月の蘇る 1 哥の都までは馬で半日もかからぬ距離らしい。 旦沙那が一晩で往復したのだから、確かにそれが可能な程近いのは分かる。 しかし、それは頭で分かっていても、まだ随分遠くにある場所のように感じている。 それはこの旅路の長さゆえなのだろう。 やっと着く。 何度諦めたかも分からないが、ずっとずっと憧れ続けてきた場所に。 『この国の民は皆、天幕で生活するのか?』 延々と続く砂漠の道を駆けながら、隣の旦沙那に問う。 ここまで、自分たちの思う家のようなものを一度も見なかった。並ぶのは白く丸い天幕。 昨晩自分達が使っていた天幕も、骨と幔幕に畳まれ荷駄として運ばれている。 同じ物を持った騎馬の集団と、何度かすれ違った。 遊牧民だと知ってはいたが、本で読み知っているのと、実際に現地に踏み入れるのとでは全く違う。 『皆じゃない。俺の家は石造りだ。都は殆どそうだ』 『ああ、成程』 軍に仕える彼や、宮仕えで生計を立てる者にとって移動は不要だ。故に都では石で家を建てる要があるのだろう。 『家に家族は居るんだろう?そこに俺たちが行って大丈夫なのか?』 彼の家に話が及び、気にかかっている事を口にすると、旦沙那は事も無げに答えた。 『それを昨晩確認しに行っていた。流石に何も言わず他所者を連れて来る訳にはいかないからな』 『一晩かけてわざわざ?そこまでせずとも宿を取っても良かったのに』 『その宿でどんな目に遭っても良いなら好きにしろ』 『あ、いや、違う!すまん、お前に手数をかけさせるのが悪いと思っただけだ』 旦沙那は龍晶の狼狽ぶりを鼻で笑った。分かっていて揶揄しただけだ。 それに気付いて龍晶も眉間に皺を寄せて不満顔を作って見せる。 『人が悪いな、ったく』 口許は笑っているので本気ではない。 『お前は人が良過ぎるんだ』 旦沙那は相変わらずの仏頂面で返した。 『お前のような奴はこの国では生き残れない。追い返してやるつもりで待っていたのに』 『そうなのか?』 『それがこのザマだ。困った事になった』 返答に窮して龍晶は相手の横顔を見る。 迷惑がっているという表情ではない。寧ろ、何か真剣に思案している。 『お前の事を軍の上官に報告した。大臣に目通りしたい旨も含めてな。近々その返答が来るだろう。あとはお前の運次第だ』 『…え』 咄嗟に何を言われているか理解できなかった。 理解しても尚、信じ難い。 『そこまで…してくれたのか』 『どうして捕虜の身が故国に自力で帰ってきたのか説明が必要だろう。その説明義務を果たしただけだ』 『そうか、ありがとう…旦沙那』 『だから礼を言われる筋合いは無いと言っているんだが』 龍晶は軽く笑って流した。 開け方も分からなかった重い扉の鍵を渡された。その鍵が合う事を願うばかりだ。 彼ら二人の後ろには孟逸が続き、そのまた後ろから燕雷と朔夜が付かず離れずの距離で馬を走らせている。 龍晶に話を聞かせまいと思うと、自然とその位置になった。 それもこれも、朔夜の顔色の冴えなさに、燕雷が気を遣ったからなのだが。 だが、当の朔夜の口は重い。 早朝出立して日が高くなるまで黙々と走り、前を行く龍晶の笑い声を聞いて漸く朔夜は口を開いた。 「あいつ、無理してないかな」 「え?」 蹄の音にかき消されそうな声を何とか拾って燕雷は問い返す。 「そりゃ、病み上がりで無理してないと言えば嘘になるだろうけど」 「体もだけどさ」 言って、溜息して、また風に流れそうな声で。 「今朝の、あれ」 燕雷もまた朝の二人のやり取りを思い出し、ああ、と吐く息に声を混じらせる。 「疑った所で仕方がないだろう」 「疑う訳じゃない。ただ、無理して言ってるんじゃないかと思って。あいつ優しいから」 「そりゃあ、まあ…」 返す言葉が無くなった。 何を言っても酷に響く。 「俺は何をした?」 燕雷の考える言い訳よりも酷な問いを、朔夜の方から口にしてきた。 言いたくないのに逃がして貰えない。舌打ちしたい程度に恨みながら燕雷は答えるより無かった。 「あいつに刃を振り下ろした」 見たままを言って、言い逃げも出来ず反応を横目に見る。 「…そっか」 己の所業を受け入れようとした唇は震えていた。 「あのなぁ朔夜」 こうなっては黙っていた方が良い事も黙っていられない。ここぞとばかりに燕雷はあの時沸き起こった怒りを口にする事にした。 「お前は怒りに身を任せれば我を失うんだ。それで守るべき人を苦しめていたら元も子もないだろう。あいつはな、お前が人斬りに走る事自体が嫌なんだ。解るだろう?」 「…うん」 素直に頷くより無い。 「龍晶が射かけられて怒る気持ちは分かるがな、そういう時ほど冷静になれよ。刀を振る事だけが強さじゃない」 それには頷かず、考えて。 「じゃあ俺はどうやってあいつを守れば良い?刀を持たずに、どうやって」 「別に守らなきゃいけないって事、無いんじゃないか」 「え!?」 心底驚いて燕雷を見やる。 彼は誤解に気付いて笑った。 「見殺しにしろって意味じゃないぞ?ただ…なんて言うか、お前はあいつの用心棒じゃないんだからさ、そんなに守るって事に拘らなくて良いんだよ。俺達だって居るし、その為に孟逸にも来て貰ったんだし」 「そりゃ、まあ…そうかもしれないけど」 全然納得していない。 燕雷は苦笑いを混じえて更に言った。 「お前があいつを守らなきゃ側に居る資格が無いなんて、そんな事無いんだからな?今朝の言葉はそういう意味だったんじゃないのか」 別れる気は無い、と。 朔夜は改めてその言葉を思い出し、遥か向こうに居るような気がする龍晶を仰ぎ見る。 「どうしてお前はあいつの元に戻った?」 問われて、あの朝の心持ちを呼び起こして。 ただ、近くに居たいと思った。 守れないかも知れない。また傷付けるかも知れない。それでも、ただ、側であいつを支えていたい、と。 「それと同じじゃないか?同じ立ち位置で話が出来るお前があいつには必要なんだろ、前みたいに」 己の罪を知る前は、平気で笑い合ったり、揶揄ったり、言葉を交わしていた。 それが今は、引け目負い目に塗れて出来なくなっている。 元に戻れる筈は無かった。だけど、願う事は同じなのだ。 以前の二人に戻りたい、と。 「お前次第だよ」 燕雷は言った。 「お前がお前であれば、それで良いんだ」 西の地平線に残照が一際輝く頃、一行は都へと着いた。 言われた通り、街道には石造りの建物が並び街並みを作っている。もう影は濃い時間なのに窓から漏れる光は眩しい程で、人通りは絶える気配も無い。 街道から脇道に逸れ、程無くして静寂と作りの違う家々が現れた。その中の一つの家の前に旦沙那は止まる。 馬を伴い中に入る。住居と厩が一つ屋根の下にあるのは彼らが騎馬民族である現れだろう。 旅人達も家の主人に従い、自らの馬を託した。 龍晶は流石に疲れ果てた様子で、旦沙那の家族に挨拶だけは何とか交わし、そのまま逗留する部屋へと連れられて行った。 言葉も分からない場所で取り残されても仕方ないので、他の三人もその部屋へと赴く。 部屋とは言っても母屋の裏にある庭を隔てた一棟を、旦沙那は客人用に準備していた。 『特に構いもしないが、ここは好きに使え』 それだけ言い残して彼は母屋へと戻った。 昨日泊まった天幕がそのまま石造りになったような建物で、中心に炉があり、寝台が四つ麻の布で隔ててあるだけの部屋だ。唯一違うのは部屋の隅に申し訳程度の卓と椅子が置かれている事か。 龍晶は重たい体を早速に寝台へと投げた。 「大丈夫か?」 荷物を置きながら朔夜は問う。 布団に埋もれた頭が小さく横に振られる。放っておくより無さそうだ。 そこまで疲れてもいない三人は、時間を持て余して自然と炉の周りに集まる。 場所が場所ならば少し汗ばむ時節だが、この国は寒い。震える程ではないが、火の側が恋しい。 これが冬であれば、病人を抱える旅は困難を極めただろう。 そんな事をつらつら考えて、炉に手を翳していると、扉が開いた。 旦沙那が飯の乗った皿を持ってきた。その後ろから、小さな男の子も同じように皿を持ってついてきた。 息子なのだろう。十歳前後だろうか。目鼻立ちがよく似ている。 二人は卓に皿を置くと、一言も発さぬまま去っていった。 「食って良いって事だよな?」 燕雷が一応、声に出して確認してみる。 疑問符が付いていたのは朔夜も孟逸も同じで、まぁそういう事だろうという曖昧な空気のまま各々が皿を手にとった。 卓の上に一つ残された皿を手に取り、朔夜は後ろを振り返った。 「龍晶、食べる?」 返事は無く、身動きもしない。眠ったのだろうと諦めた。 置いた皿の隣に、おもむろに腰に差していた短刀を置く。 旦沙那の親子を見て、思い出した事があった。 「それは?」 孟逸が短刀を見て反応した。 その反応に、自分の予感が当たった事を察して、朔夜は問いを返した。 「千虎を知ってる?」 孟逸は置かれた短刀と朔夜の顔を交互に観察し、薄く笑った。 「昔、共に汗を流し酒を飲み交わした仲間ではあるが。晩年は特に交流も無かった。風の噂で最期を聞いただけだ」 孟逸が元軍人だとしたら、同じ国の将軍であった千虎を知らない筈は無いと思った。 それをーーわざわざ苦い思いを蘇らせてでも確認したのは、知りたい事があったから。 「あいつの家族、どうしているのかな」 孟逸は答えず朔夜に視線を注ぐ。 口許は薄く笑ったままだが、目には消しようのない敵意があった。 「…風の噂はきっと事実だよ。殺したのは俺だ」 自ら白状する。懺悔せねば先へ進めなかった。 「この刀は、今際の際に千虎自身がくれたんだ。自分を殺した相手に…逃げろって言って。…なんでだろ」 改めて思い返せば不思議な気もして、だけど確かな答えは知っている。 「千虎は俺を養子にするって言ってくれていた。繍の月夜の悪魔が自分を暗殺しに来たと、そこまで知って、そう言ってくれた」 「事故だったのか」 そこまで黙って聞いていた燕雷が口を挟んだ。 朔夜は頷きかけ、しかし首を横に振った。 「殺意はあった。ほんの一瞬だけ。あいつが、梁巴に出兵していた一人だって聞いた、その一瞬で…」 唇を噛んで項垂れる。 一生塞がりそうもない傷。数多ある中の一つではあるけれど。 「その一件が無ければ、君は今ごろ苴に居る子供の一人となっていたのか。もしかしたら、軍人仲間になっていたかも知れないな」 孟逸の柔らかな言葉に、朔夜は顔を上げた。 「家族になっていたかも知れない人達が達者かどうか、気になるのか」 続く問いに、朔夜は頷いた。 「…詫びられるものなら、詫びたい。石を投げられるのは分かっているけど」 孟逸の目から敵対視する厳しさは消えていた。 「分かった。そういう事なら、国に戻ったら調べてみよう。分かり次第君に連絡する」 「良いのか?」 「別にそう難しい事でもないだろう。軍に居る友人知人に訊けばすぐ分かる。問題はその時君が何処に居るのかって事だけだな」 朔夜は少し笑って返した。 「安心して。俺、皓照の付けた首輪からは逃れられないから」 この先ずっと、彼の管理下から脱する事は出来ないだろうし、逃げる気もない。 「では、皓照殿を通して君に伝わるようにしよう」 燕雷は嫌そうな顔をしている。だが、この際都合が良いのも確かだ。 「しかしこの刀…見ても良いか?」 朔夜は短刀を孟逸に手渡した。 精巧な虎の彫刻は、幾多の困難を掻い潜っても褪せてはいない。 「美事な造りだな。流石に代々軍の幹部として仕えてきた家だけある」 刃を抜き検める。鈍い銀の刃が光っているが、優秀な軍官は欠陥を見逃さなかった。 「手入れはしていないのか?」 朔夜は苦い顔で頷く。 「繍の奴が勝手に砥いだ以外には。俺はしない事にしている」 「何故?」 「この刀で俺は千虎の部下を斬った。その血や刃毀れを消してしまえないんだ。無かった事にしてしまえないんだ…」 孟逸は鞘に刀を入れ、朔夜の手に戻しながら教えた。 「これは家に代々伝わる守り刀だ」 「え?」 それは初めて聞いた。 「苴には守り刀を親から嫡男に伝えてゆく風習があってな。私も持っている」 言いながら孟逸は自らの刀を懐から取り出し、朔夜に見せた。 千虎の物のように派手ではないが、鞘には細かな菱の模様が敷き詰められており、その中央には水晶が嵌め込まれていた。 「そんな大事な物…」 朔夜が言いかけて萎んだ言葉に頷き、孟逸は自らの刀を収め言った。 「苴人にとっては家宝と言っても良いものだ。それを君に託した千虎将軍の意図は計り知れない。だが、君にはもう後悔の楔など必要無いだろう」 頷く。物質的な物は無くても、この後悔は忘れようがない。 「千虎には俺と同じくらいの子供が居た筈だ」 本来ならば、その子こそがこの刀の正当な持ち主なのだ。 「手入れはしておくから、孟逸、その子を見つけた時に渡してくれないか?」 「断る」 ぴしゃりと言われて狼狽する顔を、孟逸は笑った。 「それは君が自らすべき事だろう。必ず将軍のご家族は見つけ、君に会わせる。約束しよう」 朔夜は躊躇いがちに頷くより無かった。 [次へ#] [戻る] |