月の蘇る 5 肩を落として部屋に帰ってきた黄浜を迎え入れて、満員だった部屋は四人だけとなった。 「お前は良いのか?」 燕雷が黄浜に問う。同胞達が皆、帰る事を選んだのに、ここに一人残ってどうするつもりなのか、と。 黄浜はその問いこそが心外だとばかりに即答した。 「龍晶様無くして、叛乱も我々の未来も無いでしょう」 「そんなもんか」 燕雷の素っ気ない返答に黄浜は少し眉を顰めたが、それ以上何か言う事は無かった。その気力も今は無いだろう。 思ってもみない同胞の行動に、ただ呆然としている。 「…誰も彼も…お前も、勝手過ぎるよ」 朔夜は思わず黄浜に向けて吐き捨てていた。 黄浜が目を剥いて見返したのも無理は無い。 「私が彼らと同じで勝手と言われるのですか!?ここに残ったのに!?」 「何の為に残ったんだよ?」 朔夜も引かずに返す。 「龍晶の為なのか、叛乱の為なのか…。お前の口振りだと、こいつが叛乱の道具として必要だからとしか思えない」 「そんな事は…!」 「まあまあ、喧嘩してても始まらないだろ」 燕雷が割って入って、黄浜は言葉を飲んだ。 「分かるよ。どっちの言いたい事も俺には分かる。だけど、言い争う事じゃない。朔、この人に八つ当たりするな。お前は出て行った奴らに怒りたいんだろ」 「八つ当たりじゃないし…怒ってる訳でもないけど」 そう言い置いて渋々だが黄浜に頭を下げる。 「すみませんでした。…でも、俺には分からない。何で誰も龍晶を人として見てくれないんだろ?俺みたいな化物ならともかく…人間なのに」 「それは一体どういう意味ですか?」 黄浜が声音を抑えて問う。朔夜は眉根を顰めて答えた。 「人は人を利用する為にしか見ないものか?」 問いを返された黄浜は、言葉を詰まらせるより無かった。 「俺はこいつの事、友達だって思いたいから…好きだから、ここまで追ってきた。こいつにとっては嫌なんだろうけど」 他意は無い。 贖罪の気持ちも無くは無いが、それだけならば二度と目の前に現れようとは考えないだろう。その方が龍晶の為だ。 だけど、ここまで来たのは。 ただ、純粋に、一緒に居たいと思うからだ。 「それならさ、黄浜にとっちゃこの王子様はただただ手のかかる困ったちゃんでしかないかも知れないぞ?お前にとっては良い友達でも、世話する者から見れば我儘お坊ちゃんなんだからな、こいつは」 「え、なら嫌いなのにここまで一緒に来たの?」 純粋過ぎる質問に黄浜は苦笑して首を振った。 「嫌いという訳では…。いえ、そんな事を口にするのも烏滸がましい立場です」 「立場って!それが余計なのに…!って言うか燕雷はどうなんだよ!?俺のような手のかかる奴の世話を喜んでするお前の気が知れないんですけど!?」 「はぁ!?自分で言うかそれ!?」 「だって立場としては同じようなもんだろ!俺の方が何倍も厄介だし!?それでも一緒に居るのはどういう事なんだ!?」 「だからそれ自分で言う!?」 それを真剣な表情で誤魔化しもせず言ってしまう辺りがお子様だ。 「何を求めてんだよお前は…。全く、分かったよ、もう…。そうだな、俺にとってお前は、なんかもう我が子みたいなものだし?辞めときゃ良いのに口も手も出したくなるんだよ。そういう事だ。心配で気になって仕方ないんだ。親じゃないけどさ」 素直に答えてやれば、実に変な顔をする。 照れているのか困っているのか怒っているのか判別し難い。 「だから何求めてたんだお前は」 「何も!」 そもそも本人の中で答えが無いらしい。 そのやり取りに思わず笑う黄浜が口を開いた。 「燕雷さんの気持ちは分かります。私もそういうものに近いかも知れない。ただ、そこまで純粋でも無いでしょう。あなたの言う通り」 朔夜に告げ、続けた。 「私は殿下だから…崇め奉るべき立場のお人だから、お守りせねばならないと思い込んでいた、それだけです。その中には、確かに叛乱をする為に必要なお人だから、という意味もある。ただ、それは…故郷を救う為です」 朔夜は途端に口を引き結んでじっと黄浜を見た。 『故郷を救う為』、その気持ちは分かる。痛い程。 同時に、その言葉の中にある呪縛の恐ろしさは、自分しか知り得ないものだろう。 「俺を悪魔にしたのは、その言葉だよ」 黄浜はその意味を理解出来なかっただろう。