2nd Season
16.五月雨。
また朝が来た。
眠れない夜を過ごしている時は、もう夜明けなんか来ないのかと思う位に長い長い暗い時間なのに、それでもちゃんと朝は来る。
昨日の夜、アズマ君のマンションから帰って来てから、急いで顔を冷やした。
まだ殴られた箇所はズキズキと痛むし、赤くなってはいないけど少し腫れてしまった。
今日はHigh-Gredeの仕事で音楽番組の収録がある。
雑誌の撮影じゃなくて良かった。
19歳のアズマ君と一緒に居るのに慣れたつもりだったけど、みんなが言ってたのってこういう事かなって今更になって気付く。
荒んでたって、生活がとかじゃないんだ。
人間性の問題だったんだ。
自分の部屋を出て、朝食の準備を始めた。
野菜がたくさん残ってる。勿体無いから何か作らなきゃ……。
頭の中でメニューを考えるけど、何も浮かばない。
浮かんでは掻き消すメニューもある。今はそれを作りたくない。
結局いつも似たような物を作ってテーブルに並べる。
起こさなくてもちゃんと自分で部屋から出てくるアズマ君は頭を掻きながら欠伸をして椅子に座る。
おはようの挨拶さえもしなくなったのは、いつからだっただろう。
「今日、先に事務所行ってくれる?ちょっとしたい事があって。」
「別にいいけど?チケット俺が使っていいの?」
頷いて返事した。
アズマ君の車は、今は使っていない。
今のアズマ君は車の免許を取得してはいるけど、車を購入して乗り回した記憶が無いんだ。事故を起こしてはいけないから車禁止なんだ。
仕事が午前中からある時は、織田さんが迎えに来てくれる時もあるけど、それ以外は決まった時間にタクシーで事務所まで行く事になってる。
アズマ君が出掛けてから、織田さんの携帯に電話した。
今日の仕事でピアノを弾くんだ。
あの事故があってからピアノに触っていない。
指がちゃんと動くのか自分でも心配。
家に居る日は、毎日ピアノに触れるのが日課だった。
もう半月もピアノをサボってしまった。
「自信が無いから家でピアノの練習してから事務所に行きます。」
そう言って携帯を閉じてピアノの天板に置いた。
蓋を開けて鍵盤に向き合うと、指をバラバラと動かした後、ゆっくりと触れた。
「ごめんな。」
ピアノにそう謝った後、全ての鍵盤を低い音から叩いた。
心地良い音が部屋に響いて、目を瞑った。
「良し。」
何が良いのかなんて、答えられないけど、いけるって思った。
ソナタや協奏曲を立て続けに弾いて、今日弾く曲を弾いてみた。
何も考えないで、一心不乱に鍵盤を叩く。
次は何の曲を弾くかなんて考えないで、指に任せて休まずに音を奏でた。
「………っと、」
弾き続けて30分を過ぎた位で、ミスタッチをした。
やっぱり集中力が続かない。指もこれだけしか弾いてないのに疲れてる。
時計を見て、後20分弾こうと決めてまた指を置いた。
リビングにこんな大きなピアノが置いてあるだけで普通ではないのに、今のアズマ君はピアノに関して何も聞いてこなかった。
俺が作った曲『アスタリスク』の事を知っていたから、俺がピアノを弾くのは知ってるだろうけど、アズマ君の前でピアノを弾く気分になれなかった。
ピアノの話題に触れられない内は、俺には関心が無いのだという事。
「おはよ〜、ヤマナツ君!」
織田さんから連絡を貰って、直接テレビ局へとやってきた俺に、入り口で声を掛けてきた高い声。
「おはようございます。」
茶色い明るいカラーの髪をポニーテールにしたミュウちゃん。
ミュウちゃんはアズマ君の元彼女で、記憶を失くしてる今のアズマ君と丁度付き合ってた。
アズマ君が記憶喪失だという事は勿論内緒だけど、今のアズマ君がミュウちゃんに会ったらって考えたら、とても怖い。
