2007年12月15日〜2008年4月27日 拍手1 補足 赤根武人・松下村塾生。3代奇兵隊総官。元治元年の高杉の功山寺決起の際、和平を模索して対立。後裏切り者として処刑。 高杉は赤根の事を悔いていたらしい。 山県狂介・奇兵隊軍艦。立身出世と高杉に命を懸けている(と、思う) ■□■□■ □■ 蝋燭の明かりを継ぎ足す動きで、炎が一度、大きく揺らいだ。 煽られた影の動きもまた、自分の影ではないように思えて。 瞬きを、一つ。 その一瞬の間に、盤の向こうから視線が真っ直ぐ向けられていた。 『冷えてきたな』 己か、彼か。 細部は余す処無く、手繰れるというのに。 この言葉、だけは。 どちらから発せられたのか、判別難い。 『冷えてきたな』 鸚鵡のように繰り返す。 会話の始まりも覚束無い。 そんな、夜だった。 初霜 これは夢だろう。 身体の芯から冷えて行く、この感覚。 覚えている。 これは、夢だ。 座敷に座っている。 夜も更けていた。 時折、温くなりまた冷えてゆく酒を含みながら、黒と白の碁石を打ち合う。 幾つか、時節の話もした。 そんな、夜だった。 身の内から冷えるのならば、どんなに身を縮めても意味がない。 眉間に皺を刻んだまま、顎に手をあてて盤上の黒の駒に視線を絞り、その行き先と方向を見据えようとする。 蝋燭の揺らぐ明かりの中、黒と白の拮抗は崩れない。 いい打ち手なのだ。 相手を努める、赤根という男は。 赤根の戦術は、もう幾度となく繰り返し眼にしている。 決まった駒運びではあるが、その中で細い間隔で揺れ、試される僅かな違いが面白い。 筆を持たせて、紙を塗らせればこの男は。 ほんの僅か、端を開けて塗り始めるだろう。 そんな戦の立て方をする。 赤根が膝を立て、座り直した。 「……冷えてきたな」 盤を挟んで、同じように色のない攻防を見下ろす男の、表情は伺えない。 それも、常の事だったと。 「…………冷えてきたな」 同意が返される。 気に入りの瓢箪を引き寄せて、呷った。 肌に染み入る冷気と大差ない、冷えた液体が喉を焼く。 「もう、」 赤根が呟きながら、白石を響かせた。 冷気を含み、高く細く響く音。 「時期に、冬ですね」 「そうじゃな」 少しずつ少しずつ、軌道を変える駒の行方に笑みを浮かべる。 見て取ったのか。赤根もまた、笑った。 「今夜辺りやも、しれんな」 謳うように、その笑みを返す。 「霜が降りる夜というのは、こんな夜だろう」 身の内から凍みていく夜。 地から空までを凍らせようと、走る氷が音立てて起き上がるような、凍えてゆく熱。 眼に見えて、軋んでゆく。 碁石に指先を添わせて。 瞬きを、一つ。 その一瞬の間に、盤の向こうから視線が真っ直ぐ、向けられていた。 冷たい眼ではあったが、それは。 この凍りゆく季節より、暖かい。 どちらからともなく、笑った。 「冷えてきたな」 夢、だ。 もう幾度となく、繰り返して見ているあの夜。 あの夜は、確かに。 「御目覚めですか」 額の重みは、己の左手だった。 白く淡い視界は定まるのに時間を要したが、すぐに焦点を結び始める。 人差し指の先が、軽く痺れているが。 深く深く、息を吐いた。 肌で感じる視線に、ごろりと寝返って合わせてやると、こちらを訝しげに見下ろしていた山県が、一拍置いて身を引いた。 「逃げるこたないじゃろう」 「いえ、」 そういう訳では。 続ける長身の男は、困惑したように膝に置いていた手を畳に移し、引いた身体を戻す。 なんだか無性に可笑しくなって、低く笑った。 無言のまま困惑し続ける山県の眼は、だが決して彷徨わない。 自分を見ている。 「……随分と冷えてきちょるの」 身を起こしながら、指先を痺らせるその冷えた温度を確かめる。 違いない。 「そう、ですね」 言葉が少ないのは、慎重過ぎる性格故だ。 寝起きの機嫌の悪さを思い知っている山県は、意識の覚醒ぶりを十分確認するまでは迂闊な言葉は口にしない。 「まだ夜か」 「はい」 そうだろう。 この夢は、決して朝明ける夢ではない。 大地を軋む音すら、響くような澄んだ夜。 そんな夜に、だけ。 「山県」 「……はい」 「碁盤は在るか?」 山県の目尻が細くなる。 「はい」 応えた時には立ち上がっていた。 素早い男だ。 部屋の隅から碁盤を持ってきて、目の前に置く。 無言で、碁石を並べ始めると。 少しばかり眉をあげた山県が、言葉もなく広がっていく盤上の世界を見下ろした。 辿る指に迷いはない。 幾度となく、繰り返した棋譜だ。 あの夜。 勝敗は、どちらにあがっていただろうか。 澱み無く広がった棋譜は、しかしそこからは進まない。 この光景の先を、夢に見たことはない。 「黒じゃ」 顎をしゃくって、指し示す。 山県の眼が、深みを増した。 「…………誰の手です?」 冷えた声に。 瞼を閉じる。 勝負は付いたのだったろうか。 初霜の降りた夜。 赤根の進めた石は、どこを目指す筈だったのか。 冷えてきた。 今宵、この冬初めての霜が降りるだろう。 瞬きはしない。 瞼は閉じたまま、だ。 彼方の初霜の夜。 真正面から挑んできた、あの眼はもうないのだ。 冷たい眼ではあったが、それは。 この凍りゆく季節より、暖かった。 毎年夢に見る。 この、凍り始めの夜に。 「冷えて、きたな」 あの声は、どちらの声だったろうか。 赤根のものか、己のものか。 繰り越し、夢見ているというのに。 明けた朝は、冬の訪れを呼ぶように。 白く一面に、霜を落としていた。 幕 |