月の蘇る 9 翌日。 久しぶりにすっきりと目覚めた朔夜は、この窓の無い部屋に閉じこもっていても仕様がないと思い、初めて扉を自ら開けた。 薄衣一枚しか身に付けておらず、武器の類は勿論無い。いきなり外に出たら嫌だな、とぼんやり考えた。 心配は杞憂に終わり、扉の向こうは明るい廊下だった。 いきなり眩しい空間に出て、しばし眩む目を直す。 目が慣れてくると、そこは縁側風に片側が全て窓になっている長い廊下だと分かる。窓は全て開け放され、木々の繁る庭に繋がっていた。 木漏れ日が眩しい。まだ朝だろう。 右、左ときょろきょろと辺りを窺う。こちら側は障子が並んでいる。 どうしようか、下手に進んで蛇を出したくはない。 扉を持ったまま立ちすくんでいると、隣の部屋の障子がすっと開いた。 ぎょっとして本能的に寝台へ逃げ帰る。が、寝台に飛び込んだ際に思いっ切り足の小指をぶつけた。 静かに悶えている所へ、呆れた声が降り懸かる。 「朝から何やってんだ」 その声が蛇二人ではなく燕雷だったので、朔夜は溜息をつかんばかりに安心した。 「ここの角で小指ぶつけた」 寝台の一角を指して素直に説明する。 「意外と結構、間抜けちゃんだな、お前」 「なにぃっ!?」 「まぁまぁ、冷徹な暗殺者よりも良いんでない?」 「……」 それを言われると返す言葉も無い。 「あのさ…」 ふと気になった事を口にしようとした時。 ぐぅぅ、と大きな音。 「…腹減った?」 「……」 今度は恥ずかしさで言葉が出ない。 「そりゃそうだよな。待ってろ、皓照の作り置きがあるから」 「俺が行っちゃ駄目?」 「ん?」 「ここにずっと居ると…流石に腐りそうでさ」 確かに蝋燭一本しかない部屋など不健康そのものだ。 「別にいいぞ。歩けるなら」 「うん。もう平気」 言って、するりと寝台を抜ける。 部屋を出、光の差す廊下を二人で歩く。 「燈陰を殺させない為の部屋だろ?あれ」 「まぁな」 「あんな奴の為に力なんか使わねぇよ」 「どうだろうな。お前の力はだいぶ暴走気味だから」 「…だからさ」 部屋の一つに通され、席に着くよう促される。 椅子に座りながら朔夜は続けた。 「あんた達、どこまで俺の事知ってるんだよ?」 燈陰と生活した十歳までの事ならともかく、力の暴走など今の朔夜を見ていなければ知り得ない事だ。 「まさかずっと俺の事つけ回してたんじゃ…」 「まぁ、あながち間違いじゃないけど」 「変態っ!」 こんな美少年に言われると苦笑いするしかない。 「いやいや、たまぁに皓照が見に行くだけで、大体は風の噂ってヤツだよ。お前の情報なんざその気になればすぐ集まるからな」 「その気に、ってやっぱりその気になってたんじゃねぇかよ!」 「自ら怪しい意味にしてないか…?いや、だから、皓照はお前を仲間にする事に執心してるからさ。そりゃ情報も欲しいって訳だよ」 「…俺があいつと同じだから?」 「そうだろうさ。常人に無い力を持つってのは、孤独なモンだろうしな」 出された皿に目を落とす。 確かに殆ど誰にも理解されて来なかった。それが普通だとも思ってきた。 実の父親には物心つく前から、俺の子供じゃないと言われた。他人ならば何を況んや、だ。 「だから今こうして救おうとしてやっているんだ。少しは分かったか、善意の正体」 「…うん、でも、いつまでもこうして居られない」 「何で」 「俺が動かなきゃ、ある人を危険に曝す。内乱を鎮めない限り、アイツは…」 「華耶ちゃんって恋人のこと?」 ぶっ、と口の中の物を噴き出して。 「こっ、こっ、こいびっ…違うっ!!」 「分っかりやっすー。大好きなんだな」 「だから違うっ!!そんなんじゃないっ!!」 「燈陰曰く、そう考えてないのは本人達だけ、とさ」 「アイツの言う事なんか関係無いーっ!!」 「分かった分かった。落ち着けって。顔真っ赤っ赤にして、全く可愛らしいお子様だぁな」 落ち着けと言いながらこれでは逆効果も良い所だ。 ぎゃあぎゃあ喚くお子様に構わず燕雷は言った。 「その子なら俺達の仲間が救出に向かった。十分時間は稼げたからそろそろ成果出してんじゃねぇかな」 「…え?」 「今の話聞いてたか?」 甚だ怪しい。 「聞いてたけど…何でそこまで…」 「一に先刻も言った通り皓照がお前にこだわるから。二には燈陰の大事な子供だから、さ。燈陰はお前が好きな娘を失った時の事も心配してるんだ」 「……」 「お前が思ってるより、良いお父さんだよ」 朔夜は匙を持ち直し、皿の中身を減らす事に意識を傾けた。 昨日とは違い、米の中に卵や野菜が柔らかく煮られて入っている。久しぶりに人間らしい食事だ。 昔は野菜ばかり食べさせられて、母親にたくさん文句を言っていた。そして燈陰に泣かされて結局食べるのが常だった。 どこにでもある家庭の風景。 一歩外に出れば人として扱われなくとも、家の中では日常のささやかな幸せが続く筈だった。 「…アイツは俺達を殺したんだ。あんたに何言われても、それは変わらない」 米粒一つ残さず平らげて、尚も皿を睨みながら朔夜は言った。 「許す気は無い、か。ま、俺達は親子喧嘩を楽しく見物するだけさ」 「何だよそれ」 本気ではない悪態をつき、席を立つ。 「俺の服と武器は?」 流石にこの格好では心許ない。 「ああ、洗濯して乾いてるだろうから用意してやるよ。ついでに風呂も沸かしてやろう」 「うわー。待遇良いなぁ」 「最初だけな、坊ちゃん」 燕雷は土間に降りて薪を腕の中に積み始める。 「なぁ、あの二人は?」 「出てるよ。お前に張り付いてる隠密を探しがてら、敦峰の様子を見に行った」 やはり影は一人ではなかった。でなければ皓照が影に化ける事も出来なかっただろう。 「敦峰はここから近いのか?」 燕雷は薪を焼べている。 「ここは敦峰の町外れの山の上だ。麓まで降りればもう敦峰の街だよ」 「ふーん…」 道理で緑が多く静かな筈だ。 「まだ…内乱続いてるのかな…」 自分が何もしてないのに五日で鎮まるとは思えないが。 「ああ。相変わらずだ」 「あんた達はあの内乱、どうする気?」 「別に。どうもしない」 「…え?」 「関係無いからな。今回の目的はあくまでお前の救出保護であって、内乱をどうしようとは特に考えてない」 じっと燃える火に目を注ぐ。 「…やっぱりよく分からない」 「何が分からないのかさっぱり分からない」 あんた達の考えてる事が、と言っても無駄だと判断し、それ以上は訊かなかった。 辺りを見回す。 「で、俺の刀は?」 ふいごで火を焚き上げだした燕雷が顔を上げる。 「後で持って来ようと思ったけど…無いと不安?」 「…まぁ、別にいいけど」 無意識に、刃に絶対の安心と信頼を置いていた自分に気付く。 そんなつもりは無かったのに。その危険さも知っているのに。 千虎は、刃を手放す事をずっと言ってくれていたのに。 だから暫く――ここに居る間は、少なくとも燕雷しか居ない今なら、刀は無くても良いかと思った。寧ろ、焦って持つべきではないのかも知れない。 「風呂、行っていい?」 「おう。沸いてると思うぞ。湯加減見てくれや」 「分かった」 土間から勝手口を抜け外に出ると、煙突から濛々と煙が上がっていた。その下の戸を開ける。 湯気が全身を覆う。 戸を閉め、風呂桶に手を付ける。 「どうだ?」 格子窓越しに燕雷の声。 「ぎりぎり。これ以上熱くしたら暗殺の疑いかけるぞ」 「はは、茹卵的な暗殺だな」 「食うなよ」 「食わんよ。…いちいち言う事が際どいなぁ…」 どっちがだ!!と内心思いつつ帯を解く。 初めて露になる傷跡。 左の胸の上に赤く、蚯蚓腫れ。 指先でなぞって、やっぱりあれは現実だったと今更の様に思う。 あれは。 あの恐怖は。 初めて自分を殺す事の出来る存在と相対した――単純故に今まで体験した事の無いほどの大きな恐怖だ。 それと似たものを、あの桜の散る夜に感じた。 あの時はそれが何なのか理解する前に、理性を失っていた。だからはっきりとした記憶も無い。 ただ、気が付いた時には―― はっとして朔夜は止めていた動きを再開させた。 押し寄せる記憶を再び埋め戻すべく、窓の外に向け言葉をかける。 「熱くしたらそっちにぶっかけてやるからな」 「焚いてやってんのに、ひでぇなぁ」 鼻で笑って湯を浴び、湯桶を跨いだ。 何だかんだ言って心地好い。 肩まで水面に沈め、首、口の上まで。 果ては、頭まで水中へ。 光と影が揺らめく。音という音は全て鈍く響く。 己の長い銀糸が水面に向けて散り、光を受けて輝く。 ぼぅっとその様を見る。 子供の時からの癖。水に潜る事は一等好きだった。 何も考えなくて良い世界。 息が続かなくなるか、完全に止まるまで。 ――溺れるからやめなよ。 いつかの、華耶の声。 「――っはぁ」 息を吸う代わり、楽な世界は消える。 ぽたぽたと、雫が落ちる。 火の燃える音。 「…燕雷?」 返事が無い。 何かおかしい。 静か過ぎる。 「――!」 ざっ、と湯を零して湯桶を出る。 身体を拭く間も惜しく、着てきた薄衣に袖を通し、最低限帯だけ締めて。 音を発てて戸を開けた。 横目にちらりと、人影が動いた。 「誰だ!?」 黒い影。 ――まさか。 「燕雷ッ!!」 不安を払拭すべく名を叫んだ時。 「ほう。あの男、燕雷と言うのか」 背後。 ――いつの間に… 脱衣所の、暗い片隅に、黒い仮面。 「どうした?月の癖に、青い顔をしているぞ」 ――死んでなかった。 本物の影は、 この男だ――… 「尤も、月の蒼ざめる夜もあったな。だがまだ早い」 影が、何かを手にして差し出す。 白い包み紙にくるまれた、手の平大の何か。 「土産だ」 心臓が早鐘を打つ。 冷たい汗が頬を伝った。 動けずに、影を、睨む。 ――睨んでいるのは、己が影か。 日に当たらぬ己の行為の代償か―― 「桓梠様より伝言だ」 朔夜が受け取らぬと見て、紙包みを彼の足元に投げる。 本能的な警戒心で一歩退く。が、何事も起こらなかった。 「“少しずつ、女をバラバラにしてやる。今度は――”」 「…やめ…」 「眼だ」 「やめろぉぉっ!!」 感情のままに飛び掛かる。が、拳は空を切り、既に影は無かった。 上がった息。壁に手をつく。せりあがる吐き気。 ――まずい… 恐らく玄の弓が放った華耶の救出部隊はその役目を失敗した。 影は生きていて自分の現状を――高い確率でもう桓梠に報告しただろう。 玄の弓という組織名が割れるのも時間の問題だ。 何より、華耶が。 影が投げつけた紙包みに目を落とす。 表面に、何か書いてある。 白い紙が光を反射し、目を細めてそれを見た。 赤黒くなった色の文字。 ――分かった…もう、良い… 理性も感情も全てが拒絶する。 それでも見てしまう。 『さくや』と。 漢字の書けない彼女の字で。 彼女しか知らない、彼女でなければ書けない名前を。 彼女の、血で。 「…やめろ…」 ずるずると、膝を落とす。 「頼む…もう、やめてくれ…」 冷たい石床が膝を打った。 何故。 どうして、苦しむのは華耶なんだ。 罪を犯したのは、俺なのに―― どん、と。 壁の裏側で大きな音がした。 はっと顔を起こす。 燕雷が、居る。 立ち上がりざまに紙包みを取り、懐に入れて、日の光の下へ駆け出た。 [*前へ][次へ#] [戻る] |