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月の蘇る
  2
 南に進路を取る事は間違っていなかったようで、荷物と衣服を全部馬の上に乗せて池を横切った。
 二人なら別にそれで良かったが。
 波瑠沙は馬に乗せられて裸足で水面を蹴っている。とても不満そうに。
「なんだよこの、姫様みたいな扱いは」
 その綱を引く朔夜に文句を言う。言ってる事は一般的に文句には当たらないのだが。
 男達は裸で池を渡るが、波瑠沙は自分もと脱ぎかけた所を全力で朔夜が止めた。
 荷物を乗せた馬を引くのは、侖賓(ロンヒン)と名乗った男だ。
「あのおっさん、もう見てるし良くないか?」
 途中からでも脱いで水中に飛び込みかねない。
「そういう問題じゃないと思う。俺が無理」
「なんで。嫉妬かこのやろー」
「それは違うと思うけど、とにかく無理」
 前を行く侖賓がにこにこしながら振り返った。
 そして何も言わずにまた進む。
「何」
 二人の声が揃った。
 気の良い忍びは単なる気の良いおっさんだった。若い二人の会話をずっとにこにこしながら聞いている。
 対岸に着いて服を着ながら、朔夜は侖賓に問うた。
「お前の馬は?」
「おらんよ。忍びだから、自分の足を使う」
「それで道案内出来るのかよ?私達は容赦なく置いて行くぞ?先を急ぐからな」
 厳しく波瑠沙は言うが、にこにこしながら首を横に振った。
「大丈夫大丈夫。馬に遅れを取った事は無い」
「へえ?」
 そこまで言うのなら、と。
「道はどっちだ?」
 騎乗した朔夜が問う。
 侖賓は一方を指差した。
「この獣道がなだらかで進み易い」
「よし」
 朔夜は馬腹を蹴った。波瑠沙に至っては早速鞭をくれている。
 下り坂を飛ばしに飛ばして、流石に追い付けまいと意地悪に笑った時。
 先頭に躍り出た人影に息を飲んだ。
「うそぉ!?」
 驚きながらも朔夜は笑っている。
 波瑠沙は顔を顰めた。少年の顔に戻った朔夜の目の輝きは、初めて自分が剣技を見せた時と同じものだ。
 つまりこいつは予想を裏切る能力者が好きなのだ。子供みたいに。
 相手はおっさんだぞと喉まで出かかったが、話が通じないのは目に見えているのでやめた。
 何故こっちが嫉妬しなきゃならない。
「すっげー!おっさん凄いや!」
 馬の速度を緩めて惜しみない絶賛を送る。
 侖賓もまた足を止めてけろりとした顔で一方を指差した。
「もうすぐ街道に出るが、どうする?」
「あ、待て。化けさせよう」
 波瑠沙が止めて、馬を降りた。
 明らかに顔を顰めた朔夜に向けて指をくいと動かして。
「降りろ」
 はぁぁと大仰な溜息を聞かせて命令に従う。
 そんなものは聞こえぬかのように荷の中から服を引っ張り出して。
「おお、可愛い」
 広げたのは、白い絹地が眩しいすらりとした女装束。
 肩は露出し、足には大胆に切れ込みなど入ってしまっている。
「流石は於兎さんだな。似合うと思うぞ?」
「悪意ある…絶対悪意あるよねそれ…」
「他に無いからな?着ろ」
 命令は絶対。
 渋々足を通して、背中の編み込みを結んで貰いながら。
「どうしてこんなバレ易いの選ぶかなぁ。何考えてるのかな於兎の奴はぁ」
 ぼやき続けている。
「大丈夫だよ、お前華奢だから。私より肩薄いし?なあ、似合うよなあ?」
 横で成り行きをにこにこしながら見ている侖賓に問う。
「こうしているとおなごにしか見えないよ」
 お墨付きを頂いた。
「戔に帰ったら桧釐をぶん殴ろう…」
「旦那を殴るのかよ」
 於兎に手を出すなんて熊を素手で殴るより恐ろしい。
 化粧を施して、顔は見えるように作り替えられた薄絹を被せて、完成。
「いやぁ、良い!可愛い!我ながら傑作!」
「波瑠沙の作品なの?俺」
「ちょっとこのまま取っときたい。部屋に飾っときたい」
「置物扱い…」
 馬上に押し上げる。足の切れ込みのお陰で騎乗もばっちり問題無い。ちなみに素足ではなく細袴を履いているのでそこは安心安全。
「え、待って、波瑠沙は着替えないの!?」
 そのまま馬に乗ろうとする彼女に朔夜は叫んだ。
 逆に呆れた視線が返される。
「何言ってんだ。私は元々女だぞ」
「男装…」
「そうだな、設定としては深窓の姫君とその護衛と下男って事で。よろしく」
「よろしくって何だおかしいだろ!?」
 ありったけの抗議の声は当然のように無視。

 街道に出ると人の視線が痛い。誠に痛い。
 まさかこれがかの有名な月夜の悪魔だとは誰一人考えないだろう。そこは成功と言えるのだが。
 なんだか暑さも相俟って頭が沸騰しそうだ。
「都まであとどれくらい?」
 声を出せない朔夜に代わって、波瑠沙が聞きたい事を問うてくれた。
 侖賓はにこにこしながら答えた。
「もうかなり近くまで来ていますよ。明後日には着きます」
 あと二日もこの状態なのか。朔夜は気が遠くなった。
「次の宿場まで飛ばしますが、姫君、よろしいですか?」
 設定に乗りに乗って侖賓が訊いてくれる。
 とりあえず宿でも何でも、一時的に解放されるのならさっさと飛ばして頂きたい。
 街を過ぎ、人が疎になってやがて消えた。
 峠道だ。侖賓は振り返って「では」と前置いた。
 走り出す。本気で馬を追わねば追い付かない。凄まじい脚力だ。
 お陰で、一時的な解放感は味わえた。
「楽しそうだな、姫!」
 横を駆けながら波瑠沙が揶揄う。
「これだけ馬を走らせて、どういう姫君だよ」
 負けずと言い返して笑う。
 時たますれ違う人が目を丸くしている。
 峠をいくつか越えて人の集う宿場の前でまた窮屈に姫君へ戻った。
 薄暗くなる中、一つの宿に収まって。
「だあぁ、もう無理ぃ…」
 寝台の上に腹這いに倒れる。
 その横に座って波瑠沙が編み込みを解いてやっている。
「お疲れさん。明日はもっと良い服にしようか。胸元空いてるやつとか」
「ええっ!?」
「冗談冗談。そんな荷物無いし」
 嘘と分かって頭が落ちる。
「化粧落とすぞ…って言うかさ」
 波瑠沙は部屋の隅に目をやって。
「まさかおっさん、同室?」
 侖賓は肩を竦めた。にこにこしながら。
「駄目かな?」
「断固拒否」
「仕方ないなぁ」
 言いながら窓から出て行った。宿場で野宿するつもりか。
 朔夜はあながち冗談でもなく呟いた。
「おっさんが可哀想だよ」
「はあ!?」
「ごめんなさい言ってみただけです…!」
 もう今朝の騒動の真逆を行っている。
 波瑠沙は盥の水で手拭いを濡らして絞り、朔夜の元に戻った。
「起きるか仰向けになれ」
 寝返りを打って朔夜は仰向けを選んだ。
 服を脱がせて、手拭いで顔を拭く。
 白粉が目に入るのを嫌ってか、それとも単に眠いのか、朔夜は瞼を閉じている。
 化粧が落ちると、ついでに汗ばんだ首筋や体も拭いてやった。
「なあ、朔」
 うん?と眠そうな声。
「暗殺はやるのか?私は止めなくて良いのか?」
 答えが無い。
 眠っているのかと顔を見れば、目は開いている。とろんとした半目ではあるが。
「お前の友を苦しめる相手なら別に良いとは思うが、一応確認だ」
 自分としては嫌悪感は無いしどっちでも良いと伝えた。お前の好きにしろ、と。
 だが朔夜はそういう尺度を持っていない。
「断れないからな…」
「は?なんでだよ。嫌々やるのか?」
「嫌々って言うか…多分、実際にあいつを苦しめている奴を前にしたらもう歯止めは効かないと思うけど。それ以前に皓照からの命令だから俺は従うしかない」
「その皓照って奴は何なんだ?弱味でも握られてるのか?」
「弱味って言うか…あいつが強い。それに俺は借りがある」
「借り?」
「あいつが居ないと俺は龍晶を殺してた。悪魔になった俺をあいつが殺して止めてくれたから今があるんだ」
「…それ程強いって事か」
「そう。逆らわない方が良い。あいつだけは」
「でもさ」
 波瑠沙は朔夜の顔の横に手を突いて、真上から目を捉えた。
「お前を苦しめてきたのは、そういう命令なんじゃないのか?」
 朔夜は逃げるように目を閉じた。
「…そうだとしても、やるしかない」
「じゃあ止めないぞ?」
「うん…」
 返事は何処か寂しげに。
 そのまま眠ってしまった。
 前のように気持ち良さそうな寝顔は近頃見なくなった。
 不安げに、苦しげに。時には魘されながら。
 波瑠沙は自分もむさ苦しい服を脱いで明かりを消し、朔夜の横に寝転んだ。
 頬杖をついて月明かりに浮かぶ寝顔を眺める。
 唇をなぞり頬を撫でてやると、眉間の皺が和らいだ。
「可愛いな、お前は」
 呟いて頬杖を崩し、頬を撫でながら寝た。

 名を呼ばれた気がした。
 だがそれが自分の名だったか、今ひとつ自信が無い。間違っていると思うのだ。こんな名が自分に与えられる筈が無いから。
 それでも自分の事を呼ばれていると分かるのは、その声のせいだろう。
 聞きたい声でもう一度呼ばれる。
 目を開くべきか迷って、やめた。
 姿まで見ようとしたら、きっとこの幻は逃げてゆく。
 それに、目を閉じていても見える。
 開いた扉の前に逆光となって立っている。血に濡れた刀を持って。
 死にたいんだろう?
