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 最後に案内されたのは、一番奥にある大広間。そこに、あの壁画はあった。

「これが、この棟のメインになります」

 学芸員の後ろに聳え立つものに、アーベルは一瞬で心を奪われた。

 『ユダの福音書』
 高さは10メートルを超え、レオネッロの傑作と名高い超大作だ。
 そこに描かれたのは神子をめぐる物語。
 当時の権力者によって、神子は民を惑わす邪教の徒と恐れられ処刑されてしまう。磔にされた神子の亡骸を、彼の弟子達はそっと埋葬する。
 ユダの福音書には、脇腹や手足から血を流す青年が描かれていた。これが神子だ。彼は弟子の1人に抱えられ固く目を閉じている。その顔に生気はない。だが彼らの頭上には天上の世界が広がっていた。虹色の光に包まれた雲の上で、神子が微笑み下界を見下ろしている。彼はこの後復活し、この世に奇跡を起こす。
 神子の周りには弟子達がいた。ユダも。

 神子の身を金で売ったという、歴史に残る裏切り者ユダ。だがその解釈は、学者によって異なっている。

「処刑されたことにより、神子は真に神になったという論もあります」

 そう説明する学芸員の話を、ジュリオは熱心に、ユリアンは気持ち半分で聴いているようだった。
 欠伸を噛み殺しているユリアンに苦笑して、アーベルは学芸員の話に耳を傾けた。

「ユダは信頼を裏切り、銀貨数枚のためにその行いをしました」

 壁画に描かれたユダは、確かにコインを握り締めている。だがその足元には、数十もの銀貨が落ちていた。気付かぬはずはないのに、彼は拾う気配を見せない。その瞳は遠い空、神子が描かれた天上に向けられていた。

「オリエンタルで発見された福音書によると、ユダは神子の指示により動いたとされ、彼は弟子の中で一番神子の教えを理解していたと書かれてありました。要するに、ユダは裏切り者ではなかった。しかし、そう歴史に刻まれてしまった。もちろん、本当のことは分かりませんが、これがレオネッロに、無限の想像を抱かせたのは確かなのです」

 初耳だった。レオネッロは、何を考えこの絵を描いたのか。
 ユダの周りには他の弟子達が並んでいるが、彼らの瞳はそれぞれが別のものを見ていた。ある者は地に伏す主の亡骸を見、ある者は悲しみに目を伏せ、ある者は裏切り者であるユダを睨みつける。ただ1人ユダだけが、天上を見つめているのだ。

(見えているんだ、彼には――)

 ユダには、天上でこちらを見守る主の姿が見えている。そう、アーベルは思った。

「この絵を、レオネッロは田舎の教会に隠します。当時の考え方では、レオネッロの行いは理解されず、命を狙われる危険性があった。裏切り者ユダを称えるような行いを、当時の聖人会が許すことはなかったでしょう」

 多くの国で信仰されている聖教。信者達の最大の母体となったのが聖人会だ。彼らは規律を作り神子の教えを人々に広めた。だがそれは、時として異教の徒に牙を剥く。国に深く関わる信仰は、国政や軍事にも大きく影響するのだ。異教徒や聖人会の思想に意を唱えるものは、容赦なく攻撃された。

「危険を冒しても、彼は筆を止められなかった。それが時と国を飛び越えて、今、私達の目の前にあるのです」

 時代と共に滅びた国、文明、思想があった。
 アーベルは頭の片隅に、あの赤目の黒蛇を思い浮かべる。もし、ラバランがヒンメルに勝っていたら、あの蛇こそが世界の神になっていた。

「正義は勝つ、か……」

 実際はその逆。勝った者が正義となる。あとは都合の良いように全てを塗り替える。

「アーベル?」

 ユリアンが不思議そうにアーベルを見上げるが、アーベルは誤魔化すように苦笑するだけだ。
 学芸員が笑みを浮かべ、ここにいる4人を見渡した。

「解釈によって、歴史も絵も、見方が変わるもの。この絵は、そんな矛盾を説いているのかもしれません」

「奥が深いのですね、芸術というものは……」

 ジュリオがほうっと息を吐いた。それに、初老の学芸員は目を細める。

「ただ、歴史を考えずともこの絵は素晴らしい。人々の苦悩や悲しみ、そして愛が画面から溢れ出てくる。私は嬉しいです、こんな素晴らしい命に出会えて」

 彼は膝を折り車椅子に座るジュリオ目線に合わせると、恭しく頭を垂れた。

「貴方と血と国を同じくする画家が、これを生み出したのです。感謝します、殿下。貴方の持つ歴史に、文化に、心から敬意を表します」

「そんな……」

 ジュリオは慌てたように、学芸員を立たせ、ありがとうと言って笑う。ユリアンがそれに複雑な表情を浮かべたのを、アーベルだけは見逃さなかった。
 そして次に部屋の隅で控えていたヨハンに視線を移す。彼はじっと上を睨みつけていた。そこにある聖ユダの瞳を、食い入るように。



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