月の蘇る 10 再びあの玉座の前に、今度は一人で立った。 この国の玉座は何の象徴となったのか。少なくとも自国のように『恐怖』ではない。 だが分からない。まだ一度しか合間見えていない相手ではある。今から何が起こるのか、それによって決まるだろう。 それでも、かなり信を寄せているのは確かだ。 それは少なくとも、祖国の血を分けた王よりは。 到着を告げられ、龍晶は平伏して待った。 玉座が重みを受け軋む。 続いてあの、落ち着きのある低い声。 「今日は一人で平気なのか」 は、と畏まり伏したまま答えた。 「一人で身動きが取れるまでには快復致しました。これも全て陛下と王子のお陰です」 「鵬岷はそなたを気に入っておるようだ。また相手をしてやってくれ」 「恐れ入ります。その機会がありますれば、是非に」 この言い方ならば王も後盾の無い第一王子を気にかけてはいるのだろう。 自分より余程恵まれているなと、頭の片隅で思った。 「そなたが出立すれば、その機会とやらは二度と無かろうな」 王の呟きに思わず龍晶は顔を上げた。 その目を捉えて王は問う。 「それでも哥に行き死線を掻い潜る覚悟はあるか?尚且つ祖国に戻り、死んでも王の暴挙を止める気があるのか?」 この国を出ればもう後戻りは出来ないと、その覚悟はあるのかと、王は問うている。 これに頷かなければ、目的の書状は渡して貰えぬだろう。 「目的の為に死ぬ覚悟は出来ています」 「馬鹿者」 間髪入れず罵倒が飛んできて、え、と完全に戸惑った。 その困惑を完全に予測していた王は、懇々と諭す。 「目的に辿り着かぬまま死ぬは馬鹿者よ。そなたのすべき事は、何を犠牲にしても生き抜いて目的を果たし、民を救う事だろう。違うか」 言葉も無い。 「いえ…仰せの通りです」 それだけ搾り出して、また平伏する。 ただ、それは果てしなく辛い。 生きる事、犠牲を作る事、そして目的ーー全てが。 出来る事なら逃げだしたい。それは死という形を持ってしてでも。 「そのままでは哥に行かせる事は出来ぬな」 心を読まれたかのような言葉にはっとする。 更に王は本心を突いてきた。 「未だ迷うておるのだろう?己の選んだ道に正義があると心から信じられぬのだろう?何かが間違いであれば良いと何処かで甘く考えておるのだろう?そなたは心根が優しい若者ゆえな、己が刃で敵を打ち砕く事など出来ぬ。肉親ならば尚更」 全身を震えが襲う。 怖い。今まで様々な恐怖を味わってきたが、こんなものは初めてだ。 隠していたい本心を、全て言葉にされる恐怖。 最も隠さねばならぬ相手から。 「何故そんな事が言えるのかと思うておろう?そなたは真っ直ぐ過ぎるのだ。正直過ぎる故に心無い言葉はすぐに分かる。これでも長年一国の長をやってきている身なのでな、そなたのような赤子の本心など手に取るように分かるわ。ほれ、今も泣いておろう?不快を取り除いて欲しい、ここから逃げたいとな」 頭が真っ白だ。 目的は遂行せねばならない。この人から何としても哥への書状をもぎ取ってこの国から出なければ。 だけど。 その資格が俺に有るのか? 「…ならばどうしろと仰るのです」 震える唇はあらぬ事を口走った。 己に驚きを抱きながらも、止める事が出来なかった。 「俺が一人逃げればこの反乱が止められるのでしょうか。そんな筈は無い。もう止まらない。そんな事は分かっています。現に俺は最初から欠けても良い駒だと自認してきた。だからこそ敢えてこの役目を負ってきたのです。俺が失敗しても本隊は動く。俺は最初から覚悟なんざ無かった。誰も失いたくない…仰せの通りです。そんな者が本隊に残り指揮を執る訳にはいかぬでしょう。ならば皆に担ぎ上げられる前に逃げ出す必要があった。そして無くても良い存在だと皆に知らしめる必要があった。いずれにせよ必ず犠牲は出る。それが自分か兄かという事です。ならば不要な自分だけの犠牲で済ませたいと思う…それだけの愚かな覚悟です」 一つ息を吐き、罵倒を覚悟して。 「書状を頂きたい。哥へ行かせて下さい。それが俺の逃げ道なのです。戦の喧騒を一旦消して、再びあの人と合間見えその本心を聞き、あの人に殺される事が俺に唯一出来る事なのです」 意外な静けさが襲ってきた。 