小説 1−8
キミのいない空・4
プール下っていう場所柄のせいか、冬の部室はすごく寒い。風がないだけ外よりマシだって言われるけど、足元から底冷えするくらい、しんと寒い。
靴を脱いで畳の上に立つと、靴下越しに冷たさが浸みる。
寒さと緊張とでかくかくと震えながら、オレは目の前の阿部君を見上げた。
話って何だろう?
阿部君はオレの震える様子を見て、黙ってストーブを点けてくれた。そんなささいな優しさが、信じらんないくらい嬉しくて、でも逆に緊張する。
コートにマフラー巻いたままだっていうのに、なかなか震えが止まらなかった。
以前なら「寒いね」って何の気負いもなく言えたと思うのに、口を開く勇気がない。
「ストーブありがとう」? 「この間はごめん」? 言わなきゃいけないこといっぱいあるのに、舌の根が凍っちゃって動かない。
名前を呼ぶこともできなかった。
そんな中、重い沈黙を破ったのは、阿部君だった。
「明日、群馬に行く」
群馬に。自分が望んだことなのに、その言葉が重く響く。
「……うん」
目線を下げてうなずくと、阿部君はごそごそとカバンを探り、1冊のノートを取り出した。
「お前の今後の練習メニュー、コーチやモモカンと一緒に詰めたから。それから、オレの気になったトコ、今後気を付けて貰いてぇトコ、全部コレに書いてある。勝手に投げ込んだり、勝手にメニュー増やしたりしねーで、これを田島とよく読んで頑張れ」
ぐいっとノートを突き出され、ためらいながら両手で受け取る。水色の表紙の普通のノートだ。
今後の……練習メニュー? 気になった、トコ?
恐る恐るノートをめくると、見慣れた阿部君の手書きの文字で、色んな項目がびっしりと書かれてた。
試合ごとの配球、体調と投球の関連性、球種ごとのコントロールの精度……。表やグラフ、解説図なんかも混じってて、それも手書きで、ドキッとする。
一番最初を見ると三星戦のことが載ってて、随分前から記録してくれてたんだと分かった。
「こ、れ……」
視線を上げると、阿部君はほんの少し照れたみたいに耳を赤くして、「家で読めよ」ってぼそっと言った。
「……うん」
うなずきながら、唇をぎゅっと引き結ぶ。泣く資格なんかないのに、目の前が滲んで阿部君の顔がよく見えない。
「ずっとお前と、野球したかった」
ぼそりと呟かれる本音に、胸が痛い。
オレも。オレも阿部君と、ずっと野球したい。阿部君にオレの球、捕って貰いたい。
「……ごめん」
渡されたノートを抱きしめながら謝って、我慢しきれずに涙をこぼす。
阿部君からの返事はない。
こんなにもオレのこと考えてくれてた人の手を、オレ、振り払っちゃったんだ、な。実感すると、足元が震えた。
ひくっと肩が嗚咽に揺れる。
阿部君の気配が動く。
もう行っちゃうの? 慌ててパッと顔を上げた時――目の前に黒いコートの影が立って、ドキッとした。
強い力で抱き締められて、また更にドキッとした。
お互いコート着たままで、こんなに密着しても、体温は感じない。でも、冷えた耳元に暖かい吐息がかかって、身動きもできなかった。
「三橋……好きだ」
耳元に、小さな声で告げられる言葉。
「ずっと好きだった。側にいたかった。……ごめんな」
囁くような小さな謝罪。
謝んなきゃいけないのはオレなのに、何の言葉も口に出せない。何の単語も浮かばない。
好き、って。どういう意味の好き?
瞬きも呼吸も忘れて固まってると、オレを抱き締めてた腕が緩んだ。
コートに守られてるのに、離れるとひどく寒くなって、とっさに彼の腕を掴む。
群馬に行けって、お膳立てしたのは自分なのに。今更行かないで欲しいって思うなんて、どんだけ自分勝手なんだろう?
「……あべくん」
声を殺し、吐息だけで名前を呼ぶと、すっと顔を寄せられた。
柔らかいものが唇に触れて、一瞬の温もりを残して離れてく。
キスだ、と気付いた時には、もう阿部君の姿は目の前になくて――部室のドアが、ガチャンと音を立てて閉まった。
12月のプール下は、しんしんと寒い。
部室にはオレ以外誰もいなくて、それがますます寒々しくて、立ってらんないくらい震えた。
「阿部君……」
凍えた畳の上にヒザを突き、彼の名前を呆然と呼ぶ。
阿部君の点けてくれたストーブも、何でかちっとも暖かく感じなくて、ひとりぼっちで途方に暮れた。
どのくらい、部室でぼうっと過ごしただろう。コートのポケットに入れてたケータイがムームーと鳴って、メールの着信をオレに知らせた。
のろのろと顔を上げ、手を動かしてケータイを探る。
画面を見ると、修ちゃんからの着信で……。
――阿部、いつ来るって?――
短い文面を見て、ハッとした。
そうか、阿部君は三星に行くだけなんだから、永遠にお別れって訳じゃないんだな。冬休みには、じーちゃんにも来いって言われてるし。群馬に行けば、阿部君に会える。
冬休みまで、もうそんな長くないし。
もし会えなくても、修ちゃんから阿部君の話を聞くことだってできるんだ。
阿部君から渡されたノートを抱き締め、滲む目元を手でぬぐう。
次に会った時、「頑張ってるな」って彼に言って貰えるよう、まずはノートを家でじっくり読もうと思った。
(続く)
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