「今日は何の仕事なの?」
俺の眼鏡のフレームをつついて「オレンジ可愛いね」って花が開くように笑ったミュウちゃん。
「ハイグレで音楽番組。ミュウちゃんは?」
「私はね、バラエティ。明後日また会えるね。頑張ってね〜!バイバイ!」
俺とアズマ君が恋人同士だと知ってるミュウちゃん。
「カズによろしくね。」
最後にそう言われた。笑顔で手を振り返した。
同じトーク番組のレギュラーをしてるから、明後日収録があるんだ。
眼鏡は、本を読んだりする時に掛ける。今日は顔の輪郭を誤魔化す為に掛けてきた。よく見ないと分からないと思うけど、織田さんとか結構鋭いからちょっと心配。
楽屋に入ると、ヒロ君とアキラとアツシが居た。
「おはようございます。」
挨拶をすると、皆が俺を振り返っておはようって言った。
荷物を机の上に置いて、衣装の掛かったハンガーへと近付いた。
アキラとアツシはもう着替えてて、後の5人分が掛かってる。まだアズマ君とウツミ君、オオサワ君は来てないんだ。
「ピアノ大丈夫か?」
ヒロ君が声を掛けてきた。
「オダッチが、ヤマナツがピアノ不安だから練習してくるって言ってたから。」
「うん、ちょっとサボってたからさぁ、弾き込んできた。」
アハハって笑いながらそう答えた。衣装を自分の荷物の近くの壁のフックに掛けると、着替え始めた。
「おはよっす!」
ウツミ君とオオサワ君が一緒に楽屋に入って来た。皆で挨拶をすると、ウツミ君が「アズマは直前に入る段取りだから」って俺に言った。
アズマ君の知り合いに会わないように、かな。今のアズマ君には知らない人だから。
ウツミ君に「分かりました」って返事をした。ヒロ君が俺の顔をじっと見てた。
「……おい、ヤマナツ。」
そう言って近付いて来て、俺に手を伸ばしたヒロ君から、思わず一歩下がって逃げた。
「眼鏡、ちょっと外せ。」
落ち着いた、しっかりとした口調で言われて、俺は下を向いた。
「何?どうしたの?」
アツシが俺とヒロ君に声を掛けた。
ヒロ君は、俺の腕を掴んで、俺が逃げられない内に俺の顔から眼鏡を取った。
掴まれてない方の手で、つい目の横を隠した。
「殴られたのか?」
しっかりとした口調ではっきりと聞かれた。
楽屋の中が静まり返った。
皆が俺を見てた。
沈黙と視線が、痛い。
「アズマが、お前を殴ったのか?」
「………ちょっと、ぶつけて……。最近寝不足でボケててさ。」
凄い下手くそな言い訳……。誰もそんなの信じない。言った後で自分に呆れた。
「お前、……まさかアズマとセックスしてないだろうな?」
いきなり核心をついたヒロ君の言葉に、俺は動けなくなってしまった。
掴んだ腕を離されて、ヒロ君の腕が俺のイージーパンツの紐を解いた。
「………な、何?」
戸惑う俺の言葉に返事もしないで、シャツをパンツから引き出した。
「……やめて、ヒロ君!」
有無を言わさずに俺の衣類を剥いでいくヒロ君の手を払おうとしたら、壁に身体を押し付けられた。
「………やだ!見ないで!…いやだ!」
捲られたシャツの下から、自分の肌色が見えて焦った。ヒロ君は、俺の身体にアズマ君から受けた暴力や行為の痕跡を探してるんだとすぐに分かった。
昨日の出来事が頭の中に浮かんで、身体が震えた。
「ヒロ兄!やめてよ!ナツ君が嫌がってるじゃん!」
アツシが声を上げて、震える俺の身体とヒロ君の間に入って止めてくれた。
「気を付けろって、言っただろ!」
ヒロ君が俺に向かって大きな声で言った。
まだ何も無かった頃に、ヒロ君と織田さんに言われてた。
19歳のアズマ君は荒んでいて、心配だと。
「こうなるのを一番心配してたんじゃねぇか!」
「……………っ、」
ヒロ君の声が、辛そうだった。
アツシを突き飛ばしたヒロ君が、俺の乱れたシャツの裾を捲った。
腰骨の辺りに出来た、幾つかの引っ掻き傷を見て舌打ちしてた。
昨日、アズマ君のマンションで……ソファの上で無理矢理服を脱がされた時の傷だ。
「お前を好きで、抱いてる訳じゃないんだぞ。」
「……分かってる。」
身に染みて、よく分かってる。
「お前の知ってるアズマじゃないんだぞ。」
分かってる。
「お前はあの頃のアズマを知らないから、」
「知らないよ!……そんなの、分かってる!」
皆が言う19歳のアズマ君を俺は知らない。
出会っていないんだから、そんなの、しょうがないじゃん。
「俺が知らないだけで、皆は知ってるんだろ!?アズマ君だって……、皆は知ってるけど俺は知らないって言ってた、そんなの言われなくても分かってるよ!」
19歳のアズマ君が実際どんな人だったのかは分からないけど、俺はその19歳のアズマ君をテレビで見てダンスを始めた位に憧れた。
「知らないからって、否定されたって、」
……言ったら駄目だ。
もう、言っても無駄なんだ。
言葉にしたら、本当にもう無しになってしまう気がする。
頭ではそう警告を出してるのに、目から涙が溢れるのと同時に、口からずっと閉じ込めてた想いが零れた。
「……2年後には、俺を好きだって言ってくれたアズマ君だもん!」
もう、止まらない。
必死で今まで願いをかけるように、祈るように、思い浮かべては消した自分の芯を支えてた、たった一つの望み。
「俺だって、皆と同じ時に知り合ってたかったよ!」
苦しい。
「もっと早くアズマ君と出会いたかった!」
叫ぶように、腹の底から声を搾り出した。
「う、」
目を瞑ったら、泣き声まで零れた。
「ぅわぁあぁ………!」
頭が、顔が熱い。どんどん溢れ出る涙が頬を濡らして、膝が崩れた。
座り込んだ俺を、アツシが支えるように抱き抱えてくれた。
こんな風に声を上げて泣いたのは、子どもの時以来だと思う。
「ナツ君、………このままでいいの?」
アツシが、しゃくり上げて泣く俺にゆっくり話して来た。
「アズマ君の記憶が戻らなくてもいいの?」
首を振った。
「俺達、19歳のアズマ君も22歳のアズマ君も知ってるけど、早く戻って欲しいって思ってるよ?」
アキラがしゃがんで、座り込んだ俺の目線に合わせてそう言った。
「どうせ、19歳のアズマはヤマナツの事酷く一方的に抱いてんだろ?」
ヒロ君が溜め息をつきながら聞いてきた。
「………俺の事、セフレだった、と、思ってる。」
鼻を啜って、ここ1週間で一番知られたくなかった事実を告げた。
「………なぁ、ヤマナツ。アズマは、お前の事凄く大事にしてた。そりゃ、意地悪したりからかったりしてたけど、本当にお前が好きで俺達が呆れる位にお前を可愛がってたよな。」
ヒロ君の話しを聞いて、皆が吹き出してクスクス笑った。
「記憶が戻った時に、記憶喪失だった時の事をアズマが覚えていたら、アズマはきっと凄い自分を責めるんじゃないか?」
頭の中が、………真っ白になった。
「どんな事をされたのかはっきり分からないけど、お前のそんな様子やお前をセフレと思ってる所とか、………お前を、殴った事とか。」
俺の顔を指差して、ヒロ君が真っ直ぐに俺を見て言った。
「きっと、いくら記憶が無かった時の事とはいえ、自分を責めてお前に申し訳なく思って悔やんだりして……平静ではいられないと思う。」
ヒロ君の柔らかく響く声が、俺の頭の中へ一言も漏らさず染み込んでいく。
「だから、やっぱりアズマとは今は離れた方がいいんじゃないか?」
目尻に溜まってた涙が、また頬を伝って重力に引っ張られるように落ちていった。
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