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20080504







彼は空を仰ぐ事が多かった。

空ばかり見ている男だな。

彼と己の始まりの時を振り返ると、真っ先にその台詞が浮かび上がる。
溢れる緑も花も見ず、香しい酒も鮮やかな料理も華やかな妓も彼の視界を覆うには至らず、くすぐるように爪弾く弦の音には微笑を浮かべるも、端正な反物を広
げたとて一瞥も呉れない。
一体何になら興味を持つのか、その眼を何に向けるのかと想っていたが。
解ってみれば、単純なもの。

手の届かないもの、ばかり。
決して触れられない、空を仰いでいる。

其処に何を見ているのだろう。
呟いて、その日己の眼を細めて空を仰ぐ彼を黙って見つめた。
狭めた視界の中で尚、振り返らないそのほっそりとした、姿。

想えばそれが、彼を気にかける始まりだった。






明けの烏のなく前に。








広くもない彼の視界を染める澱みの無い青は、確かに人の眼を奪ういろ。
雑多に広がる地上の営みとは違い、遮るものもない空は遠い記憶と、変わらぬいろなのか。

変わらぬ。
いろなのか。

空を仰ぐ彼、高杉を己は見上げている。
昨夜の月に惹かれる波のように、よせては返す痛みと快楽、吐き出される白い欲に塗れた高杉は恍惚の声と吐息で明けの烏の声が響く、この白んだ世界を迎えた
ばかりだった。

さなか、それだけが寄る辺でありその波にさらわれぬ為の、楔であるかのように。
互いの体液にしとった敷布を固くかたく握り締めていた、高杉の白い指先。
力一杯敷布を握っていた細い、指先。
今は煙管に絡められているその指先は、夜更の熱をほんのり遺しているのか常よりも淡く、春先の桜のように淡く、色付いている。

そうして、空を仰いでいる。

身を起こすのも辛いだろうと想っていたが、彼はぞんざいに着物に袖を通し、障子にもたれるようにしつつも自身の足で立ち、雲の彼方で進む夜明けの空を仰い
でいる。

その、彼を己は仰いでいる。

夜の熱を微かに遺す褥に座り、彼を仰いでいる。
とうに己の視線に気付いているだろうに、高杉は振り返る事なく甘い香を纏わせ時折煙管を唇に当て、空を仰いでいる。
雲の多い、朝焼けを。


その背に想う。
確かに人は時として、空を仰ぐ。

己とて。
己とて、言葉もなく空を仰ぐ事が在る。
だが、其処に広がる青に何等の答はないのだと。
明瞭な言葉、確たる思考。揺るがないもの。

いずれかの、答。

仰ぐ其処にそれが在る等、最初から想ってはいない。
あの広がる色さえ、光の屈折が織り成し染めたものならば、仮に其処に在るやもしれない答もまた、屈折したものかもしれない。

空を仰ぐ彼の視線を追って、己も広がるそれを仰ぐ。

そんな曖昧なものを込め見上げられる空こそ、いい迷惑なのだろう。
そんな曖昧なものを欲される空、こそ。

己の視界を染める、夜色のガラスの中で眼を細めた。
愛用の煙管を手にした彼は、周囲を染める深緑より眼を楽しませる花の色より喉を熱く滑る酒より感嘆漏らす料理より濡れた肢体に誘う妓、より。
空を、仰ぐ。

そんなに見上げたところで、広がる青は彼を包む温もりも過去を遠ざける熱も与えては呉れないだろうに。

そっと、夜を切り取ったガラスを視界から外した。
顕になった両目に差し込む光は予想よりずっと淡く、柔らかく世界を目覚めさせてゆく。
青を覆う一面の雲は、決して厚く垂れ込めているのではなく。



まるでもうこちらを見る必要はないのだと、諭すように広がって、いる。











ふと。
なんと優しい朝焼けなのだろう。


高杉の細い背越しの、空にそんな事を、想った。
空を仰ぎ続けている、その姿は初めて出会った時より変わらない。
華奢な身体は、いつしか己に組み敷かれ褥に沈み、どんな楽器より艶やかに啼く、花となった。
己を包み込む柔らかな内壁に蜜を湛え、そこに放つ己の欲液に更に声高く、高く。
張り詰めた弦を断つような、細い細い、声。
こうまで男を高ぶらせ咥えて放さぬ花とて、花自身は決して最初からそれを望んでは、いなかったのに。
力任せに侵入され、掻き乱され一種自己防衛に近い反応で、この身体は、啼く。
それがより、男を煽り高ぶらせるのだと気が付いたとて、身体はもう、戻れない。
そうしてどれだけの男に味わわされ、味わわせてきたのかと。


最初から、それを受け入れた訳もなかろうに。


朝焼けと高杉の間には、雲が在る。
薄く濃淡示しながら広がる雲越しの朝焼けの、

「…………優しさ、」

零れたのは嘆息だったかもしれない。
事実、この距離であっても高杉は振り返らない。
視線は光を纏う色のない、雲越しの朝焼けに繋がれたまま。

澄み切った透明度の高い蒼は、眩すぎる。にもかかわらず仰がずにいられぬのは、かつて言葉もなく伝わり合っていた、遠い遠いかつての仲間。
眩すぎて、眼を灼くいろ。
眩すぎても、捉えて離さない、いろ。
その蒼より、この暁闇は。


なんと優しいものなのか。


褥に座り、見上げる空に感じる優しさ。
この、優しさは。
この朝焼けの優しさは。
彼が優しさ、安らぎをみる、それは。



空を仰ぐ彼と。
彼の前に広がる雲越しの朝焼け、に。
眉を寄せた。


死者は空に在ると、言われているな。晋助。

喩えずとも。
お主が唯一絶対と望む遠い記憶の師、の。
嗚呼。
だから彼は、空、を。

手の届かないもの。
あの日、己の隣で楽しそうに降りてゆく白夜叉たちを見送っていた。
あの夜、三味線を爪弾いた指先、その先に彼が見ていたのは、弦でも指先の覚えている譜でもなく。

決して。
手の届かないもの。
ばか、り。


かつて空を仰いだときは、彼は何も失ってなどいなかった。
己がどう、男の眼に映るのかも解ってはいなかった。

だが時は流れる。
そうして彼は、立ち位置を異ならせる。
空を再び仰いだ、その時。

彼は、一人だった。

見上げる事しか出来ない其処。
其処に、彼は。
たった一人。たった一つの、狂える理由を見たのか。



「……晋助」



振り返る事は決してないだろう。
彼にとって、空を仰ぐ行為は他者の比にはならない、尊く神聖な、もの。

「薄曇りの朝焼けは…………優しいもの、だな」

感傷と、一笑に付すのは容易い事。
だが。
己、も。


この、空には。


振り返る事はないと想っていた高杉の肩が僅かに揺れて、深い深い翠の隻眼が振り返った。
交わる事の無いと。
そう想っていた翠が、真っ直ぐに己へと注がれ。
己もまた、彼、を。

「…………そう、か?」

嘆息だったかもしれない。
だが、己には。
確かに。

手を付いて立ち上がり、障子に凭れる華奢な身体を引き寄せる。
己の指先に伝わる高杉の体温は、この明けてゆく空のように静かな熱の、低さ。
夜の高ぶりなど、何処にも遺ってはいないのか。


「眩しくはなかろう?」


この朝焼けは。
お主の求める、師のように。


己を捉えていた隻眼は、ほんの僅か柔らかく細められて。
その背を己に預けたまま。
彼は、空を仰いだ。



















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あきゅろす。
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