風の放浪者&Memoir
其の3

「私は、貴方の近くにいます。どうか、私を見つけて……これ以上は、もう……お願いします」

 刹那、女性の身体から色素が失われていく。それは陽炎のように揺らめき、今にも消えそうだった。

 自身が消えることを拒むのか、女性が手を伸ばしてくる。ユーリッドはその手を掴み握り返すと、冷たさが掌から伝わってきた。まるで氷に触れているかのような、相手の熱を奪い取ってしまいそうな冷たさだった。

「ああ、貴方様は……」

 それは吐息を漏らしたかのような、消えそうな声音であった。触れた瞬間に何かを感じ取ったのか、その表情は何処か安らかであった。しかし、すぐに表情は一変した。身体の大半が、消えかけていた。

 何かを話そうと口を動かす。だが声にならない声はユーリッドに届かず、女性の身体は消えてしまった。

 ――助けて。

 微かに動かされた唇から読み取れた言葉は、悲痛なものであった。暫くの間、女性がいた空間を見つめる。そして触れていた手を握り締めると、聞き取れない声音で女性の名前を呼んだ。

 そう、助け出すという意志と共に――


◇◆◇◆◇◆


 瞳を閉じ再び開いた時には、其処は元の場所だった。視界の先には夕日によって赤く染まった空が見え、後ろからは騒がしいほどの人の声が耳に届く。あれは、幻覚だったのか――

 いや、確かに彼女は存在した。耳に残る声音に、触れた瞬間に感じた冷たさ。それはハッキリと感覚として残り、彼女という人物がいたことを教えてくれた。それに、あの訴えもそうだ。

 何気なく天を仰ぐ。屋根と屋根の隙間から見えるのは、薄紅色に着色された雲。それに、空を自由に飛ぶ鳥達。此処は、紛れもない現実の空間。なら、先ほどいた場所は――考えても答えは見つからない。

 懸命に記憶を手繰り、遠い記憶の中に眠る何かを探し出す。しかし折り重なった記憶という名の紙は、ユーリッドの考えを阻む。だが、断片的に思い出すことができる。そう、あそこは――

 その時、鐘の音が響き渡った。その音に心臓が激しく鼓動し、思考が現実に引き戻される。それと同時に、考えも止まってしまった。だが、別の意味での思考が働く。それは、ユーリッドにとって大切なことであった。

「あっ! 宿」

 鐘の音は「野宿を避ける為に宿の確保」という、大切なことを思い出させてくれた。優先すべき順位を頭の中で決めると、慌てて広場を抜け目的の宿がある場所に急ぐことにした。

 だが其処には普通の民家が建ち並ぶだけで、それらしきものはない。予想外のことに、全身から力が抜けてしまう。このままでは、本当に野宿になってしまうだろう。再び溜息をつくと、ユーリッドはもと来た道を引き返す。そして広場まで戻ると、駆け足で宿を探しに向かった。




 朱色の空が黒く染まりかけてきた頃、何とか宿を見つけることができた。運良く部屋が空いており、野宿という最悪な結末は免れた。だが同時に、驚いてしまう。それは女将の顔に、見覚えがあった。

「この宿って昔、路地裏にありませんでした?」

 この宿こそ、ユーリッドが探していた目的の場所。女将の話によると、景気が良くなり場所を移転したらしい。移転することは本人の自由。だがそれを知らない客に対し、何か目印が欲しいと思うのが、正直なところ。

「ホント、儲かって大変だわ」

 そのように言うも、顔は笑っていた。得られる大量の金に、喜びを見せない人間など珍しい。寧ろ、金に執着心を持っているような感じがした。だからこそ、移転に関してはいい加減なのだ。

「はい。これが部屋の鍵。部屋は右端だから」

 鍵を受け取ると、真っ直ぐ二階に向かう。一階が食堂で二階が宿というこの建物。確かに、建物自体大きく変わった。儲かっている――その言葉通りだろう。やはりこの街や其処に暮らす人間は、変わってしまった。

 鍵を開け、部屋の中に入る。すると室内は、簡素という言葉が似合うほど、何もなかった。寝台に机に椅子。必要最低限の物しか置かれていない。小さな村の宿でさえもう少し何かが置かれているというのに、ここまで簡素な室内だと、女将のドケチっぷりに呆れてしまう。

「儲かっている……か」

 その言葉に矛盾を感じながらもザックを下ろし、寝台の上に腰掛ける。我儘など言っていられない。泊まれるだけ有難いと思わないと、罰が当たる。ユーリッドはそう自分に言い聞かせるが、納得がいく内装ではない。

 その時、賑やかな笑い声がユーリッドの耳に届いた。どうやら一階は、相当盛り上がっているようだ。声に誘われるかのように、一階の様子を見に行く。すると声と一緒に、食欲を誘う香りも届けられた。


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あきゅろす。
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