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月の蘇る
  8
   砂漠の道を東へと進む。
   戔に帰る。もう二度と帰れないと何度考えたかも知れない故国へ。
   哥王は命令の伝達の為に壬邑まで向かわせる衛兵に同行して帰る事を勧めた。
   つまり今度は哥を横切り、壬邑から北州へと戻る経路となる。下手に戔や繍の押さえる危険な道を通らずに済む。
   しかも王は龍晶の為に馬車を用意し、香奈多を同行させ旅の不便が無いよう手配するという高待遇だ。
   宿営地は衛兵らが毎晩用意し、朔夜らにとっても馬に乗っているだけで良い気楽な旅となった。
   何より安全だ。先頭を行く兵が掲げ持つ旗には王の紋章が描かれている。それを見た人々は頭を下げ道を開ける。
   王への敬意が浸透するこの国で、この旗の下に居れば危害を加えられる心配はまず無い。
   姿も施政も見えぬ王に、これだけの敬意が集まることは不思議でもある。だが広過ぎる程に広い国土であるが故に、それはあまり関係ないのかも知れない。
   王は人目に触れぬ神の如き人物だという信仰にも近い神秘性が、この大きな国を支配する求心力となっているのだろう。
「どうした?龍晶」
   夕食の席、手を止めて考え込む龍晶に朔夜は声を掛けた。
   彼らの会食の為だけにわざわざ組み立てられた天幕だ。正確には王の使いである香奈多が居るから、贅沢のおこぼれに預かっている。
   ここに居るのはその香奈多、龍晶、朔夜、燕雷、そして関所で再び合流した黄浜。
   孟逸は報告の為に国へ帰った。戴冠式の折には必ず参りますと龍晶に告げて。
   世話になりっぱなしで別れた旦沙那も同じような事を言った。俺は次に戔へ行った時、賓客としてもてなされるんだろう?と。
   苦笑いで応えるより無かったが、全く考える事も出来ない『事後』に少し光が射したような気になった。
   自らが統治者となる、その時の事を。
「明紫安陛下は何故、政に関わられないのだろう。あんなに賢明な方なのに」
   今回は特例なのだろう。表向きの事には関わらないと本人も言っていた。
   あれだけ賢く適切な判断が出来る、統治者として相応しい人が、普段は隠居のように己の趣味に没頭し政を他人に任せている。
   その事実が龍晶には不安だった。
   戔と哥の関係性への不安は勿論ある。今度は王の手を借りず、あの大臣と上手くやらねばならない。
   が、龍晶が感じる不安はもっと個人的なぼんやりとしたものだ。
   実際に国を動かす自分が、彼女よりずっと未熟である事。
   灌王は徳の高い人であるし、この旅で出会った王は皆その座に相応しい人であった。
   だから尚更、玉座が怖い。
   もし万が一、自分がそこに座る事になるとしたら。
   正気で居られるだろうか。
   それに耐えられなくなったのが、兄なのではなかろうか。
「陛下が参政されない理由は一つではありません」
   龍晶の疑問に香奈多が答えた。
「まず、大臣を始めとした高官達が良く思わないからでしょう。彼らは双子の、しかも女性である陛下が政に関わることを不吉と信じて疑いません。全く馬鹿馬鹿しい限りではありますが、ならば身を引きましょうというのが陛下のお人柄です」
「謂れのない旧習を脱する事が出来ないのですね。大臣も頭の良い方だ、その方が自分に都合が良いのでしょう」
「ええ。誰もが保身ばかり…。しかしそれだけなら陛下が身を引く理由にはなりません。陛下ご自身が参政してはならぬと固く決めていらっしゃる理由があるのです」
「と言うと?」
「陛下はあまりにも全てを見通してしまわれる…それ故に、政に関われば全てが自分の思う通りに動いてしまう。それは人の世にあってはならぬことと思われているのです」
「それは…比喩ですか?大臣にも言われていましたが、全てを見通すとはどういう意味なのですか」
「申し訳ありません、殿下。隠していたこと、陛下からも詫びるよう仰せ付かって参りました」
   龍晶は眉を顰める。
   その場に居る燕雷らも同じ表情だが、朔夜だけは違った。
   それを言ってしまうのか、大丈夫なのか、と一人そわそわしている。
「陛下は尋常の人ではありません。言うなれば朔夜殿と同じ、人を超えた力を持つお方です」
   素直に驚きの声を上げたのは燕雷だった。
   黄浜は意味を理解しようと脳内で咀嚼しているようだ。
   朔夜は気まずい顔で龍晶を窺い見る。
   その龍晶は、じっと香奈多を見ている。
   その言葉の意味も、何故隠されたのかも、その裏さえ見通そうとするように。
   そして不意に笑い出した。
   皆が皆、不思議そうに彼を見る中、一人で一頻り笑い終えて。
