振った。着替えたからそれは無い。いざとなれば見えぬ刃を飛ばせる。
波瑠沙は懐の上から手で押さえた。
「問題が?」
「一応置いて入った方が良い。今のあいつは何をするか分からん」
朔夜の表情が一段と固くなる。
素直に波瑠沙は小刀を出した。
「そこの陰に置いておけ。目に触れない方が良いだろう」
角を曲がって、鉄格子が見えた。
そこに立つ見張り兵に範厳は金を渡した。
「ちょいと向こうに居て貰えるか?聞こえた事は他言無用だ」
若い兵は無言で頷いた。
「あ、あと誰か来たら知らせてくれ」
兵は角の向こうに去った。
「大丈夫か?」
波瑠沙が顔を顰めて問う。範厳は頷く。
「俺の懐がちと痛むだけだ。まあ別に良いんだけど」
そう言っている間に、朔夜の目は鉄格子の向こうに吸い込まれていた。
静まり、動きの無い空間。
布団が敷かれ、その上の毛布が盛り上がっている。
「寝てるかな」
範厳は言いながら鍵を開ける。
「ちょっと待ってろ」
まず自分だけ入って、毛布の前に屈み込んだ。
「おい、俺だ」
言いながら頭の部分だけ毛布を捲る。
伸びた黒髪が見えた。
その後ろ頭に布の結び目がある。
「口を縛られてるのか」
波瑠沙が思わず顔を顰めて言った。
範厳がそれを解いた。その間に、堪らず朔夜は牢に入っていった。
「龍晶」
名を呼ぶ。既に涙声だ。
顔を覗き込んで。
目を見開いた後、大きく溜息を漏らした。
この表情。覚えがある。
青白い肌。目を開きながら何処も見ていない虚ろな目。口は息をする為だけに少し開いている。生気が無く、人形のような。
戴冠の前、芥子の薬に溺れていた時と同じ顔。
立ち上る匂いもそれだ。
朔夜は額を抱えて範厳に問うた。
「芥子の薬をやったのか。なんで」
もしかしたら自分から乞うたのかも知れない。前のように苦しみを忘れる為に。
「吸わされた…いや、吸わされているんだ。済まんが俺には止められない」
「は?なんで」
声を低めて彼は答えた。
「王族のやる事だ。止めれば俺が消される」
唇を噛んで睨まれる。
「…済まん」
もう一度謝られて、朔夜は首を振った。
「あんたは悪くない。ありがとう…こいつの世話をしてくれて」
息を吐いて、友の肩に手を置いた。
「龍晶、俺だよ。朔夜だよ。お前の世話を焼くのは俺じゃなくちゃ。そうだろ?」
少しだけ、目が動いて。
安堵したのも束の間だった。
恐れるように固く瞼は閉じられ、口からは鋭い叫び声が発せられた。
「来るな!」
触れていた手を思わず浮かせた。
愕然と見下ろして。
「…龍晶」
もう一度呼ぶ声をも拒否するように、頭を振って顔を布団の中に伏せる。何も見たくない、と。
体が酷く震えていた。
「どうして来た…」
細い声で問われた。否、問いではなく、拒まれていると分かった。
「来たら駄目だったか?」
それこそ、どうしてと問いたい。
「見るな…こんな姿…」
「薬をやったから?」
答えは無かった。
朔夜はもう一度肩に手をかけた。
びくりと、体が震えた。
「大丈夫だよ」
そう言って。
背中に手を回して浮かせ、無理矢理に体を起こした。
「おま…!」
初めて顔を合わせて。
一瞬、どうしようもない戸惑いの表情を浮かべた。それはそうだ、そこにある顔が思っていたものと違う。
「だってお前が女装して帰れって言うから」
よく分からない言い訳になったが。
思わず笑っていた。口は笑って、目は泣いていた。
朔夜も笑った。晴れ晴れとした笑い顔に、涙が一筋溢れた。
「会いたかった。龍晶。どうしても会いたくてここまで来てしまった。ごめん」
「謝るな」
いつものやり取り。こんなに中身のある事は無かったけれど。
「会いたかったのは、俺の方だ…」
やっと素直にそう言える。
薬のせいで取り繕えず、感情がそのまま出てしまう。
朔夜はそんな泣き顔を大事に抱えて、自分も泣きながら囁いた。
「もう大丈夫だから。お前を苦しめるもの全部、俺が取り払ってやる」
胸に押し付けられた頭が小さく横に振られた。そして動きが止まった。
「龍晶?」
頭を支えて顔を覗く。目が閉じられている。
「眠ってるのか」
上から波瑠沙が訊いた。
「気を失ってるようなもんだろ。疲れたんじゃないかな」
体を抱き支えたまま答える。
「とりあえず、腕の縄は必要無いんじゃないか?」
後ろ手に縛っている縄を、手探りで解いて。
「このまま待って良い?」
朔夜は二人に訊いた。
いつ目覚めるか分からないが。
「良いぞ。勿論」
二人とも頷いてくれた。
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