小説 3
バースディ・フール・2
オレの母親は専業主婦で、たまに突発的にケーキやクッキーを焼いてくれたりする人だった。家に帰って玄関を開けたら甘い匂いがして……なんて事もしょっちゅうだったし、慣れていた。
だから、カノジョを連れて玄関を開け、ふわっと甘い匂いがしたときだって、ああケーキか、とは思ったけど、驚いたりはしなかった。
「ただいまー」
「おじゃましまーす」
一応声を掛けるけど、キッチンからは返事がなくて、代わりにカチャカチャと騒がしい音が響いてる。
見れば三橋がボウルを抱え、一心不乱に泡だて器を使っていた。
生クリーム? 鼻の頭に白いのが飛んでんの、気付いてねー訳じゃねーだろうに、夢中で中身を泡立ててる。
当然、オレ達のことも見えてねーんだろうな。こいつの集中力はホントスゲェ。
くくく、と笑いながら、オレは三橋に近付いて、その鼻の白いのを指ですくった。
「何かついてんぞ」
顔を上げた三橋の目の前で、その指をぺろっと舐めてやる。
「うお、あ、阿部君っ!」
びっくりした、と三橋が笑って……オレの後ろにいるカノジョを見て、ぽかんと口を開けた。
「あ、紹介すんな。これ、オレのカノジョ」
オレがそう言うと、カノジョは軽く頭を下げて、「こんにちは」と挨拶した。
でっかい目も口も開けたまま、茫然としていた三橋の手から、ボウルと泡だて器が滑り落ちた。
ガランン! スチール製のボウルが、大きな音を立てた。泡だて器は音もなく転がり、床に生クリームを飛び散らせてる。
「あーあ」
何やってんだ、と呟きながら、オレはそれらを拾い上げた。
ボウルはともかく、泡だて器は洗わねーと使えねーし。
「お前、ケーキなんか焼けるんだ。柄じゃねーなー、どっちかってっと食い専みてーなイメージだけどな」
水でざっと泡だて器を洗い、ボウルに放り込んで、三橋の目の前に置いてやる。
「三橋?」
三橋がはっと息を呑み、びくんと跳ねた。そして今度は、キョドキョドと視線を揺らし、ひどくどもりながら訊いて来た。
「あ、べ、くん、か、かの、じょ、て、言……」
ホントにどもりがヒドかったけど、聞き取れたから「ああ」と答えた。
すると、三橋が――絶望に満ちた顔をした。
こいつと3年間バッテリーを組んで、数えきれないくらい試合して。勝った試合も負けた試合もいっぱいあって、泣いたり笑ったりもいっぱいしたけれど。
9回の表で5点入れられた時だって、延長12回に満塁ホームラン打たれた時だって、こんな顔は……。
こんな、絶望は、見たことがなかった。
沈黙を破ったのは、後ろに立っていたカノジョだった。
「阿部くーん、ねぇ、お部屋行こう?」
聞いた事もねぇような甘えた声を出して、カノジョはオレの肘に腕を絡め、ぐいっと胸を押し付けた。
そんなこと、今までしたこともなかったから驚いた。つか、まだ、今日が初デートだ。初デートでそんなこと、普通するもんか?
はぁ? と思って振り向くと、カノジョは何故かオレじゃなく、三橋の顔をじっと見ていた。敵意を込めて睨んでた。
やがて、ギクシャクと三橋が動いた。
「わ、すれて、た。オレ、田、島君と、やく、そく。お、遅れ、ちゃう」
そう言って、三橋は、エプロンも外さねーでそのまま外に出て行った。
「おい、待てよ」
とっさに呼び止めるが三橋は止まらず、代わりにカノジョが、ぐいっとオレの腕を引いた。
何でそうなったのか、分からなかった。
ただ、三橋のセリフが嘘なんだろうとは察しがついた。
オーブンの中では甘い匂いをさせながら、ケーキがまだ焼かれてる。
勝手にオーブンを覗き込んで、カノジョが言った。
「あーあ、このスポンジ、失敗だわ」
すげぇカンにさわる言い方だった。
「はあ?」
オレの不機嫌に気付いてもいねーのか、カノジョは皮肉げに口元を歪めて、「失敗してる」ともっかい言った。
「初心者がやりがちな失敗。生地の混ぜ過ぎ、っていうか、レシピの注意書きちゃんと読んでないっていうか。大体、どうして作ろうとか思っちゃったのかな、買って来た方が早いし美味しいのにね、ケーキなんてさ」
その言い方にムカつきながら、カノジョの言葉を反芻する。
どうして作ろうと思ったか。
ケーキ。
ケーキ……?
「あ、今日!」
そこまで考えて、ようやく気付いた。今日は三橋の誕生日だって。
これ、あいつが自分で作った、自分のバースデーケーキなんだって。
ホントはオレが……用意してやんなきゃいけなかったんだって。
ピー、と電子音が鳴って、オーブンの過熱が止まった。
失敗だとカノジョが言った通り、スポンジは全然膨らんでなかった。
でもケーキだ。
「触っちゃ悪いし、置いとこうよ。今度、失敗じゃないケーキ、焼いて来てあげよっか?」
さっきの甘い声をきれいに消して、カノジョがいつもの口調で言った。
こういう皮肉っぽいとこ、気が合うと思ったハズなのに……何でかな、今はムカついて仕方ねぇ。
「お前さ、さっきと態度違い過ぎじゃね?」
厭味ったらしく言ってやると、カノジョは悪びれもしねーでこう言った。
「だってさ、あの子、絶対阿部君のこと好きだもん。男同士なのに変なのって思うけどさ、例え男でも、カレシに色目使われるのイヤだし。あたし、ライバルは徹底的につぶす主義だから」
そんな主義はいらねーと本気で思った。
こういうの、嬉しく思う奴もいんのかも知んねーけど、ドン引きだった。
それより三橋の方が気になった。あの、初めて見た絶望の方が。
「出て行け! 帰れ!」
オレが怒鳴ったのは、勿論のことだ。
当然だけど、その場で別れた。
カノジョだって……オレに対して、じゃなくて「自分のカレシ」に対して執着してただけだったみてーだし。
つか、初デートでこれって、何の呪いかって感じだ。
三橋の呪いか?
いや……天罰か。
オレは女が帰った後、三橋のケーキを取り出して、見よう見まねで生クリームを飾り付けた。
失敗ケーキに、ぶっさいくな飾りつけ。
これで三橋が笑ってくれるなら……それでいいのに、と思ってた。
だけど三橋は、その夜、帰って来なかった。
(続く)
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