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小説 3
追憶のカウントダウン・7
 気まずい沈黙を破ったのは、オレの腹の音だった。
 ぐう、と鳴った微かな音に、三橋の表情がふと緩んだ。
「あ、べ君、ゴハン……」
「ああ。大至急って依頼だったし、なるべく早く帰りたかったから、ほとんど休憩も取ってねーんだ」
 正直に言うと、三橋がソファからふらっと立ち上がった。
「何か作る、から、阿部君は先にお風呂、行って」

 三橋の目線が一瞬オレの胸元に――口紅の跡に向けられ、そしてすぐに逸らされる。
 見てんのも臭うのも不愉快なんだろう。オレは素直に「ああ」と応じ、スーツを脱いでネクタイをほどいた。
 汚れ物を洗濯機に入れようとして、一瞬迷う。
 口紅の跡って、普通の洗剤で落ちるのか? それとも下手に触んねーで、クリーニング持ってった方がいーだろうか?
 クリーニング屋がどこにあんのかも知らねぇ。オレが知ってることは割と少ねぇ。
 今まで色んな事、三橋に頼りっぱなしだった。

 風呂掃除当番も、そういやずっとサボったままだ。なのに、いつもよりピカピカに磨かれてて、それもここを出てく前準備なのかと思ったら悲しかった。
 行かないでくれって、頼みを口にするのは許されんのかな?
 もっかいチャンスをくれねーか、って。
 図々しいのは分かってるけど、やり直してぇって。気持ちを伝えんのも迷惑だろうか?

 ……香水なんて、気にしたこともなかった。
 あんくらいの接触でニオイつけられるんなら、かなり前から知られてた可能性もある。
 やたらとスーツに触ってくるような女だし、それはコーヒー1杯に応じる前から、ずっと続いてたことだった。
 浮気する前から、誤解されてたとしたらどうなんだ? 考えただけで、胸が冷える。
 オレ達がおかしくなり始めたのはいつだった?
 勿論、決定的にしちまったのはオレだし、誤解を真実にしたのもオレだし。罪悪感から八つ当たりして、二重に傷付けたのもオレだけど。
 もしかして、もっと前に引き返すチャンスはあったんじゃねーのか?


 風呂から上がったら、カレーのニオイと一緒に何か、しょうゆっぽいニオイが漂って来た。
 ぐーっ、と腹が鳴る。
 のんびり身支度する気にもなれねーで、濡れ髪を拭きながらダイニングに戻ると、三橋がエプロンしてコンロの前に立っていた。
 三橋はちらっとオレを見て、気まずそうに目線を下げた。
 そんな顔させてんのはオレ自身なのに、グサッときた。けど、怯まずに思い切って声を掛ける。
「美味そうな匂いだな、何?」

「カレーぞう、すい。残り物、で、ごめん」
「いや……」
 三橋のぼそぼそ声を聞きながら、そっと近寄って手元を覗く。土鍋がぐつぐつ音を立ててて、ああ、鍋の季節だなと思う。
 そういやカセットコンロは……と思い出して、スゲー喪失感に襲われた。
 このダイニングで、このテーブルで、2人で鍋囲んだのは随分昔のことみてーだ。
 単に季節がめぐっただけなのに、去年まで確かにあった団らんまで、壊しちまったと自覚する。

 三橋に、そんな感傷はねーんだろうか?
 その土鍋を2人で使うのも、もしかしてこれで最後か?
 そう思った時――。

「熱っ!」
 三橋が悲鳴を上げ、土鍋のふたを取り落した。
 ガシャン! 鈍い音と共に、落ちたふたが真っ二つに割れる。
「おい、手っ」
 ヤケドしてねーかと手を伸ばしたけど、三橋はふたの方が気になるらしい。信じらんねーみたいな顔で床にぺたんと座り込み、割れたふたを拾ってる。けどそんなモンより、オレは三橋の手の方が気になった。
「いーから、早く冷やせ!」
 手首を握って強引に立たせると、持ってたふたがゴトンと落ちた。それ以上は割れなかったけど、三橋はビクッと身を震わせた。

 ジャッと蛇口から水を出し、その下に三橋の手を引いて冷やす。
 指先がわずかに赤い。
 どんくらい冷やせばよかったんかな? じんじんすんのがなくなるまでって昔習ったような気がするけど。本人の自己申告しかねーのかな?
 三橋に任せると、「もういい」とか「もう平気」とか、考えなしに言いそうで怖ぇ。
「ちょっと冷やしとけよ」
 オレは三橋にそう言って、コンロの火を止め、割れたふたの破片を拾った。
 ただ、どこに捨てりゃいーのかも分かんねぇから、シンクの中にゴチャッと入れる。それを見て――三橋が小さくしゃくりあげた。
 ぼたぼたと涙がこぼれんのを見て、ギョッとする。

「泣くなよ……」
 流水から外された三橋の手を、もっかい掴んで蛇口下に戻す。
「また新しいの買えばいーだろ」
 ちょっと迷ってそう言ったけど、三橋は緩く首を振った。そういう問題じゃないんだ、と、オレも何となく分かってた。

 気まずい沈黙。
 ジャージャーと水音が響いて、オレと三橋の手を冷ます。
 オレとシンクとに挟まれ、居心地悪そうに立つ三橋は、やっぱこうして見ても痩せたと思う。
 ふわっと香る甘いニオイは、香水じゃなくて三橋のニオイで。
 キスしたらもっと甘く香ることとか、目の前の白い肌の吸い付くような感触とか、どうしようもなく思い出されて、息が詰まった。

 三橋はどう思ったんだろう?
「も、もう、大丈夫、だよ」
 そう言われたのは、1分も経たねぇ内だ。
 オレに掴まれた手はそのままに、真っ白い顔が、ぎこちなくこっちに向けられる。
「オレ、男、だし。平気、だよ」
 それはヤケドのことを言ってんのか、土鍋のことなのか、それとも別のことなのか分かんなかった。
 感情を抑えたような声。
 けど、ぼたぼた泣きながら言われたって、ちっとも平気そうに見えねぇ。

「平気、だ」
 って。繰り返し言われるセリフは、まるで三橋が自分自身に信じ込ませようとしてるみてーだった。
 ギシッと音を立てて胸が軋む。
「三橋っ」
 夢中で抱き寄せ、唇を掠めるように奪う。逃げようとすんのをギュッと抱き締めると、三橋が「ごめん」つって諦めたように、オレの肩に顔を伏せた。
 なんで謝られんのか分かんなかった。
 けど。

「今、だけ、肩、貸して、くれ」

 ぶつ切りの他人行儀なセリフは、「もうお前なんて頼らねぇ」って言ってる気がして、痛かった。

(続く)

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