月の蘇る
1
友の悲鳴を夢の中で聞いた。
焦る気持ちで身を起こす。獣達が歩く山の夜の音だけが聞こえる。
上がった息を溜息に変えて、腰に回されていた手を取った。
「悪い夢でも見たか?」
寝たまま波瑠沙は問うた。
「うん…」
頷いて、手元にあった枝を焚火に投げ入れる。
獣除けの為に火は欠かせない。
「あいつをこの手で斬る夢を見た。多分、記憶の無い過去にあった事なんだろうけど」
よくある事だ。抜けた記憶を補うように、その時の事を夢に見る。
だがそれが事実かどうかは分からない。
「殺してくれって言われた…泣きながら、あいつ…」
体の上に置かれた腕の力が強くなって、元通り地面に押し倒された。
目の前の波瑠沙の唇は、闇の中でも朱く、蠱惑的に。
その口で言う。
「夢は夢だろ。気にせず寝ろ」
「うん…」
頷いて目を瞑る。夢の中の声がまだ頭に響いている。
どうせ死ぬなら、俺はお前に殺されたい。
夢の中であいつはそう言った。
殺してくれという懇願は悲鳴になって。
今そうやって苦しんでいるのかと思うと、一刻でも早く駆け付けてやりたいと心が焦れる。
だけど波瑠沙の言う通り、ただの夢。
無理をして道を急ぐ理由にはならない。これでも十分早い道を取っている。
でも本当は、分からないのだ。
そういう友を前にして、自分は何が出来るのか。
まだ答えが出ないで居る。
なるようにしかならない。だから一度、話をしてみないと。
それで殺してくれと頼まれたら、刃ではなく拳を向ける。
初めて会ったあの時のお返しだ。
きっとそれで目が覚める。
夢の中のようにはならない。
泣きながらあいつを斬るような事には。
「朔」
耳元で波瑠沙が呼んだ。
繋いだ馬が騒いでいる。
脇に置いていた刀に手を伸ばして。
二人同時に飛び起きた。起きながら抜刀し、更にその一瞬で鮮血が飛び散った。
更に襲ってきた凶刃を躱し、背後を取って刀を横に薙ぐ。
最後に敵の身の真ん中に刃を突き立てて。
一瞬で静寂は戻った。
残ったのは、五つの屍。否。
朔夜は倒れている一人の横に膝を折った。
「野盗か?」
血を吐きながらその男は頷く。
「初めてじゃないんだろうが、素人だろ?どうしてこんな事を始めた?」
「どうせ苴の奴らに何もかも奪われる」
呪うように、彼は言った。
「それか、引き上げられる年貢を払えずに飢えて死ぬだろう…。なら、奪う側に回るんだ…」
上から刃が突き落とされた。
胸を貫かれて、男は息絶えた。
「情を移すなよ。辛いだけだぞ」
刀を引き抜きながら波瑠沙は言った。
正論だとは分かっている。だけど、すぐには動けなかった。
「朔」
叱るような声音で渋々立ち上がった。
反発の言葉を噛み殺して振り返る。
あいつはずっと、こういう気分だったんだと思いながら。
波瑠沙は焚火に土を撒いて消していた。
「煙で誘き寄せちまったんだろ」
光源が無くなると、辺りは仄白い明るさで包まれている事に気付いた。
「獣と人間、どっちに襲われたいかって話だな」
冗談めかして問う顔に、怒りは冷めた。
「…どっちもどっちかな」
「じゃ、熱いし煙たいから今晩から焚火は無しで」
「そういう問題?」
けらけら笑って彼女は湧水で顔を洗い、手で掬った水を飲んだ。
人を斬って悄気た顔をされるくらいなら、獣に襲われる危険を取る。
波瑠沙の言いたい事は分かった。
「苴に入ったら宿を取ろう。お前をお嬢さんに化けさせなきゃならないし?」
「都に入ってからで良いだろ…」
「私がお前の顔に化粧する練習も兼ねて、だよ。都に着く頃には完璧にしてやるから」
「あー…」
もう反論の言葉も無い。
刀を背負って、馬に鞍を置いて。
「さて、行くか」
山の端に朝日が覗いた。
命を失った五つの体を捨て置いて。
出来れば傷を治してやり直させてやるつもりだった。
戦さえ無ければ彼らは罪を犯す事は無かったのだから。
それでお前は彼女を守れるのか、と。
友に怒った己の言葉が返ってくる。
結局、考える事は同じだ。そういう存在だから。
「ああいう輩を作らない世にしようとしてたんだろ?お前の王様は」
「うん、そうだけど」
「優し過ぎたんだな、きっと。でも、嫌いじゃない」
振り返って、にやりと笑う。
「早く元に戻してやろうぜ」
大きく頷いて。
何も間違ってなどいない、この道を急いだ。
南下するからか盛夏が近付くからか、道は徐々に暑くなった。
薮の中を歩めば切り傷が無数に出来ている。得体の知れない虫も多い。肌を露出して進む事は出来ず、お陰で汗だくだ。
馬で歩めぬ道もある。綱を引き、刀で道を阻む枝や蔓を叩き切りながら進む。
日暮れ、やっとの思いで開けた水場に出た。
澄んだ水の貯まる池。まずは人馬共に喉を潤す。
息を吐いて、波瑠沙は衣を脱いだ。
「そろそろ里に降りても良い頃じゃないか?」
脱衣しながら溜まり兼ねたように問う。
背中に汗が流れ落ちている。
「確かに。もう国境は超えてる筈」
山道ばかりで国境線など掴めない。朔夜は地図を広げていた。
「多分今、この辺」
戔の都から苴の都まで、南西に下っていく線を指で辿り、その中ほどより苴寄りに止める。
裸身になった波瑠沙が上から覗き込んで、ふん、と頷き。
「じゃあここから真っ直ぐ南に下れば街道に出るな。明日はこの道を取るか」
「分かった。じゃあ…」
西に沈む陽を確認して、南の方角へ目をやる。
ちょうど池の対岸だ。そう厳しそうな道ではない。
ちょうど食糧も残り少なくなったし、丁度良い。何より薮道にはすっかり閉口している。
暑さに溜まり兼ねて朔夜も上衣を解いた。
ざぶざぶと大きな水音に気付いて顔を上げれば、波瑠沙は二頭の馬を引いて池に入っている。馬達もさぞ気持ち良いだろう。
「お前も来いよ」
池の中から誘う声。もう予測はついていた。
汗で張り付く衣を剥がすのももどかしく、帯だけ解いて水の中に飛び込んだ。
冷たさに心身共に洗われるような。
一度足をついて水面に顔を出す。腰ほどの深さで、足下は柔らかな水草で覆われていた。これならば明日は馬を連れて池を横切った方が早い。
水中で浮かびあがる衣を脱ぎ、絞って岸へと投げた。
その間に波瑠沙は馬を繋いで戻ってきていた。
更なる深みや危険な箇所が無いか水中を歩んで探す朔夜の横に追い付き、冷えた腕を肩に乗せる。
「最初に比べたら随分思い切りが良くなったよなぁ、朔ちゃん?」
「揶揄うなよ。今真面目に明日の道を探ってるんだから」
「馬も泳げるし、別に大丈夫だろ」
「でも水の中は舐めてかからない方が良い。何があるか分からないから」
「真面目だなあ、もう」
「一度溺れたからさ。餓鬼の頃に」
「ほー?」
「まあ、あれは鉄砲水だから防ぎようが無かったんだけど。流されて、初めて死んだ体験」
「お前、命いくつ持ってんだよ」
呆れて笑いながら問われる。ん?と朔夜は首を傾げる。
「一つだと思ってたけど、違うのかな」
「訊いてるのはこっちだ」
「あ、そうですね。ごめんごめん。俺もよく分からない」
「ふーん。そういうものか」
「その辺の事が分かったら悪魔に変わる事も無くなるのかも」
「そりゃ是非解明して欲しいものだな」
「分かんないけどね」
対岸まで調べ終わる頃には闇が迫っていた。
少なくとも歩いてきた場所は危険ではない。二人は引き返して元居た岸に向かった。
馬達がのんびりと草を食んでいる。
何も言葉を交わさなくとも、満たされた時間。
そして、自分だけという罪悪感。
早くこれを消して彼女と向き合いたい。
龍晶と華耶が幸せになるまでは、お預けだろうけど。
岸に上がって先刻投げておいた自分の衣を地面に広げて、そこに波瑠沙を座らせた。
「どうした?今日はなんだか紳士的だな?」
「いつもと同じだよ」
残り少なくなった万頭を取ってきて一つを手渡す。
並んで座って、月明かりが揺れる水面を眺めながら食べた。
時折触れる肌は徐々に乾いていった。表面は水に冷えたままでも、芯の温もりは感じた。
「…どうして良いか分からなかった」
ぽつりと朔夜は言った。
「自分の力で誰かを幸せにしようなんて、考えた事無かったから」
「皇后様は違ったのか?」
「うん…俺がそこから逃げたから、龍晶の所に行って貰ったんだ」
「よく怒られなかったな?」
「龍晶が華耶を好きだって分かってから、そうするしかないって思った。いや…もっと前からそうしようとは思ってた。だって俺と一緒に居て幸せになる筈無いもん。あいつならそれが出来るから。二人が結婚して、俺は蚊帳の外になっても、嬉しかった。二人が幸せである事が」
それが全ての発端だとは、考えたくない。
多分、灌王はもっと前――龍晶が初めて灌を訪れ、その命が長くないと知った時からこの計画を立てていたのではないか。
華耶が現れなければ、他の適当な姫を皇后に当ててきたかもしれない。
そう考えれば自分の行動が救われるのだが。
龍晶は華耶以外には有り得なかった。だから良かったと――この旅の結末でそう言えたら。
「お前は自分の幸せを考えた事が無かったんだろ?」
波瑠沙に問われて、彼女を見返した。
「考えた事は無かった。確かに、それが何かも分からなかった」
「今は分かる?」
「うん。分かった。…波瑠沙は?」
ん?と問い返される。
「俺と居ても大丈夫そう?」
遠慮がちな問いになった。
「ばーか。当たり前だろうが」
これが答えだとばかりに、濡れた衣の上で肌を重ねる。
もう最初の恐怖心は無い。幼い頃の光景が重なる事も。
やっと分かってきた方法で彼女に応える事以外には、何も考えなくて良い。
その筈だけど、罪悪感だけはどうしても拭えないまま。
それが肌を通して伝わらないように、心の奥底に隠して、誤魔化して。
でも多分、誤魔化し切れていないのだろう。
時折彼女は動きを止めて、じっと目を見詰めてくる。その奥底を覗くように。
そして優しく笑って、何も問わずに。
全て解っているのかも知れない。
そうだとしたら、有難いのだけど。
終えて、気怠さに任せてお互い腕を回したまま寝転んでいる。
うとうととしていると、茂みが不自然に鳴った。
怠く溜息を溢す。
「獣かな」
波瑠沙が耳打ちした。
首を横に振る。どうにもこれは二本足だ。
「このままやり過ごそうか」
辺りは暗いが月明かりはある。果たしてそれが可能かどうか。
しかし何事も起こらなければそれに越した事は無い。何より動くのが怠い。
息を潜めて過ぎ去ってくれる事を祈っていたが、足音は近付いてきた。
仕方がない。腹を括った。
「相手は一人だ。俺がやるから、寝てて」
波瑠沙はちょっと笑って、頷いた。
相手は茂みを抜けてこちらに近寄ってくる。
寝ている振りで寄せ付けて。
頭上まで気配が近寄った時、跳び上がって相手の腕を取り、着地の勢いで相手を押し倒して腹這いにした上で馬乗りになり、既に捕らえていた腕を捻り上げた。
更に空いている方の手で相手の得物を腰から抜き、首筋に付ける。
「何者だ?」
問うと、伏せられた首が横に振られた。
「ちょっと待ってよお月さーん。愉しい時間を邪魔されてお怒りなのは分かるけどさぁ」
頭上からふざけた声がした。
心底から面倒臭い溜息と共に名前を吐き出す。
「溟琴(メイキン)…」
すとん、と目前にその男は着地した。
波瑠沙が飛び起きて刀を構えた。
「大丈夫大丈夫お嬢さん。いくらなんでも悪魔君の恋人を襲えるほど命知らずじゃないから」
「お前もう…何なんだよ…」
朔夜の声が疲れ切っている上に呆れ返っている。
「それはそうと、その人を解放してやってよ。敵じゃないから」
「じゃあ何なんだ?」
それを知らねば退(ど)ける気にはならない。
「藩厳の部下だよ。君に道を教えに来た人の良い忍びさん」
「それを早く言え!」
慌てて飛び退く。ついでに脱ぎ捨てていた服を引っ掛けた。
波瑠沙にも服を投げてやる。疑問符が顔から出ているままだが、彼女は刀を収めて受け取った衣を羽織った。
その"人の良い忍び"はずるりと起き上がって、痛そうに首や肩を回し、これまた人の良い笑顔を浮かべて言った。
「こんな時間に近寄った儂が悪かったなぁ。済まん済まん」
調子が狂いまくる。額を掌に打ち付けて朔夜は文句を言った。
「頼むよ!もう少しで殺す所だった」
波瑠沙は殺気満点に目を細めて呟く。
「いや、あのさ。殺されても仕方ないだろ。人が抱き合ってる所を上から覗いてんだから。何なら今からでも遅くはないけど?」
「待って待って待って」
何故か朔夜の方が焦って彼女を止めている。
「いやぁ、済まんなぁ。気持ち良さそうに寝てるなぁと思ったら声を掛けられなくて」
「本気で寝てるかどうかも分からないのかよ、忍びの癖に…」
「人間相手の仕事はした事が無くてな。情報の伝達が儂の仕事」
「ああ、なるほど…で済まされる事じゃないんですけど」
わははと笑われる。新種発見に頭を抱えて疲れ果てる二人。
「とりあえず夜明けまで放っておいてくれ。寝たいんで」
朔夜が要望を出すと、失敬失敬と笑いながら薮の中へ戻っていった。そこで自分も寝る気らしい。
「ああ、それでね悪魔君」
当然のように溟琴が話を継ぐ。
「都に着いたら頼みたい仕事の一つや二つあるから、まあそのつもりで来て欲しいって、皓照さんの伝言」
「仕事?」
眉間に皺を寄せつつ問い返す。
「苴も掃除が必要な時期だからねぇ。甘い餌に群がる虫が大変なんだよ」
「害虫駆除なんてやった事無いんだけど」
「安心してよ。いつもの暗殺だから」
「はあ?」
「ちなみに餌は君のお友達。ほら、それならやる気も起きるだろ?」
途端に思考が凍り付いた。
その間に溟琴はひらひらと手を振り、波瑠沙に向かってにっこりと笑って見せてから闇の中に溶けた。
「…朔」
波瑠沙の声に我に返って、無理に笑って振り返る。
「悪かったな。変な奴に付き合わせて」
「餌ってどういう事なんだ」
頭の中を占めていた事を問われた。
貼り付けていた笑みが消える。
「…分からない。ただ…」
夢の中で聞いた悲鳴は。
「早く行って助けてやらないと拙いのは確かだ…」
「だから道案内を寄越したんだろうか」
「そうかも知れない。…とにかく今は寝よう。こうなったら寝れる時に寝といた方が良い」
「私は寝れるけど」
お前は?と言外に問われて。
答えないうちに、頭を抱え込まれて共に倒れた。
疲れ切った意識は温かな胸の中で次第に蕩けた。
でも夢の中では、死を乞う友を見ていた。
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