月の蘇る 9 数歩行けば目的地に着く。 それでも彼らが来てから、この敷居を跨ぐ事は無かった。 別に避けていた訳でも止められていた訳でもない。ただ、その機会が無かっただけだ。 龍晶の食事は決まった時間に黄浜が取りに来る。 他の細々とした用事は燕雷が間に入っているし、特にこれと言ってこちらから尋ねる用は無い。 思い返してみれば、自分はこの長屋に立ち入らぬよう気を使われているのではないかと思い当たって、一歩踏み入れた時その理由も分かった。 一人の男が何かを喋りながら、肩に手を回してきた。 別の男が腕を引き、無理矢理中に引き入れられる。 「ちょっと…待ってください!私は龍晶さんに会いにきただけ…!」 恐怖が先立って叫ぶが、言葉が通じない。 気付けば大勢の男達に囲まれている。 引き返したくとも引き返せない。それどころか肩や腕、背中に男達の手が伸びてきて身の自由が無い。 有らぬ所を触られ、悲鳴を上げた時。 『止めろ!』 目前の襖がぱんと開いて鋭い静止の声が掛かった。 「龍晶さん!」 殆ど泣き声で華耶が縋るように呼ぶ。 男達が驚いた様に手を引いた時、龍晶の居る奥から出てきた旦沙那が哥の男達を追い払い、黄浜が華耶の手を引いて龍晶の居る部屋へと連れて入った。 襖を閉めると、そこは床に座る龍晶と、黄浜、華耶だけの空間となる。 「彼らに代わり非礼をお詫びします」 落ち着いた声で告げ、龍晶は頭を下げた。 「そんな、あなた様が謝る事ではありませんよ。不用意な私が悪いんです。ごめんなさい、こんな事になってしまって」 「いえ…俺も含めて、我々はあなたに迷惑をかけ過ぎていますから」 「迷惑だなんてとんでもない。それどころか、私こそ沢山失礼を働いてしまって…お怒りでしょう?」 「どうして?俺があなたに怒れる事なんてあるでしょうか」 そこまで言って、龍晶は華耶に座るよう促した。 続いて黄浜に目配せし、その意を察した彼は部屋を出た。 二人きりになり、改めて華耶は相手を見る。 頬は城に居た時より更にこけ、顔色は悪く、目はどこか虚ろだ。 「世話になっているのに顔も出さない俺の方が礼を欠いていますね」 自嘲気味に龍晶は言った。 華耶は首を振る。 「お具合が悪いのに無理に押し掛けてしまっては心配の押し売りです。本当にごめんなさい。ただ、お知らせはしなきゃと思って」 「何を?」 「朔夜が目覚めたんです」 龍晶は反応しなかった。 目はどこか遠くを見ていた。 「…怒ってますか?」 おずおずと華耶は訊いた。 問いに首を横に振り、苦しげに息を吐いて龍晶は言った。 「少し横になっても?」 「勿論。すみません、気付かないで…」 横向きに転がる龍晶に華耶が布団を掛ける。 その距離だからこそ聞き取れる声で、龍晶は言った。 「気が狂いそうだ」 「…え?」 華耶は動きを止めて聞き返す。 「二つの意志に自分が引き裂かれそうな気がする。死を前にしても未だに惑い迷うばかりなのかとは思うが…」 困惑する華耶に、ふっと笑いかけて。 「すみません、戯言です」 華耶は居住まいを正して真っ直ぐに龍晶の目を捉え、問い直した。 「詳しく聞かせてください」 問われた途端にまた目が虚ろになる。 聞いて欲しいのか、聞かれたくないのか。 言葉にしたいのか、明確に意識せぬまま心に仕舞っておきたいのか。 どうしたいのか分からない。 「あいつを許すべきか…それが出来るのか…分からないんです。ただ、あいつが憎い」 言えるだけの事を言った。決してこれは要点ではないが。 朔夜の事だと、言われずとも華耶には分かっていた。 憎いと言われるのは意外ではあるが驚きはしなかった。 それだけの事をしたと、今しがた本人から聞いていたお陰で。 それでも悲しかった。 「あなた様は朔夜の為に力を尽くしてくれました。本当に、お礼の言葉も無いほど…。だから許して下さいなんて言えません。朔夜だってそれは同じです。でも、一つだけお願いさせてください…」 冷たい手を取って、両手で握る。 「お願いだから、生きてください。ずっとずっと長生きしてください。とても利己的なお願いだとは分かっているんですけど、そう願わずにはいられないんです」 龍晶は顔を伏せて布団に押し付け、目を長い前髪の下に隠した。 