第0話 鴉と兎‐陽の当たる場所‐
 姉と母が学校や職場からそれぞれ帰宅し、父が夜間の仕事へ向うべく家を出た後。アエラ=ボヌールの心に唯一本当の意味での安らぎをもたらしていたのが、この脅威だけを除いた家族3人で過ごす時間だった。
 ささやかながらも掛け替えのない、最上級と言って良いほどに貴重な時間。
 夜に差し掛かった、ある日の夕刻。学校から出された課題を済ませてダイニングにやって来たアエラは、そこに求めていた姉の姿が見当たらない事に酷く落胆した。
 事情により今日は帰りがやや遅くなると聞いていたが、予想以上に時間が掛かっているらしい。
 別に遅くなるというだけで帰って来ない訳ではないし、自分でも大袈裟だとは思う。けれど、やっぱり待ち遠しかった。口には出せないが、寂しいのだ。
 3人でいられる貴重な時間は、少しで長くあって欲しいから。
「ああ、アエラ。宿題、終わったのかい?」
 キッチンで夕飯の支度に勤しんでいた母が、1度調理の手を止めてこちらを振り返った。彼女本来のさばさばとした性格を感じさせないくらいに優しく慈愛に満ちた表情が、アエラに向けられる。
「うん……終わった」
「そう、頑張ったね。――モニカも、もうそろそろ帰って来るとは思うんだけどねえ……」
 アエラの内心をすっかり見透かした呟きを発してから、母は止まっていたウィンナーのざく切りを再開した。
「手伝える事、ある……?」
「それじゃあ、お皿を出しといてくれるかい? 3人分ね」
 母の言葉に小さく頷き、アエラは食器棚を目指してリビングを歩いた。
 母の立つキッチンに近付くに連れて強くなる、コンソメスープの香り。一足早くざく切りにされた、人参やじゃがいもを始めとする野菜の数々。夕飯のメニューは、直ぐに分かった。
「――ねえ、アエラ」
「何?」
「学校、楽しい?」
「……」
 不意に母が発した、短い問い掛け。食器棚の戸に手を掛けていたアエラは、自分の身が一瞬でありながらも確実に震えたのを自覚する事となった。
 母はこちらを見てはおらず、食材や調理器具の奏でる音は依然として規則的なリズムを保っている。
 アエラの回答を待つかの様に、母は無言を続けていた。
 そんな筈はないと、頭では分かっている。なのに遠回しに責められている様な気持ちを拭い切れず、アエラの心は沈んで行った。
 何も言わずに食器棚を開けて、ポトフを盛り付ける為の厚皿を取り出すアエラ。彼は取り出した3人分の厚皿をゆっくりとテーブルの上に重ねて置いた後、ようやく重い口を開いた。
「普通」
「普通、ねえ……」
 ぼそりと答えたアエラの耳に、母の溜息が聞こえる。
 呆れられただろうか。怒られるだろうか。陰った表情を隠す様に俯いて身を震わせるアエラに、母は尋ねた。
「皆の中に、居辛い?」
「!」
 覚悟していたものとまるで異なる反応に驚きを隠せず、アエラは思わず顔を上げて母を見た。
 母は背を向けたまま、切り終えた食材をスープの入った鍋へと移していく。背中越しに、彼女は重ねて問う。
「周りが皆人間で、自分だけが違うから?」
「ど、どうして……」
「分かるのかって? わたしが、あんたの母親だからだよ」
 きっぱりと、母は言い切った。
「わたしも、最初はそうだった。多分、モニカもね。誰もがきっと、多かれ少なかれ通る道だよ。『わたし達』なら」
 諭す様な母の声は、どこまでも優しかった。
「だけど、いつまでもそれじゃ駄目。あんただって、それは分かってる筈だよ」
「……うん……」
「大丈夫。あんたなら、出来るよ。あんたは、わたしの子なんだから」
 アエラが、上目遣いに母の背を見詰める。母が、再びこちらを振り返る。
 優しく慈愛に満ちた表情は、何1つとして変わらない。アエラが良く知る、母の顔。
「ほら、帰って来たよ」
「え?……あ」
 母が指し示した、アエラの後方。
 ダイニングの窓硝子の向こうから、ぱたぱたと駆けて来る1人の少女の姿があった。それは、アエラが今の今まで待ち望んでいた姉の姿に他ならない。
 脅威を除いた3人で過ごす時間が、始まりを告げた。

 母キャラウェイと、姉モニカ。父親からは虐げられ、同級生からは孤立していたアエラにとってそれは数少ない光だった。
 数少ない光。アエラがたった1人で、必死に守ろうとしていたもの。
 自分さえ我慢して黙っていれば、母や姉が不幸になる事はない。2人はこれから先もずっと、笑顔でいられる。そう信じていた。
 だからこそ、アエラはこの手段を頑なに実践し続けたのだ。どんなに傷付いてボロボロになっても、これが2人の為だと思えば堪えられた。
 この自己犠牲の極みとも言える手段が致命的に間違っていた事実を、やがてアエラは知る事となる。
 何もかもが手遅れとなった、その後で。


‐終‐


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あきゅろす。
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