ただ、そこに込められた不穏さは十分に感じ取った筈だ。 「龍晶だって…きっと望まなかった筈だ。こんな力を持つ事は」 自分の望みとは無関係な所で、自身に付随してしまった血の力。 その権力のみを人は見、自分自身を顧みられる事の無いまま。 そして利用価値が無くなれば見離される。 「こんな…寂しい事って、あるか」 朔夜の呟きに黄浜は項垂れた。 「でも、ま、終わった事を言ってても仕方ない。考えるべきは今からどうするのか、だろ」 燕雷が彼らの顔を上げさせる。 「龍晶の意思を聞かなきゃ始まらんとは思うが…さて、早く傷を治してやりたいもんだ」 意味深に朔夜に目を向ける。 視線を受け、深い息を一つ漏らして。 布団を捲る。着物の袖を通せない腕は、折れていると一目で分かった。 襟元を緩め、腹部を晒す。 内出血の色がどす黒く肌を染める。 余程目を逸らしたかった。これは誰の所為かと、罪を突き付けられるようで。 恐る恐る手で触れる。 以前のように、意のままにそれを治す事が出来るとは思えなかった。 集中しようにも、脳裡で悪魔が囁く。 お前は同じ惨劇を繰り返すだろう、と。 「…朔」 龍晶を挟んで、燕雷が手を伸ばした。 震える肩を掌で包む。 大丈夫だと、言外に伝わってきた。 目を瞑る。治れ、と。 念じ続ける。毒を消したあの時のように。 ふっ、と全ての感覚が消えた。 闇の中。大きな月だけがぽっかりと浮かんで。 落ちて行く。奈落へ。何も無い空を延々と。 燕雷が肩を掴み直してくれなければ、龍晶の上へ倒れていた。 やっと重い瞼を開けて、ちらりと己の成果を見る。 完治ではない。幾分かマシになっているだけだ。 だけどもう限界だった。燕雷に寝かせられ、そのまますとんと意識が落ちた。 「済まんな。餓鬼の戯言と思って忘れてくれ」 燕雷が朔夜の非礼を代わりに詫びる。 黄浜は首を振って、逆に頭を下げた。 「それは私の方こそ…」 頭を上げ、しかし、と続けた。 「龍晶様が何故に彼と別れ、しかしその事に苦しんでおられたのか…少し分かった気がします」 「そうなのか?何故?」 燕雷は知らぬ振りで問うた。 「ええ、それは…灌を出てからずっと、何か塞ぎ込んでおられて…。それを隠して無理をしているような、近頃はそのようなご様子でした。きっと彼の事を考えておられたのだと思います。直接そう口にされた事はありませんでしたが」 へえ、と燕雷は驚いて見せたが、そんな気はしていた。 あの別れ方は、互いに後味の良い物では無かっただろう。龍晶は自ら決断した事であっても。 「で…何が分かった?」 黄浜に重ねて問う。彼は言葉を選びつつ答えた。 「龍晶様は…この朔夜殿が居なければならなかったのだと…。しかし、彼の優しさはもしかしたら、龍晶様のお覚悟を鈍らせるものと感じられたのかも知れません」 「命捨てに行けなくなるからな」 身も蓋も無い言い方に黄浜は苦笑して、暮れ行く窓の向こうを見た。 「哥に行かねばならぬのでしょうか?」 燕雷は肩を竦めた。 「王子様が行きたいのなら考えるさ。その気が挫けてるなら、それはそれで考えるけど」 「あなたはこの先も付いて来て下さいますか?」 この言いようでは、そう思われても仕方なかったなと、燕雷は微苦笑した。 そして考え直す。これはもう乗ってしまった船だと。 「放っとけない坊ちゃんが二人も居るからなぁ。ここまで来ちまった以上、最後まで首突っ込ませて貰うよ」 黄浜は安堵した面持ちで、丁寧に頭を下げた。 己の仲間に去られてしまって、彼も不安で一杯なのだろう。 一人で抱えるには大き過ぎる龍晶という存在もある。 「黄浜、お前飲めるか?この下で飲まないか?」 酒場があるのはきっちり確認済みである。 「え…飲めます…けど…」 視線は眠る二人に。 「大丈夫だ。子供が寝たら後は大人の時間さ。生真面目過ぎるお前の憂さも晴らしてやらないとな」 言いながら、殆ど無理矢理黄浜を部屋から押し出す。 自分が飲みたいだけ、とは顔に出ているが口には出さない。 死を覚悟した。 もう何度目か数える気にもならないが、今度こそは終わるだろう、と。 終わってくれた方が良かった。 まだ生きて、この先を見ねばならぬ方が辛い。 