口元だけが見え、固く固く引き結ばれていた。 『生きなさい』と。 母の声がする。 「私に出来る事なら何でもします。黄浜さんに伝えて貰っても良い。何かさせてください」 華耶は必死に伝えた。 それに応じて口を開くのが精一杯だった。 「朔夜に伝えて下さい」 震えを伝えぬように。 「今までの事、俺の事、全て…忘れるように、と…」 するり、と。 手を包んでいた温もりが離れた。 「…良いんですか」 華耶の声が震えていた。 「俺はあいつが羨ましいんです」 震えを自嘲に変えて龍晶は言った。 「それだけです」 衣摺れの音がして。 華耶が立ち上がり、すっと戸を開ける。 「私、もう呼ばれるまでは現れませんから…安心してください」 言い残して、彼女は去っていった。 それでも声は止まずに。 耳を塞ぐ。 母の声を遠去けたかった。 「もういい…」 楽になりたかった。 何も聞こえない場所へ行きたかった。 死にたくはない。だが、『生きる』事に疲れた。 目に見えるのは、絶望ばかりだ。 『生きなさい』と。 もう言わないで欲しかった。 『惚れてるんだろ?』 急に耳に入ってきた異質の言葉に目を見開く。 何の事は無い、華耶と入れ違いに旦沙那が揶揄いに来たのだ。 『…違う』 揶揄だと分かっているのに、大真面目に返してしまう。 旦沙那は軽く笑って、襖越しに同胞を指した。 『皆察しはついているぞ。あんなに目の色変えて怒るのは初めて見たって』 『そうかな』 自分ではあのくらい怒鳴るのは日常茶飯事だと思っていたが。 そして、ああ、と思い直した。それは朔夜が居るからだ。あいつに出逢う前は怒るなんて感情は忘れていた。 対等に言葉をやり取り出来る相手など居なかったのだから。 怯え続けて息をしていた自分が、あいつが側に居るようになってから、息をするように怒ったり泣いたり。 揶揄い合ったり、時には励まし合ったりして。 苦笑いしか出て来ない。忘れろと言ったのはどの口だ。 『…別に彼女が特別という訳ではないよ。ただ大事な人には変わりないから、哥に対して嫌な思いを抱いて欲しくはないだけだ』 旦沙那にはそう説明して、薄く笑んだ。 『真面目な奴だな。つまらん』 何故か詰られて顔を顰める事になるのだが。 その顔を鼻で笑って旦沙那は言った。 『女に惚れるのは別に罪じゃないぞ。己に正直になれ』 『そんな単純な話じゃない…』 『単純な恋愛なぞ在るものか。それともそんなところまでお前は特別なのか?』 何を言っても通じない気がして、唇を尖らせて黙る。 だんだん馬鹿らしくなってきた。 『俺だって人並みに生きれたらお前の与太話に付き合ってやれたよ』 投げ気味に言い放って布団に包まった。 『与太話か。我が妻と出会った時の話でも聞くか?参考までに』 『他所で勝手にしてろよ。俺は寝る』 ふん、と鼻を鳴らして旦沙那は立った。 濡れ縁に続く戸を開けて。 『ま、お前の連れ合いは誰がどう見てもあの小僧だけどな』 『はっ…!?』 顔を顰めて起き上がる。 旦沙那の向こう、濡れ縁よりも更に奥の向かいの長屋。 その濡れ縁に、朔夜がこっちを向いて立っていた。 目が合って、明らかに驚いたような、そしてバツの悪い顔をして、朔夜は部屋へと引っ込んだ。 その奥に華耶もちらりと見えたが、戸は閉められた。 「…何だよ、ったく…」 片膝を立てて起き上がり、頭を掻き毟る。 問題は華耶ではない。分かっている事だが。 『どうするんだ、これから』 旦沙那の問いはあまりに的を射ていた。 一つ息をして間を取り、考える。 『…灌王の書状を受け取り次第、出立する』 『それはいつ頃になる?』 『さあな。王になった事が無いから、書状一つ書くのにどれだけ時が要るのか分からない』 『戦になるんじゃないのか?』 それは謁見の間でのあの話を聞いていなくても、彼らの肌で感じ取れる程に近付いてきているのだろう。 龍晶は無言で布団を押しやり、立ち上がった。 まだふらつくが、歩けない事は無い。 『何処へ行く』 『泥を被りに』 分からない、と眉間を寄せる旦沙那に並び、見上げて。 『逃げれないなら己の責任を果たさなきゃならない。結果どうなっても』 濡れ縁から裸足のまま、雪の残る庭へと出た。 「やっぱり嫌われたのは俺だよ」 華耶の顔色から伝言を無理矢理聞き出して、朔夜はそう結論付けた。 「あいつが忘れたいんだ。俺の事。俺が今までしてきた事」 「そうかな」 「そうだよ。そうに決まってる。嫌な思い出ばかりだもん」 強い語気の言葉とは裏腹に、目は泣き腫らしたまま、まだまだ泣きそうだ。 「そうじゃない…気がする。私は何があったかなんて知らないけど、龍晶さんの事見てたら、嫌な事ばかりなんてそんな単純じゃなさそうだよ」 華耶が懸命に言葉を選び考えながら言う。 「だって、朔夜が羨ましいって言ってるんだよ?どういう意味かは分からないけど、嫌いならそんな事言わない」 「俺が死なないから」 即座に推量を口にして、言ったそばから心が痛む一言だと気付いて激しく後悔した。 これではまるで、龍晶が死に近いと認めるようなものだ。 華耶とて黙ってしまった。 「…違うよ、そうじゃなくて…あいつにはやりたい事もやるべき事もいっぱいあるから、普通の人間の寿命じゃ時間が足りないんだ。そういう意味だよ」 何に対しての否定かも分からないが、とにかく言い訳じみた事を呟いて、居たたまれず外への扉を開けた。 冷たい空気がごちゃつく頭を掃き清めるようだ。 と、向かいの長屋の戸も開いた。 驚きで咄嗟に動けず、思わず凝視する。 出てきたのは知らぬ顔と。 その奥、影になった室内に、忘れろと言われても忘れられる筈の無い顔を見つけて。 目が合った途端、何故かそうしなければならない衝動に駆られて、部屋に逃げ帰り戸を急いで閉めた。 気まずいとか、そういう感覚ではない。 これは、罪悪感だ。 「朔夜?」 華耶が不思議そうに見てくる。当然だ。 自分だって自分が不思議で、だけど行動は必然だとも思えている。 確かに、忘れて貰わねばならない。 悪魔の存在は、彼に不要だ。 「なあ、華耶」 閉めた戸に背を預けてずるずると座り込み、朔夜は口を開いた。 「やっぱ駄目だよ。俺は誰かの側に居ちゃいけない。戦場しか居場所が無い」 華耶は驚いた顔で朔夜を見返し、暫し絶句して、やっと一言絞り出した。 「そんな事無い」 首を横に振る。もう誰かの優しさに甘えていられない。 己の爪先を睨む。 互いに言える言葉を探していた。 ふと、寄り掛かかる戸に違和感を感じて少し背中を浮かせる。 その途端、勢い良くそれは開かれ、支えを無くした体は後ろへ倒れた。 「何やってんだ」 仰向けに寝転がり、ぽかんと口を開けて見上げてくる顔に龍晶は吐き捨てた。 「龍晶さん」 華耶が驚きを含めて呼びかける。 それを無視して朔夜を見下ろしたまま、龍晶は言った。 「伝え忘れた事があってな」 朔夜はやっと起き上がって、龍晶に向けて座り直した。 「お前、大丈夫なのか」 「それはお互いだろう。尤も、俺はお前のように不死身じゃないが」 そんな事はどうでも良いとばかりに短い溜息で打ち消して、龍晶は続けた。 「俺がお前を牢から出したのは理由がある。やって貰わなきゃならない事があるからだ」 「哥に行く事?俺もそのつもりだった」 「違う」 朔夜は少し目を見開いたが、驚きは少なかった。 忘れろと言われたこの流れで、一緒に来てくれとは言わないだろうとは思った。 龍晶は躊躇いなく告げた。 「戔軍が攻めてくる。もう戦は始まろうとしている」 じっと、目を見返して。 「…分かるな?」 頷く。他に己の役割など在ろうものか。 頷き返して龍晶は踵を返した。 何か言いたげな華耶の顔をなるべく目に入れないように。 「龍晶」 追ってきたのは、朔夜の声。 「後ろは守るから。お前は安心して哥に行けよ」 ここで道を分かつ、と。 言わずとも察したようだ。 それで良い。あまりにも互いに傷付き過ぎた。 龍晶は止めていた足を敷石へと降ろした。 雪の冷たさが素足に刺さる。 数歩で元の長屋に戻る。旦沙那はまだ同じ場所で様子を見ていた。 『気は済んだか?』 問われて、少し考え、答えた。 『ああ。別れは告げた』 数多の思いを遮るように、戸を閉めた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |