生まれ出づる生命への讃歌を
「聞いてくれ、子供が産まれるんだ!」
黒曜石の瞳を少年のように煌めかせ、揚々と親友がそう告げたのは連日の会議に収束の兆しが見え、日々の落ち着きを取り戻してきた頃のことだった。
長い廊下の天窓から注ぐ夕日が一帯を橙に染めて、屈託のない笑みが余計にまぶしく感じられたことを覚えている。
「男の子か女の子かはまだわからないんだが、それでもあいつの子だ。きっとかわいいに決まっている。穏やかで、聡明な子になるだろうな……ああ、まだ生まれるまで日はあるんだが、もう楽しみと不安とで落ち着かなくて……」
知性をたたえて、いつもならば夜のような静かな光を放っているその目は、彼の話す言葉の通りどこか落ち着かない様子で新たな命の誕生を前にした希望や不安を如実に物語っていた。
それでも、彼を奮わす感情は喜びのものが大きいのだろう。こんなにはしゃいだ様子の友の姿は、もしかしたらはじめて見るかもしれない。橙に縁取られた彼はやけに饒舌で、俺はゆっくりと目を細めてその言葉に耳を傾けた。
「わかったのは少し前のことだったんだ。だが、最近は隣国との和平会議だなんだと忙しかっただろう。お前に少しでも早く伝えたいという思いはあったのだが、落ち着いてからの方がよいと思ってな。まあ、なんだ。ルビアも久しぶりにお前に会いたがっていたし、どうだ。報告も兼ねて久しぶりに家にこないか? もちろん、お前が多忙なことは俺が一番よくわかっている。だから、少しの時間でもいいんだ。あいつに顔を見せてやってくれ。喜ぶと思う」
友の言葉はとてもまっすぐで、純粋な思いによって放たれているのだろう。彼も、その妻であるルビアも自分にとって掛け替えのない存在だ。
はじめて対等に語り合えた友達と、はじめて心から守りたいと思った女性。その二人がこうして一緒になって、新たな命を授かったのだ。それは当然、祝福しないわけにはいかない。
かつてルビアへの淡い感情は、確かな熱を帯びていた。しかし、それは炎となる前に自らの手で消したのだ。咲き誇る前に散らせた花のその儚さは、自分と彼女だけしか知ることはない。美しく散った花弁を心の奥底に仕舞って、彼女は自らの意志で再び大輪を咲かせたのだ。
その花をともに咲かせ、守るべく傍らに立つのは我が心を明かし、命すらゆだねても構わないと唯一思える本当の友なのだ。こんなに喜ばしいことはない。
だから、俺は心からの祝福を。
「そうか、おめでとう」
今日、残った仕事が片づいたら伺おう――そう続けると、友は少年のように笑った。
「ありがとう、本当に。一番に伝えるのはお前にしようって、俺もルビアもそう思っていたんだ。立場とかそういうものは関係なく、お前は俺たちにとって掛け替えのない友だから」
「ふ、嬉しいことを言ってくれるな。しかし、お前が父親になるというのは不思議な感覚だな」
「そう、だな。俺もなんだか実感がわかない……」
「ルビアと、産まれてくる子をしっかり守れよ」
「当たり前だ!」
ゆりかごのなかで揺らめく小さな灯火を、大切に大切に守ってゆく。余りに小さすぎる光にふれることへの畏れにその身を震わせながら、それでも力強いその声には確かな決意と、命を抱くことを知らない己には持ちえない強さが在った。
そこにいたのは友であり、友ではない。ひとりの命の父親であった。
まばゆい夕日はさらに鋭く彼を照らした。その強い光を受けて、黒曜石の瞳は凛と輝く。漆黒の空に無数の星々が煌めき、その数だけ無限の銀河が広がってゆく。
彼ならば、彼女を幸せにしてくれる。色鮮やかな花弁が凛と咲く姿をきっと、ずっと守ってくれる。芽吹いた命が新たな花を咲かせ、その息吹を未来に繋いでいくまで。彼は強く、凛々しく在り続けるのだろう。
夕日色に輝く世界に立つその姿はまるで金色の野に降り立った英雄を思わせた。語り継がれる伝承よりも、目の前の友の姿がまさしくそう呼ぶに相応しい。彼が親友であることを誇らしく思った。まぶしい陽光に縁取られたその姿が焼き付いて離れなかった。
それから数週間して、小さな命がこの世界に誕生した。
父親から煌めく星々を包み込む宙のような黒い髪を、母親からは芽吹いた命を見守る安らかな翡翠の瞳を譲り受けた、小さな男の子が。
「可愛いだろう……!」
惚気きった目尻をこれでもかというほど緩ませて友は言う。これもまた、はじめてみる彼の表情で。呆気にとられているとルビアが穏やかに微笑った。
「抱いてみる?」
いいのか?
そう問うと、勿論。ためらいなくその返事が返ってくる。
おそるおそる、緊張で強ばる腕で抱き留める。
生まれたばかりの命はとても小さく、けれどとても重く。
伝わってくる暖かな温もりは確かな命の重さであった。心臓がとくとくと音を伝え。ここにいるよ、と叫んでいる。
自分などの腕が彼を抱くなど恐れ多くも思えた。その恐れは、身体を震わせ震え、呼吸の仕方を忘れさせる。
そんな俺を赦すかのように、ゆっくり開いた瞼から宝石のような瞳がのぞいた。汚れのない瞳は俺の顔を映しては瞬き、そしてまたゆっくりと閉じられる。
小さな手のひらが頬に触れた。柔らかなぬくもり。そこから伝わる体温は、強ばった心の緊張を一瞬でほどいてしまった。
――ああ、この子は強い子だ。
直感的にそう思った。
「名前も、もう決まっているのよ」
母親の面持ちになったルビアの肩に、親友の優しい手が抱く。
――どうか、彼らの幸福が永遠のものにならんことを。
そして、その幸せを守り抜くことが己の使命であることを噛みしめて。
――――――――
――――――――――――
……い
遠くから、音が聞こえる。
……おい
音は少しずつ鮮明になっていく。
「……おい。起きろ、馬鹿指令」
音が声であることに気づくのと、自らの頭上に書物が降り注ぐのは同時だった。
「……おっふ!?」
頭蓋を直撃する衝撃に身体がびくりと震え、奇妙な声が喉から湧き出た。一気に現実に引き戻された思考が、長い夢の終わりを告げる。
「あいたたた……もう。乱暴だなあ」
ずれてしまったお気に入りの帽子の位置を正して、雑多な光景の中こちらを睨む眼光へ視線を送る。
ずきずきと痛む頭をさすりながら、先の目覚ましの衝撃で舞った埃が喉へのダメージも与えてくる。おほんと咳払いして、不機嫌な面持ちを見上げる。
「書類整理の最中に眠ってしまったことは謝ろう。でも、もう少し丁寧に起こしてくれてもいいんじゃないかな。何も机の上に積みあがった本の山をわざわざ力を使ってまで崩すことはないんじゃないかな。もっと直接的に、優しく肩を叩くとかしてくれても良かったんだよ。ディル?」
「うるせえ。いくら呼んでも起きないのが悪いんだろうが。起こし方に文句付けられる筋合いはない」
「むー、それもそうか。でも、君が俺のとこに来るなんて珍しいね。何かあったのかい?」
偶然にしても、数奇なものだ。
冷たく光る宝石のような翡翠の瞳を眺めて、問いながら先ほどの夢を思う。疲れていたのだろうか。ずいぶんと懐かしい夢を見たものだ。
「任務の報告だよ。する決まりだろうが。決めたのはあんただろう」
「ああ、そうか。ご苦労様」
口頭で簡潔な報告を聞いた後、書面に綴った報告書をディルから受け取る。変わったことは無かったかと問うと、特にないと愛想のない返事が返ってきた。
「報告は以上だ。戻るぞ」
そういって踵を返すと、ディルは足早に部屋を去ろうとする。なれ合いを好まない彼を引き留める理由はなく、いつもならばその無機質な歩みを無言で見送っていただろう。
「あ、ちょっとまって」
「……なんだ」
呼び止められて少年は振り向く。鋭い視線はいらだつ心情を隠すことなく、ぎろりとこちらを睨んだ。
「さっきさ、夢を見たんだ。昔の夢。気になる?」
「ならない」
「はは、だよね」
それだけかよ、と不機嫌な顔がますます引き攣ってゆく。まるで敵でも見るような視線だった。元々の顔立ちが端正なだけあって、その凄みが際立って妙に迫力がある。内心苦笑しつつ、俺は先ほど整えたばかりの帽子を外した。
「ディル」
「だから、なんだって……」
こちらが改まったことに若干の困惑を覚えたのだろう。苛立ちの表情が多少和らいだものとなる。意味もなく彼を引き留めたわけではない。どうしても、伝えたい言葉があったのだ。それはきっと、ますます彼を困惑させるだろう。
「誕生日、おめでとう」
「……は?」
にこやかな笑顔とともに俺が放った言葉に、ディルは豆鉄砲を食らったような表情をしている。まあ、無理もない。
「あんた、ついにおかしくなったか?」
「ほら、よく言うだろう。何でもない日、おめでとうって。ハッピーアンバースデー。何でもない、ただの一日だって誰かの誕生日だ。誕生日を知らないお前にとっての誕生日は今日もしれないだろう?」
「……馬鹿じゃないのか」
「ははは!」
苛立ちに尖っていた眼差しは、いつしか哀れむようなものに変わっていた。再び帽子を被りなおして俺は高らかに笑った。真の意図など、わからなくても良いのだ。
「夢でさ、言う前に覚めてしまったから。とりあえず起きて一番最初に側にいた誰かに言っておきたかったのさ。まあ、気にしないでくれ」
「よくわからんが……特に用がないなら俺は戻る」
「ああ、お疲れさん」
去っていく背中を手を振って見送る。
最後に残るのは、無機質に閉められたドアの音。
再び静かになった部屋の中で、緩やかな曲線を描いていた口元を結ぶ。
遠き日の懐かしい夢は小さな影を心に落とす。あの日俺が願った幸福は、淡いまどろみの中に置き去りにさせてしまった。瞼の裏の世界は甘く優しく、かつての記憶を蘇らせる。
守ることができなかった幸福は、取り戻すことができるのだろうか。誰に問いかけるでもなく、胸の内に問いかけは響く。
ふと、視界の縁で黄金色が輝いた。先ほどの落下の衝撃で床に落ちた懐中時計を拾い上げる。変わらぬリズムで時をきざむその秒針の傍ら、小さく刻まれた日付。それを見た時、脳裏にあの日のルビアのほほえみが浮かんだ。
そうか。小さな窓から外の光が射し込む。
「あの夢は、偶然なんかじゃないんだな」
唇を出た確信は静まりかえった室内で微かに反響し、やがては刻む時計の音にかき消されて消えていく。
遥か昔。今日という日は、来たる悲しみの始まりの日にすぎないのかもしれない。けれど、秒針は動き続ける。悲しみはいつまでも、悲しみであり続けることはできない。進む時は、歩みとなる。歩み続ければ、悲しみは新たな喜びの種にだってなれる。
ーーいや、違うな。
今日という日は悲しみの始まりなんかではない。新しい命がこの世界に迎えられた、祝福の日なのだ。あの日確かに、我々は喜びの中にいた。小さな命を抱きしめて、それを守ろうと誓ったのだ。それを思い出させてくれたのは、あの日穏やかな日差しに照らされていた親友たちだ。
だから、悲しみ悔やむのではなく、祝福の言葉を。それがきっと、正しいのだろう。
「お誕生日、おめでとう。愛し子よ」
まだ希望はそこにある。
その灯が消えないかぎり、己が使命を果たそう。小さく燃える希望の火種を守り抜こう。
懐中時計の蓋を閉め、少しだけその色あせた金色を眺める。あの日の夕日の輝きにもにたそれを、机に添えられた引き出しの中に仕舞った。
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