小説 3
鬼暮らし・1 (鬼隠しの続編・阿部視点)
※この話は鬼隠しの続編になります。
冬山の斜面を、鹿がジグザグに駆け上る。雪を蹴り、白い息を吐いて、追手から必死に逃げている。
それを追うのは、真っ黒な男。素早く斜面を駆け上がり、あっという間に追いついて、逃げる鹿の角を掴んだ。
銃も刃物も使うことなく、腕1本で鹿を狩る様子は、とても人間の技ではない。
それもそのハズで、男の正体は鬼だった。
かつて、多禍也と呼ばれた黒鬼だ。それを「隆也」と変えたのは鬼自身で、その名は鬼だけが知っていた。
仲間がいたこともあったが、1人で暮らして来た年月の方が多い。狩りをして畑を耕し、人に化けて小金を稼ぎ、山々を転々として生きて来た。
そんな鬼に、連れ合いが出来たのは半年ほど前のことだった。
町の大きな屋敷からさらって来た少年。名前を廉という。
両親を亡くし、引き取られた祖父の屋敷で孤独に暮らしていた廉は、自分から望んで鬼の元にいるようだ。
山の暮らしは不便だろうに、文句を言うこともない。
鬼の拓いた畑を手伝い、川で水汲みや洗濯を行い、鬼の狩った魚や獣を料理する。
昼間は鬼の買い与えた本を読み、鬼から計算を習うこともある。
そして、時々鬼と白い野球のボールを投げ合う。
そんなひと時が何より楽しいのだそうで、廉はいつも鬼に笑顔を見せていた。
鬼自身も、廉と2人で暮らす生活を楽しんでいた。
廃坑になった鉱山に長く住みついていた彼だったが、廉と一緒になってすぐ、山から木を切り倒して丸太小屋を建てた。
鬼の力があれば、それは簡単な事だった。
木を切り倒すのも、斧一振り。切り倒した木々だって、たった1人で何本も運べる。
囲炉裏を作り、獣の毛皮を敷布にすれば、冬でも寒いことはない。
狩った獣を売る事もあるが、長い年月に溜め込んだ金もあり、米に不自由することもない。
廉を健やかに育て、慈しみ守る事。寄り添って愛す事。
鬼の願いはただそれだけで、そしてそれは、今のところ十分叶えられていた。
川魚をさばくのには慣れて来た廉だったが、まだ獣をさばくのには不慣れだろう。
鬼はそう思い、狩ったばかりの鹿を川岸でさばいた。
道具は、使い込まれた小刀が1本。
古ぼけた粗末な柄をしてはいるが、よく手入れされ、研がれて、刃こぼれ1つ見当たらない。
その小刀を器用に操り、鬼は大きな鹿1頭を、慣れた様子で肉にした。
内蔵と骨は、また山に投げ込んでおいた。
獣が食べるかも知れないし、土に還るかも知れない。どちらでもいい。鬼にも廉にも、関係のないことだった。
肉と毛皮を持って丸太小屋に戻ると、廉が外に出て雪の中にうずくまり、何かを夢中で作っていた。
「何してんだ?」
声を掛けるとパッと立ち上がり、廉が無邪気な笑みを見せる。
「お帰、りー」
シャクシャクと音を立て、廉が鬼の元に駆けて来る。その手には雪玉が握られていた。
「随分作ったな。雪合戦でもやんのか?」
鬼の質問に、廉は「うんっ」と1つうなずく。
子供らしい仕草が何とも可愛らしくて、鬼の口元に笑みが浮かんだ。
頭を撫でてやりたいところだが、あいにく両手は肉と毛皮とで塞がっている。
「分かった、後でな」
優しく言うと、廉は素直に「うん」とうなずき、鬼のために小屋の入り口を開けてくれた。
本当に、気が付く良い子だと思う。
可愛くて素直で、柔らかくて温かい。もし今、廉が「家に帰りたい」と言ったとしても、もうあっさり「そうか」とは言えない。
手放せない。
荷物を下ろし、手を洗い清めてから、鬼は廉に向かって「ほら、来い」と両腕を差し広げた。
廉は嬉しそうに頬を染め、誘われるまま鬼に抱き付いて来た。
ふわりと香る甘いニオイに、鬼の胸が熱くなる。
まだまだ幼く軽い体を左腕1本で抱き上げると、廉がふひっと照れたように笑って、鬼の頬に口接けた。
廉の作った雪玉でたっぷりと遊んだ後、鬼は廉を抱き上げ、素晴らしい速さで山を駆けて、奥地にある露天風呂に行った。
石や岩で囲われ、枯葉や木の枝などが浮かんではいるが、少し熱めのいい温泉だった。
鬼にとって、そう熱いとは感じない湯温だが、廉の為に周りの雪を湯に落とし、少しぬるめに作ってやる。
冬場に湯が使えるのは便利でいいが、山の動物たちを呼びやすくもあるので、この近くに小屋を建てようとは思わなかった。
けれど多少遠くても、鬼の足にかかれば大した距離でもない。
洗濯するのに湯が欲しいなら、いくらでも水瓶を抱えて往復してやるし。今のように入浴しに来るのだって、面倒ということもない。
少年の白い裸や柔らかな髪を、高価な石鹸で丁寧に洗ってやるというのも、鬼の楽しみの1つだった。
山の温泉から戻った後は、2人で夕飯を作って食べた。
自炊に慣れているとはいえ、そう気取ったものが作れるという訳でもない。今日は、鹿肉のあぶり焼きと、畑で採れた野菜の煮つけで……でも、とても美味しかった。
鹿肉には、馬肉と同じく寄生虫がまずいない。体温が高いせいかも知れないが、その辺のことはよく知らない。
鬼が知っているのは、長い年月に体得した情報だけで、でも山で生きていくのには、それだけで十分だった。
食べられるキノコも、よく知っている。
薬草も、それから食べられる木の実も、木の根も。
水田を作るほどの熱意はないので、米だけはどうしても買わねばならなかったが、それ以外の作物は、大抵自分で賄えた。
ガツガツと大口を開けて、廉が肉や野菜を食べる。
「美味ぇか?」
鬼が訪ねると、少年は「うん」とうなずいて、ニカッと笑う。
その無邪気な笑みに救われる思いで、鬼も箸を取り、食事を始めた。
夏も、秋も、冬も――彼らは2人で幸せだった。
(続く)
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