それでも生きてしまったのは、何故だろう。 どうして、こうも終わりに出来ないのか。 答えの見えない暗闇。 その中に、自分の間近に、銀の光が鈍く浮かぶ。 「…朔夜」 何の疑問も持たずに呼び掛けた。 「うん?」 当然のように声が返ってくる。 「お前の所為だろ。また死ねなかった」 やや間があって、朔夜は言った。 「良かったじゃん」 開いたままの窓の向こうに星空が広がっている。 小さな光がいくつも瞬く。 すぐには気付かずとも、そこにある。 「簡単に言うな」 口ではそう言うが、怒りは無い。 「うん。分かってる。俺が良かったって思うだけ」 互いに声音に感情は無い。淡々と喋るだけ。 「お前が生きてて良かった。また会えて良かった、って。…ごめん」 それだけが言いたかった。 謝って済む罪では無いけれど。 「お互い様だろ。俺だって悪かった」 ぶっきらぼうに龍晶は返す。 何が、とは互いに言わず、言い切れるものでもなく、言わずとも伝わった。 折れた腕に触れる感覚が薄く。 それが、だんだんと温かくなる。 光。そして、血の通う感覚。 初めて逢った時と同じ。 あの時は、こんな存在になるとは思いもしなかった。 例え遠くとも、見えなくとも、確かにそこに在る、光に。 深々と頭を下げる黄浜を、龍晶は床に寝たまま気怠く見やる。 誰も彼が悪いとは思っていない。ただ、本人は仲間を止められなかったのは自分の責任だと言って譲らない。 「もういい、黄浜。当然の結末だ。俺がこんなだから」 「違います。龍晶様がどうあられようと、それをお支えするのが我々の役割です」 「お前達のやるべき事は北州を守る事だ。彼らは正しい。それに、屍にいつまでも縋っていても無意味だとやっと気付いてくれたんだ」 「龍晶様…屍とは…」 「自力で動く事も出来ない、何の力も無い、襤褸屑になって寝てるだけなんざ、屍に違いないだろ」 「馬鹿、まだそんな事言うのか」 聞いていた朔夜が座ったまま地団駄を踏んで言葉を投げ付けた。 「逃げてった奴の事なんざ考える必要ない。それより、お前が生きてるだけで良いって人の事を考えてやれよ!この人のようなさ」 指さされた黄浜は、気まずい顔で笑い、そして付け加えた。 「それは、あなたもそうでしょう?」 意に反して問われた朔夜は一瞬言葉に詰まり、頷くだけが精一杯。 それを見たかどうか、龍晶は窓の外の青空に目を向けた。 かつてこの空に流れる煙の下で、同じような会話を交わした事がある。 誰の役にも立たぬまま生きるのは許されぬ事だと、そう思っていた。 そんな生き方は耐えられないと、そう言った。 だけど、そう考えていても、結局人の役に立たないどころか、自分が存在している事で世は乱れている。 それでも、生きていて良いのか。 生きていて良いと、そう言ってくれる人が居る。目の前に。 「俺が空っぽで何も出来なくて、お前の期待に添えるような事がなくても…それでも良いのか」 黄浜は頷き、言った。 「あなた様はそこに居られるだけで、価値のあるお方です」 信じていない顔で面々を見渡す。 「これからどうする」 燕雷が即座に返した。 「それを決めるのはお前だろ」 顔を顰める。この期に及んで、まだ未来を考えねばならぬのか、と。 「別に今決めろって訳じゃないよ。まだ動ける身じゃないし、動けるようになるまで…そういう気分になるまで待ってやるさ。何ならこのまま隠遁生活を決め込んだっていい。なんせこっちは無限に時間があるんだ。お前が爺さんになってもまだ余裕だ」 「…悠長で羨ましい事だ」 燕雷の言葉に呆れ混じりに返して、天井に目を向ける。 「だが、故国の情勢は…一刻も待てるものではないだろう」 「戻る気があるのか」 「…当然だ」 即答出来ない所に迷いを見たが、燕雷は追及を辞めておいた。 「ま、何にせよ今は休め。動けるようになってから考えればいい」 言われて、重たい瞼を下ろし、息を吐いて。 「朔夜」 「うん?」 「お前はどうする」 考える間も無かった。 「お前について行くよ。置いて行かれてももう、関係ないからな」 龍晶は、一言「そうか」と応じたきり、眠ってしまった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |