月の蘇る 3 十日目の朝が来た。 これで見納めになるであろう朝日を浴びながら、朔夜は苦しい呼吸を続ける事だけに意識を傾けていた。 傷は二割も治らなくなった。 水も喉を通らない。恐らく内蔵をやられたのだろう。無理に飲めば内から激痛に襲われる。 目は周囲の明るさを認識するのみ。物の輪郭はもう殆ど捉えられない。 視力が使えぬ事で聴力が研ぎ澄まされる、が、聞きたくないものばかりを聞く。 衆目の憎悪の言葉は、精神力を貪る様に奪ってゆく。 昨日の夕刻には兵に向けて『殺してくれ』と呟いていた。自ら。 もう限界だった。 今日の正午には斬首が待っている。 寧ろ、それを、待ち望んだ。 それで楽になれるのなら。 ふうっと意識が遠退く。 見えない筈の目に、華耶の姿がはっきりと写る。 悲しげに、こちらを見て。 『酷いよ、朔夜。自分だけ先に行っちゃうの?』 …ごめん。華耶。 『私も一緒に行くよ。良いでしょ?』 駄目だ。それは、絶対に。 『なんで?ずるいよ、そんなの』 うん…そうだな。でも駄目なんだ。 俺、お前に生きてて欲しいから。 『じゃあ、朔夜も生きてよ』 無理だよ。みんな俺が死ねば良いと思ってるから。 『関係無いよ。私はあなたに生きてて欲しい』 でもな、華耶。 俺、もう、駄目だ。 疲れた。生きようとする事に。 寝て良い?もうずっと、眠れてないから… 「なんだ、誰も居ないのか」 拍子抜けして燕雷は言う。 「まだ夜が明けたばかりだからだろ。月のあるうちは誰も近寄らない」 竹矢来を軽々と昇りながら燈陰が応じる。 「それだけなら良いけどな。罠じゃあるまい」 燕雷も竹矢来に足をかける。 「その可能性は高いが、それで引き返す材料にはならない」 「親子だねぇ」 燈陰が竹矢来から飛び降り、刑場の内に入る。燕雷も続いた。 「思ってたより随分弱ってくれてて助かったよ」 燕雷の軽口を、当然見咎める父親。 睨まれて、慌てて言い訳する。 「いや、だって、こんな所で親子喧嘩されても困るだろ!?」 「するか、そんな事」 燈陰は一蹴するが、親子喧嘩の発端は必ず子供の方である。 刑場の中心。血の匂いが濃くなる。 吊られた手の許す限り、前のめりにぐったりと倒れている少年。 血が固まり、全身赤黒く汚れている。 白地の着物は真っ赤に染まっていた。 「酷いな、こりゃ」 眉を潜めて燕雷が唸る。 燈陰は躊躇わず傍らに膝を付き、長い髪を掻き分けてその顔に触れた。 「おい、朔」 反応は無い。眼は薄く開いているが、瞳孔が開き、死人の様な眼だ。 脈を探る。微かに動いてはいる。 「生きてるよな?」 「ああ。こいつは死ぬ事も容易じゃないからな。だが危ない。早くしよう」 手首に掛けられた鉄錠を掴む。 「どうやって外すんだよ、それ」 「……」 「まさかの考え無し…?」 「煩い。考えさせろ」 腕を組む燈陰を余所に、燕雷はきょろきょろと辺りを見回す。 そして燈陰の横を回り込み、刑台の柱の裏で何やらごそごそと音をたてて。 「おい、何やって…」 「見っけ」 指先に輪っかを引っ掻けて掲げ、にやっと笑う。輪に繋がれている鍵。 「いやぁ、こんなに簡単に見つかるとは、ますます罠臭いな」 「……」 何だか悔しい燈陰。 鍵を差し、鉄錠を外す。 両腕が落ち、支えを失った身体は横に倒れる。 それを、燈陰の腕が抱き止めた。 「さて、取る物は取ったし、帰りますか」 「おい燕雷」 「ん?」 「お前が持って帰れ」 「…はい?」 応を言う前に、肩に服でも掛ける様に置かれた。 慌てて支える。 「どうして!こういうのは親父の役目だろ!?」 「適所適材って言うだろ」 言いながら向けた視線の先。 兵が波の様に押し寄せてくる。 「まぁ、確かにあんたの方が刀は使えるのは認めるけど…」 よいしょ、と身体を支え直して。 「そんなの建前なんだろ?本当は怖いんだ、コイツが」 「…まさか」 「力の事じゃないよ。自分の子供として接するのが怖いんじゃないか?」 そうでなければ、名前で呼ばすなんて事はしない。 「戯言はそこらにしておけ。…行くぞ」 走る。 竹矢来に道を阻まれ、燈陰は刀を一閃させた。 がらがらと崩れる竹組み。 燕雷が高く口笛を吹く。 「さっすが」 「余裕こいてないで走れ!!」 「ほーい」 燈陰は暫し立ち止まって燕雷を先に行かせた。 あの男、逃げ足は速い。戦場でいつの間にかばっくれる事にかけては超一流だ。 無論、それについてはあまり褒められた物ではないが。 しかし玄の弓という特殊な組織の中では何かと役立つ。 燈陰は少しずつ燕雷を追いながら、敵の動きを見ている。 違和感。 数は多い。が、まるで本気で追う気が無い様だ。 …罠、か。 燕雷の言葉を思い出した時。 「燈陰!!上!!」 言われるがまま上を見上げると、兵舎から無数の矢が突き出ている。 一瞬後、それは放たれた。 文字通り雨の様に降り注ぐ矢。 燈陰は頭上に刀を構え、己に突き刺さらんとする矢を弾いた。 数が多いだけで、本当に命中する矢などそう多くはない。 雨が止む。 「行くぞ!!」 蚊帳の外で見ていた燕雷に怒鳴りつけて、次が来る前に兵舎を離れる。 「なんかさ、ぬるいよな?」 走りながら燕雷がぼやく。 「ああ。俺はともかく、お前は逃がす気だ」 「うん、俺と言うか…」 ちらりと肩に担ぐ少年に目をやる。 「たまたま俺が持ってるから、だろうけど。でもその意味が解らんな」 「細かい事は後だ!」 施設の門を目前にして、敵軍勢に前方に回り込まれた。 「下がってろ」 「言われなくとも」 燈陰の鋭い命令に対し、へらへらと笑いながら燕雷が応える。 敵の壁が迫る。燈陰もまた、前へ走り出した。 「これまた…親子だねぇ」 この戦いぶり。 待たない。自ら向かってゆく。 互いに間合いに入った。 盾の上から突き出される刀。燈陰は姿勢を低くしてかわし、盾の下から僅かに狙える足に刃を走らせた。 最前が崩れる。そこから群集の中へ入り込む。 隙を突かれた兵達が陣形を崩し始める。 「ほら、親父さん頑張ってるぜ?」 燕雷は背負う少年にそっと話し掛ける。 「お前の為にだよ。この姿が見えたら…許してやれよな」 相変わらず、瞳には何も写っていない。 「…その前に、お前も頑張んなきゃな」 燈陰は敵中で一息ついた。 力は大した事は無い。が、数が多い。 ちらりと今来た方に目をやれば、燕雷が胡座をかいて寛いでいる。茶でも欲しいと言わんばかりだ。 視線に気付いてこのふざけた男は言った。 「まだかかるかー?早くしろー」 多分にムカっと来た勢いで向かってきた敵を斬り伏せた。 「…埒が開かない…!」 苛立ちをそのまま口にした時。 鮮血が舞い上がる。 ばたばたと兵が倒れる。 敵は理解の出来ぬ攻撃に一瞬、凍り付いた。 そして我に返った者から、波が引く様に、我先にと逃げ出した。 「…来たか」 あまり面白くなさそうに燈陰が低く呟く。 「おーう!来たか!」 楽しげに、同じ事を燕雷が声高に言った。 「来てあげましたよ。仕方ないから」 皓照が悪戯っぽく笑いながら現れた。 「随分遅かったじゃねぇか」 燕雷は再び朔夜を背負い、友に走り寄る。 「ええ。ちょっとお嬢さんをお風呂に入れて差しあげたものですから」 「…は?」 「さて、早いとこおいとましましょうか」 物凄く疑いの眼差しで友から見られている事など、どこ吹く風とばかりに爽やかに皓照は言った。…と、言うより寧ろ疑惑に気付いていない。 半日ほど馬を走らせて、皓照は鬱蒼とした山道を選び二人を案内した。 夕暮れ。木陰の元は既に闇。 道無き道を三人は進む。 「何だよ?こんな所に連れて来て。また隠れ家でもあるのか?」 燕雷が辺りを見回しながら皓照に問う。 「隠れ家よりも調度良い場所があるんですよ」 答えて彼は更に鬱蒼と草木の生える方へ道を選ぶ。 「遭難しないだろうな、これ…」 苦笑しながら言って燕雷も先導に従う。 その後ろで燈陰が黙々と二人について行く。 日がすっかり沈んだ頃、漸く皓照が駒を止めた。 「着きましたよ」 「ええっ…!?」 一見、今までと何ら変わらない風景。 しかし、下馬した皓照が高く伸びた雑草を掻き分けると。 「洞窟…?」 「休暇にはぴったりの場所なんです。さ、どうぞ」 中は滑らかな岩肌に囲まれ、天井は高く、雨露を避けるには調度良い。 奥行きはそこまで無い。最奥から水音がする。涌き水が溜まった池の様だ。 その水面が静かに輝く。見上げれば、そこだけ天井が無い。 月明かりが、降り注ぐ。 「ここは…?」 「大昔に来た事があって。いやぁ、懐かしいなぁ。あれ以来初めて来ましたよ」 皓照の言う“大昔”は燕雷にも判らない。 問う前に、皓照は手を差し出した。 「朔夜君を」 燕雷は思い出した様に背負っていた少年を皓照に預ける。 彼は、月の浮かぶ池に朔夜を浸した。 そして傷付いた額に手を当て、何かを念じている様だが、何をしているのかは判別出来ない。 ややあって皓照は顔を上げた。 「今のは?」 今まで黙っていた燈陰が問う。 「ちょっとばかり私の生気を分けてあげました。ま、気休め程度の事です」 「……」 皓照は洞窟の穴から月を見上げた。 「彼が生きる気を棄て、月が彼を見放すならば、この命は今宵限りでしょう」 「――燈陰」 ただならぬ気配で皓照に詰め寄った燈陰を、燕雷の手が抑える。 皓照は笑みを浮かべたまま。 「私達の決められる事ではありません。天と、彼自身の問題です」 「…離せ」 低く、燕雷に言って、抑える手を離させる。 燈陰は皓照ではなく、跪いて朔夜の顔を覗いた。 いつの間にか瞼は閉じられている。 「…生きるよな、お前は」 月光に照らされる顔は、汚れ、腫れ上がり、裂けて、かつての美しさは見る影も無い。 身体の皮は剥けて、所々膿み、水中に血液が未だに流れ出ている。 吊られ放しだった腕は、血が通わず、壊死していた。 それでも。 「生きろ…。まだ、喧嘩も終わってないだろ…。あの時の事も話さないといけない…。それに…」 少し、躊躇って。 「一度くらい、親父って呼ばせたいしな…」 「燈陰…」 燕雷が小さく呟く。皓照は見るともなく様子を見ている。 燈陰は独白を続けた。 「こいつが生まれた時、俺はさっさと全てを諦めた。死産だったんだ…。現実を全部投げ出して、そんなもんだろって悟った振りをして…。安心した自分に気付いた。これで父親になんざならなくて良い、って」 しかし、その全てを覆す様に、産声は響いた。 「…でもコイツは生きた。俺は…正直、気味が悪かった」 皆が神の子だと崇め、祝福した。 その一方で、誰にも打ち明けられない心の奥底で。 化け物だと、思った。 「二歳までは触れなかったよ。近付くのも嫌だった。三歳になって、こいつから近寄って来て…回らない舌で“お父”って呼ぶんだ。それで、ぞっとした。化け物に父親と呼ばれるのかって」 「だから、名前を…」 「酷い親だろ?五歳の時、川で溺れて一度死んだ。俺は報せを受けても何とも思わなかった。生まれた時に延長された時間が、今止まったんだって、その程度だ。また蘇って…やっぱりこいつは化け物だと思った。忘れかけていたのに…」 「でもその頃から刀は教えてたんだろ?」 「筋が良いから、面白半分にな。別に息子だから本気で仕込んでやろうなんて思った訳じゃない」 「十分だろ」 ふっと笑って燕雷は燈陰の横に腰を下ろした。 「今は、化け物なんて思ってないんだろ?やっぱ自分に似ると可愛いよな、ガキって」 「…お前」 「俺も居たよ。ちょっとの間だけ。女の子だけど俺に似ちゃってさ、可哀相に」 「…死んだか」 「…うん。皓照が助けようとしてくれたけど、間に合わなかった」 「それは語弊がありますよ。私は生きる可能性の高い君を先に救っただけです。初めからあの子は諦めていました。君には悪いけど」 後ろからの言葉に燕雷は振り向いて手を振った。 「いいっていいって。解ってるから気にするな」 「……」 自分の知らぬ二人の過去を初めて垣間見、燈陰はじっと笑う燕雷の横顔に目を注いだ。 視線に気付いて燕雷は燈陰を見返す。 「こんなもんだよ、父親なんて」 少し自嘲気味に彼は言った。 「自分の命に代えてでも…って、思っても出来る事じゃないしさ。出来たら幸運だと思うくらいの事だろ?」 「ああ。…でも」 燈陰はぽっかり開いた蒼い闇を睨む。 少し欠けた月。 「天に盾突いてでも、運命を変えたいと…今は思う」 そうだな、と燕雷は静かに頷いた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |