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庭先の月A



久坂を慕ってついてきてくれた、塾生たちは。
久坂は必死に涙を拭う寺島を見詰めた。
お互い、血と汗と。粉塵に塗れて。

「……遠く、なったな」

ぽつりと、呟いた。
寺島が顔を上げる。久坂は、赤々とした夜空へと、目を細めていた。


あの、日々。
(……高杉)
何にも代えがたかったと、はっきりと言える。
先生がいて、栄太郎もいて。
陽だまりの中の、ほんの一時の。
あれを『幸せ』と呼ぶのなら。
(僕たちは、知らなかった頃には戻れないな、高杉)

もし。取り戻せるのなら。
希い、祈ることで、還ってくるのならと。

*     

だが、あの日々は決して戻らない。
晋作は、ふいに立上がり室内へと向かう。
梅越の月の光は、ここまでは届かない。
構わなかった。暗い事を不便に感じたことはない。
夜は好きだ。
晋作の姿と、心を墨染にしてくれる。
愛用の三味線をつかみ、また縁側の、同じ場所に腰を降ろす。
三味線を膝に置くものの、指は煙管を手繰った。
松陰は煙草は好まなかった。嫌っていたと言ってもいい。
(俺は、所詮悪人だからな)
久坂の顔が思い浮かぶ。
あの陽だまりの下で、あいつは困ったように笑い、堂々と意見を述べた。
高杉が夜中に行っても、久坂は大概起きていて、共に本を広げた。
そして、先生がいる。

二度と戻ることのない、尊い時間。
手を伸ばしても、掴むことの出来ない遠い、

あの陽射し。
晋作は瞼を閉じることもなく、梅の造形を視線で追う。
庭に、動くものは何もない。


希い祈ることで、取り戻せるのなら。
磨減るまでやっただろう。



身体が重い。
自分の気力が磨減っていくのが、ありありと判る。このまま、ここで立ち止まる事が出来たら。
久坂は思う。
だが、自分はそれを、きっと選ばない。
目の前に指し示されたとしても。

(高杉、)

あの、眩しい姿が思い浮かぶ。
(お前を、置いていくんだな……僕は)
自分すら、あの孤高の魂を置き去りにしようとしている。
小刀の柄を、両手で握り締めた。

(僕は、ずるいのかな)

久坂の口許には、淋しげな笑みが浮かぶ。
自嘲めいたそれに、
寺島は目を伏せた。

久坂は立ち止まることは、出来ない。
幕を上げたのは、木島又兵衛だけではない。

(この、自分もだ、高杉)

立ち止まらずに。何が出来るか。
(僕の命では贖えないが)
戦乱の終息には、流れる血が必要なのだ。
長州人の血を流さなければ、この夜は明けない。


それが。
もう一度、萩の地を見たかったと、願う心があっても。
もう。
死ぬ以外に、もう選択肢が手繰れない。
久坂は、無性に泣きたくなった。




京は、遠い。
この、同じ空の下にあるというのに。
息潜めて夜に耐える城下町の中、晋作だけは激しい焦燥感にどうにかなってしまいそうだった。


そう遠くない日に、その結果は届くだろう。

(俺は置いていかれる)

晋作は何も出来ない幼児ではないはずなのに。
今のこの身は、精々がこの梅の木を睨んでいることしか。

ふいに、視界が明るくなる。
梅の根元に視線をやっていても、思考に沈み込んで禄に見えていなかったのだが。


今、晋作は、白く照らし出されている。
訝しげに、顔を上げた。



久坂は顔をあげ、屋敷の庭をぐるりと見渡す。
自分が死ぬことで幕をひき。
この夜を終わらせる。

炎は充満しきっている。いつここも飲み込まれるともしれないが。

萩はどちらだろうか。
(高杉……)
もう一度、帰りたかった。
一刻、一目でいい。
「寺島」
喉が水気もないのに粘ついて、うまく彼の名前を呼べたか自信はない。
が、寺島は久坂を正面から見た。
「お前は、付き合う事はないんだぞ」
笑った。
あの日々のように。
「……俺、は」
一度彷徨った視線は、もう一度視界をあわせ。

「久坂さんと、一緒に」

笑いかえした。
「……そう、か」
握ったままの小刀が、ふいに、眩いて。
手の中の光から、空へと視線があがり。




庭の梅の木から、月が離れて皓々と世界を白く染め上げる。
黒い梅の木の影になっていた晋作は、夜目に慣れた目には眩しくさえ写る、その白い月に。





屋敷の庭には、様々な樹木が植えられていたが。


梅の木が、一本。


黒く佇むその梅の木の上に、水墨画のように。
白い月が皓々と輝いて。




晋作を照らし出していた。
曇りなく。





久坂と寺島を照らし出していた。
曇りなく。





久坂。
晋作はその光に心震える己を自覚しつつ、京の空の下にいる友に語りかける。



高杉。
状況を忘れ、その白い月に魅入られたように動けない。
久坂は、その白い光の中で、萩に一人いる友の名を浮かべる。




萩の空の白い月の下。
「叶わぬ願いだろうが、生きて戻れよ」
月を見上げて、晋作は願う。







京の燃える空の白い月の下。
「お前を置いていく僕を、許してくれるか……?」
月を見上げて、久坂は。
一すじ、涙が頬を伝わり。
握った小刀を。




同じ白い月の下。
相見える事なく。


晋作は座したまま、食い入るように月を。


久坂は、ふっと寺島と笑みを交わし。
小刀の光を、己の喉へと翻しながら。
ただ。



庭先の月を、見ていた。




















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