impatient 8 「本当に悪かった。傷付けるつもりじゃなかったんだ。ただ、君の笑顔が見たかった。」 本音だった。 初めはただの馴れ馴れしいメイド。何度か顔を合わせ言葉を交わすうちに謎が増え、真実を知らされて興味が大きくなった。 俄には信じられない事実だったが、今までに得たことのない感情を、頭のどこか――これを人は心と呼ぶのだろうか――で僅かに認識していた。 彼女や周り人間の言動の謎が解けても、胸の内のもやついた何かが解決しない。これは俺の欠けた記憶と関係しているのだろう。現に今だって、俺は何故こんなにも落ち着かない。 「頼む。泣き止んでくれないか。君の涙を見ると、とても苦しくなるんだ。」 「そんなの、勝手です。」 「ああ、そうだな。」 鼻をすする音がこもる。 「なあ、紗奈。」 胸元で感じていた、荒れた熱い息は徐々に落ち着いてきた。 体を僅かに離すと、紗奈はスンと音をさせて顔の下半分を隠しながら、赤い目で見上げてきた。 話を聞いてくれることを確認し、内心ホッと息をつく。 乱れた前髪をサラリと撫で、息を吸った。 「新しくやり直せないだろうか?」 「え……?」 「きっと辛い思いをさせるだろうが、君を手放したくない。」 「そんな…「勝手だろう?」 先程の紗奈の台詞を拝借して先回りすると、紗奈は肯定も否定もしない。 「だが、どうか少し思いとどまって欲しい。紗奈の心の準備ができるまで何もしない。勿論、それで他の女に走ることもしない。だから俺を……今の俺を、」 好きになって欲しい。 そう思ったが、そのまま言葉にするには女々しすぎて、これ以上醜態を晒してよいものか、詰まる。 「……猶予をくれないか。今はまだ出会ったばかりと同じだ。」 俺にとっては勿論、きっと君にとっても。 「難しい、だろうか。」 彼女の返答が予測できない。 一度は結婚の約束をするほど愛し合ったはずの仲だが、それは俺と外側が同じだけの人間だ。 今も彼女の足元には、荷造りされたバッグが進路を分かつべく落とされている。 けれど彼女の瞳は、俺の中の何かを探すように、或いは見定めるように、じっと瞳の奥を見つめている。 やがて彼女は目線を落とすと、大きなバッグを手に持った。 [*前へ][次へ#] [戻る] |