桜の散る頃に
眠る男の顔は、死に顔のように美しい。
ふざけた目隠しのない、無防備な寝顔を見るようになって、長くは経っていない。ならばその美しさが、男が死に近づいている故の儚さなのかどうかはわからなかった。
「総悟」
囁きで呼び掛けるが、応えはない。。
美しさなどになぞらえずとも、生命が削り取られていく様は見えていた。誰か横にいても気づかない程、若しくは気づいても起きあがれない程、彼の生命は其の手に残り少ない。
まるでおやつのキャンディーをくすねていくような気軽さで、死神は総悟の鮮やかな生命の粒を奪い取るのだ。
「総悟」
そっと呼び掛けを繰り返しながら、総悟の周りに花を蒔いていく。
枕元に、満開に咲く花を見せてやりたかった。春を嘯く梅の花。ただ、手折った花は命短い。その中に眠る総悟は、まるで死びとの様。
「総悟」
嗚呼美しい。此のまま彼が死ねたなら。
「総悟」
呼び掛けながら手を掛ける。白い喉元に。
締め上げられるのは私の首。食い込むのは母の指。私が見ているのは、母の瞳に映るもの。
「mam」
貴方の気持ちがわかります。毎夜私に手を掛けた、貴方の気持ちが。
一人で逝くのは寂しいわ。美しい者を道連れにしたいわね。
唇が動いた気がして、総悟の首を放した。滑らかな肌に指の跡はなくて、ただやんわりと這わせていただけだったのだと知る。穏やかな呼吸をひっそりと繰り返す彼は、その命を握られていたことに、気づいているのだろうか。
手に残った生々しい生命の感触を隠したくて、手袋を取り出してはめた。
目を開けないまま、薄い唇が動いた。
「さくら…」
「バカ、梅アル」
大儀そうに目蓋を上げて、細めた目で微笑むのが、いかにも儚い。
「そうか、もう――桜も間近だな」
唇で微笑みを返しながら思う。春まで保つかと言われた男が、桜を見るのは難しい。
「よく見せてくれねぇか」
もう、身体の向きを変えて、枕元を見るのも骨が折れるらしかった。手近な枝をとり、差し出してやる。
「良いね」
「綺麗。お前花が似合うアル」
「柄じゃねぇや」
けれど実際、花懸かる男の顔は美しかった。
「髪に挿してやるヨ」
男が嫌がることわかっていたが、それを見たい。枝を引き寄せて、花弁に指をかける。けれど、膨れた手袋のせいで花をひとつ潰してしまった。
「そんなもんしてるからだ」
「寒いからアル」
「外せよ。握ってやら」
首を振る。病人を寝かせるに適さないほど、此の部屋が寒々しい訳はない。寒さのせいなどでなく、春がきて、夏がきても、私は此を外せない。
「貸してみろ」
差し出された白い手に、枝をとらせる。総悟の細長い指は、器用に花を摘んだ。
それに比べて、この指の皮膚は赤黒く醜い。それは初め、小さなかさ蓋のようだった。かさ蓋はやがて厚ぼったく広がり、指先から腕へ、腕から肩へ。もう首元も、襟で隠せなくなるだろう。
雪のような肌に付きまとう奇病は残酷。母は美しい顔を失い狂った。自分も、もう時を置かずそうなる筈だ。あの赤黒い物の怪のような顔を鏡に映し、人に晒し、まともで居られるわけがない。
「ほらよ」
摘んだ花を持って、総悟は私の髪に触れた。
「ああ、綺麗だな。手前が言ったことが解った。」
そういって笑うお前の顔は美しいよ。私を美しいというお前が憎い。
美しいまま死に逝くお前が憎い。
「手前の手も綺麗で良いよ」
手袋の上に、白い指が重なる。
「知ってるヨ」
この男は隙を持て余すと、私の指を愛しそうに撫でたのだった。指を絡ませ、柔く吸われる、甘やかな記憶。私の胸はきゅっと疼いた。
愛しさと憎しみに駆られて、また母のことを思い出していた。なぜ母は、父を私を赤黒い指で道連れにはしなかったのだろう。なぜ死に急がずに、狂気の時を全うしたのだろう。私は其の思いを知らないと信じたい。
「桜が散ったら、手袋とって見せてやるアル」
不思議そうな眼差しから、曖昧に目を逸らした。
私は一つ、賭をしたのだ。散り桜を二人で迎えられたなら、死に逝く貴方に見せてやろう。愛する貴方に憎しみを。
美しいまま死なせやしない。其れが、私の醜い希望。
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