小説 3
早桃恋・前編 (にょた・桜花恋の阿部視点・過去回想)
高1の時に引き合わされた婚約者は、8歳の小学2年生だった。
ふざけんな。
そう思ったけど、誰にも言わなかった。
結婚相手を自由に選べないのは、覚悟していたし……誰かに文句を言ったって、婚約が覆る訳でもない。
だったら、黙って飲み込むしかないだろう。
ただ、優しくしてやるつもりは、なかった。
第一印象は、ふわふわの綿菓子。
さぞ大事に育てられて来たんだろう、屈託の無い笑顔。子供特有の、まっすぐな眼差し。
こいつはこのまま大きくなって、ふわふわ可愛いだけの女になるんだろうか。
レースとリボンと宝石だけを愛でて、オレの言う事を十分の一も理解しない、ろくに会話もできないような女に?
上等だ、とも思ったし、また同時に、冗談じゃないとも思った。
とにかく、一言で言えば、「気に入らなかった」。
だから、オレは一度も……笑いかけてやったことがない。
早い内から仲良くさせようとしてなのか、そいつはしょっちゅう親に連れられ、オレの実家を訪れるようになった。
相手にするのが面倒だったから、オレは熱心に部活に出た。そしたら、そいつも付いて来た。
小学生の女児が、高校野球の練習なんか、見ても面白いとは思えなかったが……そいつはフェンスにかじりつくようにして、いつも無心にオレ達を見ていた。
その頃オレは、どうしても、と乞われてマネージャーと付き合っていた。
でも、当時の事を考える時、決まって脳裏に浮かぶのは、マネージャーじゃない。
思い出すのは、風に揺れるふわふわの猫毛。けぶる輪郭。陽に透けて白く輝く肌。オレ達に向けられる、遠い眼差し。フェンスを掴む、小さな手。
……そこにいる気配。
優しくしてやった事など、一度も無かった。
笑ってやった覚えも無い。
だから、成長したあいつが、オレの前で緊張するのは……多分、自業自得なんだろう。
いつしか、屈託のない笑顔は見られなくなり、まっすぐ視線を向けられる事もなくなったけど。それを淋しく思うのは、きっと自分勝手なんだろう。
都内の大学に進学して、一人暮らしを始めてからは、オレは殆ど実家に帰らなかった。
だからその4年間、多分一度も、そいつの顔を見ていない。
そいつも中学は、祖父の経営する群馬の学校に通ってたから、尚更会う機会はなかったと思う。
会っておけばよかった。
11歳から15歳の間に……女がどんな風に変わるのか。多分、オレは、分かってなかった。
三橋廉。
それがオレの婚約者の名前だ。
オレ達が再会したのは、廉が中学3年生の5月。
オレは、大学を首席で卒業して実家に戻り、親父の秘書として経営を学びながら、仕事を手伝う事になった。
その挨拶回りの一環として、群馬の三橋本家を訪れたのだ。
廉は不在だった。
「学校の野球部の応援に行ったんですよ」
廉の伯母が、すまなそうに言った。
今、群馬では、中学軟式野球の春季大会の開催中で、三橋家の経営する三星学園中学野球部も、それに出場しているという。
オレは小学校でリトルリーグ、中学ではリトルシニアに入っていたから、結局軟式野球を経験していない。
だから軟式野球の大会には詳しくなかったけれど……でも、廉が野球に興味を持ち、試合を見に行ったと聞いて、好ましく感じた。
オレ達の練習風景を、無心に眺めていたのを思い出す。
高く青い空。土ぼこりの舞うグラウンド。草むらに転がるボール。
フェンスの向こうの小さな気配――。
大学で野球をしなかったオレにとって、野球の思い出といえば、そんな光景だ。
だから彼女にとっても、そうなんだろうと思っていた。
彼女の野球にはオレがいる。そう信じて疑わなかった。
廉が、猫のような目をした投手と、一緒に帰って来るまでは。
(続く)
[*前へ][次へ#]
[戻る]
無料HPエムペ!