王が何を考え己を見ているのか、最早分からなかった。 漸く王は口を開いた。 「そなたのその心根で、民を救う事は出来ぬのか?」 問いではなかった。懇願だった。 存在を惜しんでくれる者の言い方だった。 「まずは、戔哥の戦を止める事。それが一人の民を救う一歩だと考えます」 「そうか、そう答えるか…」 ふっと龍晶は微笑んだ。やっと王の心が見えた。 「陛下を前にこんな事を言うのは大変失礼なのですが、民を救うには王などおらずとも良いのです。誰だって良い。ただ、目前の人々と、その生活を守ろうという心意気さえ有れば」 顔を上げ、堂々と言い切った。 「俺は同じ心を持つ者達と旗を揚げる事が出来た。その時点で満足なのです。俺など居なくとも、彼らは民の望む国を作ってくれる」 自信を持って薄く微笑む、満身創痍の若者の顔をじっと見詰める。 覚悟、とは。 歴史を動かす歯車の、磨り減ってゆく一つの駒となる、その覚悟だろうか。 己が欠けても、全体は回る。回り続ける。 それでも良いと言い切れる。 寧ろそれが望みだと。 「龍晶殿」 「は」 「己を歴史の犠牲にするのも結構だが、儂はそなたがその先の歴史を作り変える所を見たいと、そう思うのだよ」 「それは…この身が許さぬでしょう」 「案ずるな。そなたはまだ若い」 王は側近に書状を手渡した。 側近から手渡されるそれを、恭しく受け取る様を見、王は玉座を立ちながら言った。 「願わくば、我が息の良き隣国の友として、共に歴史を作ってくれん事を」 紙以上の重みを持つ書状を頭上に掲げ、伏せた顔は悲しく笑う。 その未来は見えない。今は、まだ。 誰も居なくなった玉座。それは。 まことの王とは何か、それを示す象徴となった。 木漏れ日の中に身を隠す。まだ日は高い。 見据える山道は、戔へと繋がっている。国と国とを繋ぐ主要な道だ。 緊迫した空気。一方で朔夜は短剣を弄んでいる。 くるくると回していたそれを、手元が狂って地面に落とした。 「余裕だな」 苦笑いしながら燕雷に言われる。 「別に、いつもの事だし」 大人に叱られた子供の言い訳のように、朔夜は応えた。 「いつもと違う事をしようとしてるだろ。本当に大丈夫なのか」 「多分ね」 言いながら、ふと動きを止めて。 刹那、背後の木の枝が落ちてきた。 まだ葉をいくらか残していた小枝だが、自然に落ちるようなものではない。 朔夜は驚く燕雷を見て肩を竦めた。 「問題無いだろ?」 念の為燕雷は落ちた枝を拾いその断面を確認する。 自然に折れたにしては、綺麗に切れ過ぎている。 「あまり無駄な力を使うなよ。問題はお前の体力が持つかどうかもなんだから」 「確かに」 それには素直に頷いて、しかし底抜けの笑顔をにっと向けた。 「でも今日は、俺がくたばっても何とかして貰えるから」 実はこうして潜んでいるのは二人だけではない。 道に沿って百を超える兵が武具を構えている。 灌の王様が直々に、朔夜と共に闘うよう命令を下したと言うのだ。 朔夜はへぇ、と驚いて見せ、余程断ろうかとも思ったが、己の意識を保ちながら闘えるようになっているのだから一人で意地を張る意味は無くなっていた。 初めて孤軍ではない闘いをする事になった。 不安はある。 本当に自分を保ち続けられるのかどうか。 「来た」 燕雷が囁く。 朔夜も気付いていた。行軍の音がこだましてくる。 「なあ、燕雷」 道の先を見据え敵を待ちながら朔夜は言った。 「もし悪魔が現れたら、味方を上手く逃してやってよ」 「そんな、縁起でもない」 「それで、俺の死体がもしあったら、ちゃんと葬っといてくれよな。土の下にさ。頼むよ」 「…は?」 意味が分からないと相手を見返す。 朔夜は道の先を見詰めたまま、顔には少しも冗談の気は無かった。 「死ぬ事は無いだろ」 「戦でそんな事断言出来ないだろ」 「いや、お前はさ…」 「もう良いんだって」 燕雷の言葉を遮って朔夜は言った。 「もう良いんだ。普通の人間にさせてくれよ」 そんな風に言われると、燕雷とて何も言えなくなる。 どれだけそれが切実な願望か、痛い程解る。 だが、燕雷は口を開いた。 今の自分だって、そう捨てたものじゃないと思うから。 「こんな所で終わってちゃ、中途半端にも程があるだろ」 「中途半端じゃない終わり方なんて有るのかよ?」 