「なんだ。得心致しました」
   不思議を通り越して心配そうに見詰める香奈多に言って。
「俺など肩を並べられるべくも無いお方だったのですね。良かった。俺はああはなれない」
   人の子の為せる域に無い事をしているのだ。だから、彼女と比べて卑小な自分を思い悩むなど、最初から物差しを間違えていたに過ぎなかった。
「しかしいつかは少しでも近付きたいものです。それが可能か否かも陛下は見抜いていらっしゃるのでしょう?」
「さあ、私などには陛下が何を見ていらっしゃるのか分かりませんから」
   香奈多は明言を避けたが、龍晶は確信を持って言った。
「勿論それは陛下にしか分からない事です。しかしそれをお隠しになっていたという事は、俺に可能性が無いということでしょう」
   香奈多は答えなかった。龍晶は構わず話を逸らした。
「あなたはいつから王宮で働いておられるのですか?まだお若いとお見受けしますが、働きはご立派です」
   若いどころか外見は幼い。
   第一印象で誰もが持つ疑問だろう。こんな幼い少女が、何故、と。
   誰もが興味をそそられて彼女の答えを待つ。
   香奈多はゆっくりと飲んでいた茶を置き、口を開いた。
「王宮にお仕えし始めたは五十年ほど前です」
   えっ、と驚きの声が上がる。
   朔夜は隣の燕雷に真顔で聞いた。
「知り合い?」
「なんでだ。そんな訳ないだろ」
   流石に苦笑で返す。
「だって、同じくらいの歳だろ?」
「そうかも知れんが、関わりが無い」
「へー?じゃあ、どうやって不老不死になったんだろ?皓照が関わってる訳じゃないなら」
「そりゃあお前、哥王だって居るだろ」
「そんなにみんな不死になる事って出来るの?」
「お前ら煩い。それを今から聞くんだろ」
   痺れを切らした龍晶が二人を一喝し、小声で喋っていたつもりの口を閉じさせた。
   香奈多は少し笑い、答えを教えた。
「私に不老不死を授けて下さったのは、陛下のお探しになっている弟君の暗枝阿(アンシア)様です」
「…それは…失踪される前に?」
   言いにくく龍晶が問うと、香奈多は首を横に振った。
「後の事です。私は明紫安様に出会う前に、暗枝阿様にお仕えしていました。それも、密偵として」
「密偵?」
「最初からお話しした方が良いですね。これは殿下にも関わる話ですから」
   首を傾げ、龍晶は次の言葉を待つ。
   数十年前の異国の話が自分に関わりがあると言われても、何の事か見当もつかない。
   香奈多は語り始めた。先ずは己の出自について。
「私は苴の生まれである事は先程申し上げましたが、とにかく貧しい暮らしでした。当時の苴の寒村は皆同じであったと思います。食糧は取れず、飢饉、そして疫病…明日をも知れぬ暮らしの中で、多くの人が死に、また生き残った大人は子を売りました。私もその一人です」
   今でこそ国家が安定し、千虎がかつて言っていたように非力な女子供を守れる国となってきたが、つい近年まで苴は都周辺だけで保っていた国だった。
   だがそれは苴だけの話ではなく、南方諸国が皆同じような状態だった。更に言えば今の戔とて殆ど違いは無い。
「自分が売られた事も分からぬまま、私は気付けば哥の女郎屋で下働きをする日々を送っていました。言葉もままならず慣れぬ仕事に怒られ折檻される毎日でしたが、とにかく日に一食は食べられる事すら有難かったのです。そうして徐々に言葉を覚え、仕事を覚えていったのですが、数年もすれば下働きだけでは許されぬようになりやがて、客から病を得て起き上がる事もままならぬ身となりました。そんな者を置き続ける店など無く、十四の齢で路頭に放り出され死を待つのみとなったのです」
   唯一の財産である襤褸切れに包まって、身を切り裂くような寒さの、明けることの無い夜を息して。
   光などもうこの目に入る事は無いと悟っていた。先に死んだ兄弟の死に顔を思い浮かべ、彼らの迎えを待っていた。
   ところがそこに現れたのは、幼い彼らではない。
「何が起きたか覚えていませんが、気付けば暗枝阿様の許に居ました。私は一度死に、あのお方によって新たな永遠なる命を授かったのです。誰にも知られぬ隠れ家で、二人だけの暮らしを十年以上続けました。その間、暗枝阿様は何か重大なお仕事をされていたようですが、詳しくは教えて貰えませんでした。しかしそれに関わりがある事で、ある時、頼まれ事をしました。お役に立てるのならと私は嬉しく思い、深い訳も知らぬまま、私はあのお方の密偵となったのです。そして、私は花街へと戻りました。あるお店で、一人の女郎を見張る役目でした」
「その女郎とは…」
   龍晶が乾いた口で問う。
   香奈多が頷き、答えた。
