花の縁と、言えなくも@
「蕎麦でも喰いに行くか」
花の香よりも、なお深まった緑を乗せた西風が、広くも無い藩邸の一室を通り過ぎていった。
畳にごろりと横になっていた高杉は、格子の天井を見上げたまま風が吹き抜けた後、呟く。
視線は風を追い、外へ流れても言葉は室内に止まって、友の背中を叩いた。
彼に背を向け、手紙を書いていた久坂は手を止めず、
「蕎麦かあ」
と、この季節のような晴れた声で言葉をなぞり、筆を進める。
筆が紙を滑る音が久坂の手の中で一度舞うと、風の後を追って。
五月の空へと登っていく。
そんな事を、互いに想った。
花の縁と、言えなくも
江戸の空の青は、日一日と鮮やかになってゆく。瞬きを繰り返す度、それが重なりを増してより深い青になる。
夏の青より皐月の青空の方が、余計な眩さを纏わないから、気分がよい。
そう、想う。
高杉はひょい、と軒先から首を出して新緑に広がる空を見上げた。
からりと晴れた青が、ちっぽけな自分達を見下ろして、いる。
畳に手を付いて上半身を起こし、室内へと向き直った。
書き終えたらしい手紙を目の前に広げ、添削している久坂へと高杉が視線を戻すと、それを背中と首筋で感じとったらしい。
久坂の肩が小さく震え、手紙を膝に落として振り返った。
「蕎麦、食べれるんだ?」
「嫌いだなんて言った事あったか?」
そうじゃなくて、と久坂はくるくると手紙を折り畳み、笑顔のまま首を傾げた。
「具合の、話」
片眉を上げて彼を見返すと、久坂は僅かに肩を竦める。
「もうだいぶええ。ぼちぼち外に出んと、余計に身体が重くなる」
広くもない座敷には、日も高い所為か二人しかいない。
江戸長州藩邸上屋敷の一室に、何故か部屋の住人ではない久坂と高杉が寛いで居る。
高杉の部屋はまた別室にあり、久坂は麻布の下屋敷に部屋が在る。
とはいえ江戸に出てからの久坂は、文字通り地に足着かぬ状態で飛び回っているので、下屋敷でも滅多に姿を見ないらしい。
いつだかに、伊藤からそんな風に聞いている。尚の事、この上屋敷で姿を見る事はない。
比例して、各地の志共にする志士との交流は盛んになり、長州の久坂の名は広まるばかりだ。
偶々、此処数日高杉は体調を崩し藩邸で大人しくしていた。
元より丈夫な性質ではないから、江戸までの旅路と着いてからの目まぐるしい日々を想えば、やむを得ない。
腹は立つが、何年もこの性質に付き合ってきているのだから慣れたものだし、これが己で在る。
数日横になっていたのだが、やっと起き上がれるようになった。
同じ天井、同じ光景ばかり見続けて少しばかり嫌気が注している。
季節遅れではあるが、羽織だけ羽織って本を片手に、思い付くままに藩邸内を歩いてみた。
人が全くいない訳ではないが、気配をほぼ感じない昼間の藩邸は不思議なもので、夜よりもずっと静かに凪いでいる。
帰宅する藩士の密度が増す夜は、闇であっても賑やかなのだ。
陽射の方が静かと言うのも不思議なものだが、思い返せば松下は陽射下も騒がしく、夜更は夜更で昼よりは堅苦しい言葉でまた、賑やかだった。
熟熟考えながら庭に眼をやれば、芽吹きを終えた緑には花の声が囁かれ、零れんばかりの色彩が満ちている。
もう、そんな季節だった。
主の居ない部屋とてこの季節、障子を開け放し風と光を求めている。
知った顔が寝泊まりしているその一室に、気安さもあって寄らせてもらう事にした。
知らぬ間に装いを変えた、此処から臨む皐月の花を暫く見ていたく、なったのだ。
自室より近くで揺れる赤紫の花は、寄り添い開き、空を仰ぐものもあれば地を見下ろすものもある。
まるで勝手を言い合う自分達の、ようだ。
花の方が静かな分、見れたものかな。
そんな、事を。
想う。
高杉は緑に染まる風に髪を揺らせがら、口の端に笑みを含んでぱたりと畳に転がった。
「……高杉、」
其処へ陽光と共に風に乗って降って来たのが、久坂の声だった。
高杉が伏せっていると噂を聞いたのか、所用在ったものなのか。久しく姿を見せなかった久坂は、思いも寄らぬ部屋に尋ね人の姿を認めた所為か、眼を丸くして、
「……あれえ?」
きょろ、と部屋を確かめる。
確かに、同じ間取りが続いている、が。
「間違えてない。此処は聞多の部屋じゃ」
頭の上に巨大な疑問符を点けた久坂の顔が、ぱっと明るくなった。
「あ、そうなんだ」
なんでわざわざ他人の部屋に、とは続けずに入ってくると勝手に座る。
「相部屋でもないんだ」
「まあな」
聞多が誰と同室だったか、と高杉は横になったまま天井を睨み付けたが記憶が囁くより早く、
「……で。君はこんな処で何やってるのさ」
室内を物珍しげに見回した久坂が、からかうように尋ねてきた。
「見て解らんか」
「解らないから訊いてるんだけど……」
再び室内を見回した眼が、真直ぐ庭を臨む。
彼の眼を彩るのは、手で触れられそうな、溢れんばかりの皐月の赤紫と、緑。
「…………ふうん」
高杉は片眉をぴくり、と上げた。
妙に楽しそうに庭と高杉、交互に視線を傾ける友を見上げると、常に笑顔の印象強い彼は、
「……なんじゃ、」
「否?何でもないよ?」
「何でもない訳あるか」
久坂は『何もかも解っているさ』と言いたげな、人懐こい笑顔を向けてきている。
またこれが、見慣れているのに腹が立つ。
「いいんじゃないか。らしくて」
「……知った口を効きおって」
久坂は暫くにこにこと高杉を眺めてから、臨む庭の色彩に視線を流す。
そうしてぽんっ、と手を打った。
「……手紙、書かないといけなかったんだ。高杉、暫く付き合ってよ」
なんだって突然手紙など書き出すのか、久坂の思考はさっぱり解らない。
「聞多、机借りるね」
そもそも手紙を書くのに付き合えとはどういう事かと、怪訝というか険しい目付きで問い掛けたが、高杉のそんな眼に慣れている久坂はさらりと流し、不在の主に声を掛けると勝手に紙を広げてしまった。
矢立を机上に並べ、元よりすっきりとした背筋を伸ばし、更に居住いを正す。
こうなっては手紙を書き終えるまで、動かない。
座敷から望む皐月は零れんばかりの色に満ち、広がる空は目覚め始めたばかりの青に染まっている。
花の静かさと似た静寂が、この座敷にも横たわった。
高杉は暫く、机に向かう久坂の背を眺めてから再びごろりと寝転がり、赤紫の花々の賑わいを瞼の裏に感じながら、眼を閉じた。
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