「少なくとも、お前は戔の成り行きを見守って、繍との蹴りを付けた上で、何より大事なのは華耶ちゃんを幸せにする事だ。じゃないと終わりなんて来ない」 唇を尖らす横顔。 ふっと笑って燕雷は少年の背中を軽く叩いた。 「お前の居場所は無くなった訳じゃ無い。寧ろこれからだろ。龍晶を助けなきゃならないのは」 行軍の影が見えた。 黒い塊がどんどん近付き、一人一人の人間となる。 弓を引く音。そして、灌軍の攻撃が始まった。 矢が樹上から降り注ぐ。行列の先頭が混乱に陥り、続く者が兵の潜む草むらへ飛び掛る。 「大丈夫だ、朔」 燕雷が肩を掴んで耳打ちした。 「お前は出来る。龍晶の為に」 朔夜は頷いたかどうか、次の瞬間には混乱に向けて駆けていった。 それを見送って。 「…済まんな」 呟く。 これをあいつが望まない事は、重々知っている。 旅人達が荷を積んでいる。 信じられない気持ちで華耶は様子を見に縁側へ出た。 朔夜も燕雷も戦に行ってしまって居ない。こんな時に。 殆どが哥人で言葉が通じない。その中で、最も問い質すべき人を見つけた。 ただ、声を掛けるべきか迷った。 もう姿は見せないと言ってしまった手前。それに、彼の本意が分からないで居る。 訊くに聞けないまま。 「あっ…龍晶さん!」 そんな躊躇いを吹き飛ばして華耶は駆け寄った。 龍晶は倒れかけて、何とか縁側の柱に捕まっている。 肩を支え、その場に座らせた。 「大丈夫ですか?」 顔色が悪く呼吸が浅い。まだ無理の効かない身体だ。 龍晶は頷いたが、すぐには声も出せない様子だ。 「まだ寝ていらした方が良いですよ…上がれますか?」 今度は緩く首を横に振って、細い声で彼は言った。 「もう時間が無い…」 一つ、二つ、息をして。 「大丈夫…ただの目眩です。じき治る」 「無理は禁物ですよ。このお体より大事なものはありません」 微苦笑して柱に頭を寄りかからせる。 呼吸は大分まともになってきた。寝たきりの日々から急に動き回った為の疲労だろう。 王との謁見を済ませ、直ぐに出立の算段を付けた。今日中には出ようとして今に至る。 「…行ってしまわれるのですか?こんなに、急に」 僅かに責める口振りの華耶を見る。 美しい人だと、そして優しい人だと、心から思う。 「申し訳ない。こんな…騙すような真似をして」 「騙すなんて…」 「あいつと顔を合わさずに行くにはどうしたらいいか考えて…こんな狡い方法を取ってしまった」 「どうしてですか」 大きな瞳で真っ直ぐに射抜かれて、余りに直球の問いで。 正直に答えねば、彼女は許しても天に許されぬだろう。 「あいつは…朔夜は、あなたの側に居るべきなんです。それ以外に有りません」 え、と華耶は顔を崩して声を漏らした。 「これまでと矛盾するような事を言いますが…あいつが闘うべき戦はあなたを守るもの以外に無い。それ以外はあってはならない。俺があいつの力を使うなんて、本当は許される事じゃ無かった」 「でも…龍晶さん、それは朔夜の意志だったのでしょう?朔夜はあなたを守る為に闘いたい筈です。だから今…」 ゆっくりと首を振って、龍晶は華耶の言を遮った。 「もういい。もうたくさんです。これ以上、自分の罪を重くしたくない」 「罪…?」 「俺はあいつの力は元より、あいつの心をも利用してきたに過ぎない」 言葉を失う華耶を余所に、龍晶は通り掛かった仲間を呼び止め旅支度が終わったかを訊いた。 答えに頷き、ふらつく身体を再び立たせる。 「…本当に世話になりました。恩も返せず…それも仇で返すような具合で申し訳ありません」 もっと何か言わねばならないと思った。が、何も言えなかった。 華耶は俯いてしまっていた。それで良いと思った。 嫌いな人間など、いつか忘れられる。 背を向け歩き出す。もうこの世で会う事は無いだろう。 この人にもっと早く出会っていれば。 それでも同じだったろうか。 「あの!」 意を決した声が追ってくる。 「やっぱり…朔夜を待って貰う事は出来ませんか!?」 一度歩みを止めて。 しかし振り返らなかった。 再び進み出す。 言うべきでは無かった。言いたい事はあったのだけど。 二人が、幸せになって欲しいから、と。 [*前へ] [戻る] |