 問われて、頷く。
 胸の上で刃が鈍く輝く。その光に希望を見ながら。
 やっと、終えられる。
 悪魔が優しく微笑む。
 これを望んでいた。ずっと。
 お前の刃で死にたいと、ずっと。
 乱暴な力で身を起こされて、必然的に続くであろう刺し貫く痛みを覚悟した。
 だけどそれは訪れなかった。覚めながらの夢も逃げていった。
 男の腕で体を抱き起こされている。己の力で己が身を支える力は何処にも無く、折れた首は二の腕に預けて。
 瞼の向こうに眩しさを感じた。ついぞ無かった事だ。何日も闇の中に居たせいで、少しの明かりも目に刺さる。
 それでも気になって薄目を開けた。
 文机。そしてその上にある書状。
 文字までは視界がぼやけて読めない。
 それらがいかにも、自分の為に用意されたかのように体の前に並べられている。
「起きているか?」
 背後から耳元に男の声が落とされた。
 腕の上にある顎を引いて戻す。その感触に相手は満足して話を続けた。
「これから一番大事な仕事をして貰う。だが難しくはない、ここに名を書くだけだ」
 黒子のように文机の前に居る別の男が、書状の端を指差した。
 そして筆を差し出す。
「やってくれるな?」
 霞んだ頭に考える力などとうに無く、視界の先にある字面を読める集中力も無くなっていた。
 でも、これは拙いと思った。
 産まれながらに身につけていた責任感が、ただの模様を文字として目に浮かび上がらせる。
 『出兵を控え』
 『南部を明け渡す事』
 『この命、大事と思えば』――
 差し出されていた筆を叩き落とした。
 ふざけるなと、頭の何処かで叫んでいる。
 戔に命乞いをして苴に南部を明け渡せという文章。これが届けられればどうなるか。
 桧釐は怒るだろう。こんな王は見捨てろと言って。だが宗温は飲むかも知れない。己の兵を動かさず、南部の侵略を黙って見逃すのでは。
 いずれにせよこんなものは許されない。
 何の為にここに来たのか――
「仕方ないな。香炉を」
 鼻先に煙が揺蕩った。
「さあ、吸え。お前の為に用意した特上の品だぞ」
 理性の入り込める隙はもう無くなっていた。
 深く息を吸う。危険な甘い香りが体中に満たされて。
 もう何も考えたくない。ここから醒めたくない。現実なんて要らない。
 このまま殺して欲しい。
「なんでもするんだろ?」
 霧散する意識が、誰かの意思に縛られてゆく。
 ここにはもう自分は居ない。誰かの為の繰り人形。ずっと、そう。
 伸ばしたのか、伸ばされたのか分からない手に、筆を握って。
 いつもなら震えが襲う筈なのに、今なら上手く動かせる。薬に操られるがまま。
「さあ、ここだ。書け」
 二人羽織のように筆を置いて。
 動かす。これはただの記号だった。
 『戔王 龍晶』と。
 手の方がずっと動きを覚えていて、考える必要は無かった。
 これが俺の名前?
 分不相応な、大層な名前だなあ、と。
 可笑しくて。
 最初から間違っていた。生まれた時から、何もかも。
 可笑しい。笑ってしまう。誰のせいだよ、こんな冗談。
 もう一度深く煙を吸う。逃げたい。自分自身から逃げて、離れて、蒸発するように消えてしまいたい。
「あとは血判だな」
 空になった手を持ち上げられて。
 頭上まで運ばれた所で、親指に湿った柔らかな感触と。
 そのすぐ後に鋭い痛みが、ぞくりと快感となって背中を走る。
 腕を下ろされ、血が広がるのを待って。
 名前という記号の上に押し付けられる。
「終わったぞ。良い子だったな」
 褒美とばかりに溢れる血ごと指を吸われた。
 陶酔の息が漏れ、期待を込めて男を見上げる。早く壊して欲しい、と。
 黒子が文机を運んで行った。
 その行き先などもう意識の外で。
 牢の中で醒めた。
 咄嗟に舌を噛もうにも、既に咬ませられた猿轡がそれを邪魔をする。
 ぐったりと、力を失って。
 もう嫌だと泣いた。操り人形に心がある事なんて、誰も知らない。


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