20080315 幾重にも重なる灰色の曇の下、予報は確かに空が崩れると伝えている。 仰ぐ空は未だ沈黙したままだったが、耐え兼ねたように吐息を零すのは直だろう。 先日まで時折其処から舞い散るのは、掌に触れるだけで形を無くす六花だった。 が。 春とは言い難いながらも、季節の移ろいというものは確実に速度を早めている、もの。 薄墨を幾重にも重ねた空から零れる吐息は。 きっと、もう。 陽射にも似た、霧雨なのだろう。 春を待つ花 抱えた花の色越しに仰ぐ空は、早朝に残る冬の温度に凍り付いたまま、溶ける事がない。 気分透く空とはほど遠く、視線を転じる度に薄氷のような蒼空とは異なり思考を低迷させようと低く凍りついた、空。 小梅のほのかな香りは、晴天よりもこうした空の下こそ、漂ってくるもの。 「晋助」 蕾の方がまだ多い、梅の枝を一山抱えた万斉は、高杉の自室の襖を開く。 腕の中の梅の控え目な香りと、揺れる花影に眼を細めつつ、脇息に体重を預けて本を開く主の名を音にする。 彼は気怠げに視線を上げて、万斉を認めると。 蕾綻ぶように、小さく笑った。 脇息にもたれたまま、右手がするりと、上げられる。 たったそれだけの所作に、色も冷え落ちた灰色の空の下、零れる肌理細かい白が扇情的に視界を染める。 花を欲するその白い指先に、膝をついて梅を近付けてやった。 「……まだ蕾じゃねえか」 猫の喉をなでてやるように、高杉の指の背が梅花に触れる。 僅かな身動ぎではあったが、項から背骨への骨張った流れが、雄を煽るような衣擦れと揺れ動く陰影と共に、万斉の眼を撫ぜる。 硬いそれを綻ばせようと空気を含み始めた蕾すら、戯れの所作に身を震わせた。 何気ない仕草事に視界を煽る、陶磁器のようなその肌のラインは、淡く淡く、この蕾の纏う香りに、どこか似ている。 喉の奥で、笑みが震える様も猫のそれ、そのままだ。 「蕾の方が、好いかと思ってな」 訝しげに瞬きをした翠の瞳は、蕾から上げられて人斬りの姿を映した。 「……へえ?」 見慣れているであろうそれに笑みを重ね、梅花に添わせていた両手を付いて、上身を上げる。 花よりも甘い香が、高杉の髪を揺らし万斉の背筋を撫でていく。 「より長く、花でも楽しむのか?」 万斉の口許に浮かぶ、笑み。 甘い香を割って、形の良い指先を伸ばすと蠱惑的に嗤う主の濡れたような黒紫の髪に、触れた。 「…………我等は未だほころばぬ花、故」 そのまま、滑らかな肌に指を落とす。 肌理細かさをなぞる男の指は、弦の上を跳ねる動きよりも、柔らかい。 移り行く、時の流れのように。 翠の瞳が、細められた。 季節は確実に、移ろい変わってゆく。 足を止めて仰ぐ空、日を追う事に膨らむ蕾は梅から桃、そして桜へと受け渡される。 あの残酷なまでに美しく花零れる染井吉野。 そう。 この繁栄の為に夥しく流された、血。 混乱と狂騒と、真摯な志。 それら、総て。 『汚れ』と追いやり蓋をし無きものとして、まるでこの世の始まりから世界はこうして繁栄を謳歌しているのだ、と。 示す、花の季節。 それをこの世とするならば。 示す花の季節の、終わり。 必ず訪れる、花冷えの季節こそが。 「狂い咲く、その時。…………その暁には満開の、花を」 紅い舌が、唇を撫でる万斉の指にちろり、と触れた。 甘い香の中、その紅い色は離れようとする指先を追い、ぴちゃりと音を立てる。 視線が絡み合った。 「お主に、捧げよう」 形のよい顎に濡れた指先をあてがう。 男を誘う唇には、触れぬまま。 音も、無く。 いずれ零れる陽射、そのまま。 訪れる季節を思わせる眩さを伴った霧と、見紛う雨が音も無く降り注ぎ始める。 低く凍った空の、雪解けのような水の、流れ。 「…………満開の、花か」 咲き乱れ、そうして。 「…………さぞや、綺麗な花だろうな?」 底に狂喜を含んだ隻眼が、笑う。 訪れる花冷えの、季節のように。 . |