「後の戔国皇太后、鈴螺(レイラ)様。尤も当時は別の名で、まだ幼い少女でした。しかしその時から彼女は格別に美しく、また賢く、何よりも恐ろしかった。そして裏に大きな力がある事は観察していく中で感じ取れました。暗枝阿様はその裏の権力を追っていらした。どんな組織なのかは分かりません。しかし、今の状況から鑑みるに、戔を鈴螺様の力で乗っ取り、哥をも狙っていたのだと思います。鈴螺様はある日、ふと姿を消しました。どこを探しても見つからなかった…その時に、戔へと連れて行かれたのでしょう」
「そして戔の都で父と出会い兄を懐妊し、今がある…そういう事ですか。ならばその裏の組織は、今もまだ残っている?」
「それは…分かりません。その直後、街の中の幾つもの店で事件が起こりました。一夜のうちに何人もの女郎と客、また店の人間、そして素性の知れぬ男が惨殺されたのです。女達は逃げました。私も共に逃げて…また路頭に迷い、暗枝阿様の事を待っていた時、私を拾って下さったのは明紫安様でした」
   そのまま今度は王宮で仕える身となった。
「そこで初めて暗枝阿様が王であった事を知り、失踪された事…その失踪された後の暗枝阿様に私が救われた事も知りました。しかし、あのお方にお目にかかる事は、もう二度と無かった…」
   視線は、朔夜へ。
「何ゆえ陛下はあなた様に捜索をお願いしたのか、疑問をお持ちでしょう。一つには、暗枝阿様をお探しするには、人の一生の時間では足りないかも知れないからです。しかし陛下と私ではあまりに行動に足枷が多過ぎる。無限の時と何処にでも行ける自由のあるあなた様しか居ないのです」
「でもそれなら、燕雷だって…」
   朔夜は言いかけて隣を見た。
   渋い顔に目を留めて続きの言葉が引っ込む。
   勝手に面倒事を押し付けるな、という無言の抗議を聞いたからだ。
   香奈多は幾分か表情を柔らかくして言い足した。
「勿論、朔夜様の信用される方にお手伝い頂けるのなら私共も嬉しく思います。しかし朔夜様にお願いせねばならない何よりもの理由があるのです。それは…」
   何故か言い淀む香奈多に、龍晶は推測を口にした。
「暗枝阿様は、朔夜と同じ力を持つからでは?その、花街の惨事は…」
   香奈多は俯く顔で頷いた。
「恐らく暗枝阿様によるものと…」
   顔を上げ、香奈多は更に語った。
「暗枝阿様は哥を創建する戦で神の如き活躍をされたと陛下から聞いております。自ら軍神の如く剣を振るわれたとか。その戦い振り…朔夜様にそっくりなのだそうです。陛下は実際、あなた様の闘う姿を見て、暗枝阿様を見つけたと思われていたのです」
   朔夜は見たことも無いその人を思い浮かべる。
   大きな力を持ち、王座をも己のものにし、愛する家族を持ち臣を持ち、しかし全てを捨て去って姿を消した人。
   この手と同じ力なら、その罪も同じなのかも知れない。
   ならば、姿を消した理由は解る。
「大事な人の側に居られなかったんだろうな」
   その、香奈多の顔を正面から見詰める。
   今も見ていたいであろう人に代わって。
「王様や、あなたの側に居たくても居られなかったんだ。傷付けるのが怖くて。それ以外に理由は無いと思う」
「暗枝阿様が…ですか?」
「俺と同じに考えるのは烏滸がましいかも知れないけど。ま、俺の推測な」
   何か言いたげに口元を緩ませて燕雷が見てくる。
   苦笑いして朔夜は自ら言った。
「俺がそうしたんだ。華耶を…大事な人を俺の力の犠牲にしない為に。離れるのが最善だから」
   香奈多は静かながら大きな衝撃を受けた、そんな呆然とした顔をしていた。
   はたと我に返って、恥じるように笑う。
「私は暗枝阿様にとってそんな存在ではありませんよ。ただ成り行きで…お優しい方ですから」
「それはご当人にしか知り得ぬ事でしょう。俺も朔夜と同じ考えではありますがね」
   龍晶が横から言って、朔夜に目を向けた。
「人探しを優先したいなら俺に止める権利は無いからな」
   朔夜は笑って首を振った。
「それは考えてないよ。王様だってお前の事が落ち着いたら、って言ってたし。それにさ」
   一度言葉を切って、香奈多に混じりっ気の無い笑顔を向けて。
「王様の弟さん、そのうち帰ってくると思う。絶対に。だってあなた達に会いたい筈だから」
「お前はいつだって華耶ちゃんに会いたいからな」
   横から燕雷に揶揄われて、やっと顔を赤くして茶化すなよと抗議する。
  その様を見て香奈多は笑う。いくらか安堵を滲ませて。
  その横の龍晶も呆れつつ笑っていた。
  朔夜に叩かれながら、燕雷はその龍晶の顔を窺っていたのだ。
   雪の中に溶かすしか無かった淡い気持ちは、今はもう花を咲かす為の糧となっている。そういう笑いに見えた。

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