月の蘇る 5 『お前を救いに来る連中を殺せ。 目覚めて三日。それを過ぎれば――』 意識の狭間で記憶が警鐘を鳴らす。 目覚めてはいけない。 しかし、いつまでもこうしている訳にもいかない。 迷っているうちに、どんどん意識ははっきりとしてくる。 目を開けるか、否か。 「起きてるだろ?」 燕雷の声。 同じ室内に居るのだろう。 「ここでずっと退屈してる俺の身にもなれよな。もう三日だぞ」 ――三日。 鋭く息を吸って、微睡を全て吹き消した。 白い光の世界。 「…何が、三日なんだ…?」 呼気だけの問い。それでも燕雷は満足げな笑みを見せた。 「ここに来て三日目さ」 白い世界がだんだんと輪郭を表し、色彩を加えてゆく。 たっぷりの光を取り込む大きな天窓。 その向こうの青空。綿の様な雲。 「…見える…」 失った筈の世界。ぎこちなく眼の上に手を置き、一度瞼を下ろして。 それでも指の間から、光の世界が見える。 はっとして、今度はその手を見る。 感覚がある。動かす事も出来る。 軽く痺れてはいるが、生来の肌の白さの下に血の通う色を取り戻している。 「傷は全て治った」 燕雷が半笑いの調子で言った。 「なんせ二ヶ月近く寝てたからな」 「え…?」 素直に驚いて男を見る。 煙草を吹かしながら一人で将棋をしていた。 「お陰で随分上達しちまったぞ。全然知らなかったのにさ」 ここに来て三日、ずっと同じ事をしていたらしい。 「知った事かよ」 憎まれ口ににやりと笑うと、彼は立ち上がった。 「親父さんに一言言ってくる」 「…待て!」 咄嗟に、止めた。 「何だ?面会謝絶なら解ってるぞ?喧嘩するにはまだ早い」 「違う…いや、奴とは会いたくもないけど…。問題はそんな事じゃない。影が、見てる」 「影?」 「俺の見張りをする…繍の隠密だ。前にあんたを襲った」 「ああ。それなら大丈夫だ。ここをどこだと思ってる」 「…え…?」 横の窓から見える景色。 緑の多い、のどかな田舎の町並みだ。 「繍の…国内じゃないのか…?」 「ここは潅だよ。繍のお隣のお隣さん。間は苴だ」 また素直に驚いた顔をする。 「その潅の、王宮の中だぞここは。あんな怪しい奴が入り込めると思うか?」 が、その言には険しい顔が向けられた。 「奴を嘗めない方が良い。異国だろうと、必ずどこかで様子を伺っている筈だ。王宮までは入れなくとも」 「ま、少なくともここは大丈夫だ」 気楽に燕雷は言って、上を見上げる。 「周りは見張りだらけだし、ご覧の通り天井裏も無い。可能性としては、俺がそいつだって事くらいだな」 「…あんたに化けるのはかなり骨だな」 「そ、骨折って化けた所で本物の骨の一本や二本は折られるからな、俺に」 「皓照に、だろ」 燕雷は笑って否定しなかった。尤も骨だけで済むとは思えないが。 朔夜は真顔で燕雷に言った。 「俺はあいつを殺さないとならない」 「…何だって?」 笑いが凍り付く。 「俺が目覚めて三日以内に。それを過ぎれば…」 「華耶ちゃんが危ない?」 「ああ」 燕雷は少ない言葉に全てを悟ってくれた様だ。 「よく話してくれたな。あとはこっちで考えよう」 「燕雷」 「煙草が切れた」 扉を開ける手を止め、振り向いてにやりと笑う。 「ちっと補充してくる」 閉まった扉を横たわったままじっと見る。 ――これが最善だ。 皓照には絶対に勝てない。しかし、倒すべき敵は皓照ではない。桓梠だ。 ならば、それと気取られぬ様に裏切るのが最善の方法だろう。 今ならそれが出来る。 一度全てを失った。 全てを諦めた。それでも一つだけ残った、希望。 その光を掴み直す為に、地獄の淵から帰ったのだ。 千虎の導きによって。 無駄な見栄は全て棄ててきた。 もう、独りで戦う必要は無い。 皓照が味方なら、或いは―― 「いや、必ず…」 敦峰でも誓った。 「必ず、俺達が、勝つ…!」 あの国に虐げられてきた、全ての魂に報いる為に。 信じて待っているであろう華耶を、裏切らない為に。 皓照と潅国王が談笑している姿を遠目に見、燈陰は溜息をついて背を向けた。 確かに潅は皓照へ絶大な信頼を置いている。信頼と言うより、国の防衛を頼りきっている、と言った方が良いくらいだ。 だがしかし、その皓照が連れて来た、自分の王宮で匿っている子供が何者か――知っているのだろうか。 “月夜の悪魔”。繍と隣接せぬ国々でも人の口に上り恐れられる、その張本人と知れば、あの様に笑っていられないだろう。 皓照は一体、王にどう説明したのか。こちらには一切伝わってこない。 隠しているのだろうか。 朔夜の素性を。 隠しきれるのだろうか。 彼が悪魔である事を。 今は衰弱しているが、力が戻れば暴発しかねない。それがどういう結果を齎すか、誰にも分からない。 ――否、もしかしたら。 皓照は判っているのか。全て織り込み済みでここに連れて来たのか。 確かに皓照ならば、朔夜を止める事は易しいだろう。殺してでも。 そうだ。今もう彼は朔夜に対して何とも思っていない。切り捨てても良い存在と考えている。こだわりを捨てた、と。 だとしたら、朔夜救出にわざわざ付き合う彼の狙いは、別の所にあるのか――? 視線を後ろに向ければ、燕雷が足早に近付いてくる。 「おう」 燈陰の姿を認め、いつもの様ににやっと笑い軽く手を挙げる。が、目が笑っていない。 「どうした?」 問うと、何の事は無いとばかりに大声で返事が返った。 「何、煙草が切れたから、皓照に分けて貰おうってな」 奥から聞こえていた談笑が一瞬途切れた。 見れば、皓照がさも何か思い出したかの様に、席を立っている。 燕雷は擦れ違いざま、燈陰に低く告げた。 「目覚めた。罠はアイツ自身だ」 「…何…!」 「敵は皓照を狙っている」 その本人がこちらに近寄ってくる。 「生憎、私も切らしてるんですよ」 そもそも煙草は吸わないが。 「仕方ないな…我慢するか」 「おや。君が煙草を我慢するのは命に関わるんじゃなかったですっけ?」 「そうそう。でも無いんじゃ仕方ないだろ?禁断症状でも何でも来いってんだ」 「しょうがないなぁ。買ってきてあげますよ。お駄賃は頂きますよ?」 「へへっ、悪いな」 「高くつきますからね?」 念を押しながらも皓照は踵を返した。 訝しげに燈陰は燕雷を見る。 彼はまた、にやりと笑って見せた。 「連れ添う年月が長いとな、もう夫婦みたいなモンだ。言わなくとも通じる」 「…ほー」 「信じてないな」 「いや、連れ添うなら女が良いなと思っただけだ」 「…それを言うなよ!」 ふん、とあしらって燈陰は歩きだした。 「アイツの所には行くなよ」 「解ってる」 小声の忠告を払いのけ、ずんずんと歩く。 「どこへ…?」 「奴がお前の吸う草を買ってくるのかどうか見てやるんだよ。呆けた所があるからな、とんちんかんな物を買って来ないとも限らねぇ」 「ま、確かに。煙草も野菜も草なら同じと思ってるかも…」 「後を尾けて様子を見る。朔は頼んだ」 「ん」 燈陰もまた城を出、燕雷は元来た道を戻ろうとしたが、思い当たって厨房へ寄った。 目覚めた以上は何か食わせねばなるまい。食わねば、動けない。 敵の目は怪しい行動に出た皓照に向いている筈だ。食糧を持って行っても目覚めたと悟られる事は無いだろう。 朔夜は目覚めていても寝台から動けないでいた。 影の目がいつ向いているか分からない。対策が練られるまで狸寝入りをするつもりで居る。 尤も正直な所、そんな物とは関係無しに、動きたくとも動けないのだが。 流石に二ヶ月も寝ていると、身体のあちこちの調子が狂っている。身体中痛むし、血管に血が残っているのか疑わしい。少し動くだけでもくらくらする。 ――そう言えばあの時は一年近く寝てたんだっけ。 五歳の、川に溺れた時。 記憶の空白。気付いた時は一年の月日が流れていた。 あの時、動ける様になるまで一ヶ月ほどかかった。 勘弁しろ、と苦く笑う。 三日なんてとても無理だ。 ふと、真顔に戻って考える。 俺が動けないのを良い事に、このまま華耶を見殺しにしないだろうか…? 燕雷と燈陰はまだ動いてくれるだろう。だが、皓照は…? あの男、腹の底で何を考えているか、全く読めない。 目的の為ならどんな手段も躊躇わない、そういう類の男だ。でなければ仲間にしようとした自分を殺すなんて綱渡りはしない。 あの男が、華耶をわざわざ助けようなどと考えるだろうか―― 不安にかられた時、部屋の扉が細く開いた。 慌てて目を瞑る。 心臓の高鳴る危機感とは裏腹に、聞こえてきたのは子供の声だった。 「お兄ちゃん、起きてる…?」 あまりに意外な、幼い声に、思わず目を細く開ける。 七つ八つくらいの、身なりの良い、栗毛の髪を持つ男の子が、扉の前で固まっている。 固まったのは朔夜とて同じだ。 何故こんな所に子供が居る!?叫びたいのは山々だが、そうもいかない。 迷って、悲しげな子供の目を見て、結局返事だけ返した。 「起きてるよ」 子供はぱあっと顔色を明るくして駆け寄る。 朔夜は参ったなと、顔色を曇らせた。 子供なんて殆ど見た事がない。 確かに粱巴の村には子供が居たが、あまり接点が無かった。何より昔の事だ。 どうすれば良いものか、頭を抱える暇も無く敵はやってきた。 「お兄ちゃん、元気になって良かったね!」 元気になるどころか悪化しそうだ。 朔夜は忌々しげに人差し指を立てて唇に当てた。 それを見て子供の勢いは少し削がれる。 ただ、不思議そうに大きく見開かれ、穴が空く程見詰められる目は、何とも居心地悪い。 「…何だよ、お前」 堪り兼ねて口を開いた。 一瞬、不思議な間。 「お前って…僕の事だよね!?」 やたらと嬉しそうだ。 朔夜がぽかんと口を開けて頷くと、敵は堰を切った様に喋りだした。 「僕、そういう呼ばれ方されたの初めて!あ、お兄ちゃん、僕はね、鴇岷(ホウミン)って言うんだ。お兄ちゃんは他所の国の人だからきっと知らないよね。僕の父上はね、この国の王さまなんだ!すごいでしょ!?」 咄嗟には何を言われたか解らず、唖然と相手の顔を見るばかりだったが、徐々に呪縛が解けてくると、更に顔は引き吊る。 今この子供が言った事が事実なら、今目の前に居るのは―― 声を押さえて朔夜は怒鳴った。 「出て行け」 鴇岷は驚いて、少し体を引かせた。 更に朔夜は追い討ちをかける。 「俺はお前なんか一捻りで殺せるんだ!死にたくないならすぐにここから離れろ」 効きすぎる程効いた脅しは、子供を即座に扉へ向かわせた。 開いた扉への、鴇岷が走り去って行った向こうに、燕雷が大量の食糧を抱えて立っていた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |