小説 3
追憶のカウントダウン・4
さすがに3日連続で外食して帰る気にはなれなかった。
水曜日。
7時過ぎに帰宅し玄関を開けると、肉汁のニオイがふわっとオレを包んで、ぐーっと腹が鳴った。
久々の感覚に失くした温もりを思い出し、切なくてハッと息を呑む。
無茶苦茶気まずかったけど、今更逃げることもできねーで、オレはダイニングに姿を見せた。
コンロの前でフライパンを握ってた三橋が、ギョッとしたようにオレを見た。
薄い唇が小さくわななき、すぐにへの字に結ばれる。
『お帰りー』
嬉しそうにオレを出迎える、無邪気な笑顔はどこにもねぇ。
『今日は、ハンバーグだ、よっ』
見りゃ分かることを得意げに教えられ、「うまそーだな」ってフライパンを覗くこともできねぇ。
自分が何を壊し、何を失ったのか、まざまざと見せられた気がした。
じゅうじゅうと肉の焼ける音だけが、やかましく響く。
オレはゆっくりとネクタイを緩めた。
いつもならさっさと自分の部屋に籠るところを、そうしなかったのは勇気がねーからだ。
一度ここから出てっちまったら、しばらく戻って来れねぇ気がした。
脱いだスーツの上着をダイニングチェアの背もたれにかけ、ネクタイをしゅっと外してポケットに入れる。
「なんか、手伝う事、あるか?」
怒鳴り声以外で話しかけたの、久々な気がする。
三橋にやっぱり笑顔はねーけど。
フライパンの方向いたまま小さく首を振られ、こぶしで頬をぬぐってんの見せられると、やっぱさすがに胸が軋んだ。
三橋に笑って貰えねーのが哀しいのか、笑顔を失くさせちまったこと後悔してんのか、会話がねーのが辛いのか、自分でも訳分かんねぇ。
もっと早く、こうなる前に、どうにかすりゃ良かったのか?
……何を?
こっちをちらっとも振り向かねぇ、三橋の背中から目を逸らす。そしたらカレンダーが目に入って、月曜と火曜の丸の上にバツが描かれてて、ドキッとした。
残った丸は4つ。
それが多いのか少ねぇのか、どう思っていいのかもよく分かんなかった。
1歩も動けねーで、バカみてーに立ち尽くしてる間に、三橋は淡々とテーブルに料理を並べて行った。
草履みてーにデカいハンバーグを見て、ああ、いつもの三橋の料理だな、と思う。
味噌汁が湯で溶かすだけのインスタントに変わってて、けど文句言う筋合いもなくて、オレは黙ってイスに座った。
目玉焼きの乗せられたデカいハンバーグを1口食べると、いつもの手造りソースの味がして泣きそうになった。
女んちで食わされた、市販のおろしドレッシングとは違う。オレの好きな味だった。
会話もねーまま黙々と食ってから、「うまそう」が無かったことを思い出す。
三橋も忘れてたんだろうか? テーブルの向かい側をちらっと見ると、目が合ってパッと逸らされた。
一瞬湧き起りかけた苛立ちが、爆発する前に勢いを失くす。
言いたい事あるならハッキリ言え、と、昔のオレなら言えたのに。
「お前のハンバーグ、やっぱウメーな」
思い切って話しかけると、三橋はぴくりと肩を震わせ、箸を持つ手を不自然に止めた。
数秒の沈黙。
「そ……」
三橋はそう言ったっきり、言葉を詰まらせてうつむいた。
そうかな、と言おうとしたのか、そんなことない、と否定しようとしたのか、それとも別の何かなんか分かんなかった。
「好きな味だ」
迷ったけどそう言ったら、三橋の唇がへの字に歪んだ。
三橋のメシを食わなくなったのは、もうずっと前からだったような気がしてたけど、考えてみたら浮気した期間だって、そう大して長ぇもんじゃねーし。ほんの数ヶ月ってとこだろう。
三橋の顔が見られなくなって、声聞くのも辛くなって、会わせる顔がなくて、罪悪感を誤魔化すように怒鳴り散らして傷付けて来たけど。
もっと早くに向き合えばよかった。
こんな風に泣くの、見たくなかった。
「うっ……ふえっ」
箸を右手に持ったまま、三橋はぼたぼたと涙をこぼし、一度大きくしゃくり上げた。
けど、オレに慰めるような隙は与えてくれなかった。
三橋は泣きながらメシを食い、ハンバーグを頬張った。だからオレもそれ以上は何も言えねーで、黙って食うしかできなかった。
美味い物を美味いって伝えるとか、そういやずっと怠ってきた気がする。
コイツの手料理を毎日食べさせて貰えんのは、ホントはスゲー特別なことだったハズなのに。
夜、また裸で添い寝をする時に。つい昔の癖で手を伸ばしそうになって、抑えんのに苦労した。
触っていーのかどうかも分かんねぇ
性的接触は禁止、とか、三橋から渡された紙には書いてたけど。頭を撫でたり、肩に触れたりするんもダメなんかな?
三橋はすぐにオレに背中を向けてて。今日は鼻をすする音も、聞こえてはこなかった。
会話がねぇまま、どんくらい経っただろう。
目を閉じることもできねーで、じっと目の前の白いうなじを見つめてると、三橋がぽつりと訊いて来た。
「阿部君。明日……なに、食べ、る?」
いきなり訊かれてもとっさには思いつかなくて、けど「何でもいい」とか言いたくなくて、オレは一瞬考えた。
「……カレー」
って。ふと思いついたままに口に出すと、「わ、かった」って言われてホッとする。
カレー、三橋好きだったよな、と思い出す。
『でっかいニンジン、好きだ』
って。笑って食ってんのをぼうっと眺めたあの夏の日から、もう何年経ったんだろう?
付き合い始めたのは、高3になってからだったけど。オレはホントはあの夏の頃から、三橋のコトが好きだった。
じわっと胸が痛む。
いつもの罪悪感か、忘れかけてた愛情を思い出したからか、それとも単に懐かしいだけなのか、自分でもよく分かんねぇ。
何つって声をかけりゃいーのかも分かんねぇ。
「三橋……」
ぼそりと名を呼ぶと、目の前の体がびくんと跳ねた。
けど、オレが言葉を続ける前に、三橋が冷めた声で言った。
「あと、3日、だね」
カレンダーの丸が、また1個消えた。
(続く)
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