第5話 嘘と真より‐崩壊‐
【前編】
ぽつりぽつりと落ち始めた水滴は次第にその量を増し、おびただしい数のそれが地上を叩き付ける音が辺り一帯を支配するまでにそう時間は掛からなかった。
大地に降り注ぐ、数多の水滴。雨水。
降る事は分かっていたが、遂に来たか。覚悟していたとはいえ、こんな時に盛大に降られると気が滅入る。
まだ暫くは番人として、忙しなく外を動き回らなければならない。亡霊達はまだあちこち残っているだろうし、葬儀屋を含む標的4名に関しても捕獲したとの知らせはまだ一切来ていない。
「いよいよ、本格的に降って来やがったな」
使用した拳銃をホルスターに仕舞い直しながら、ヨハネスは雨を凌ぐべく近場の飲食店の屋根の下へと避難する。
濡れる事により更に冷たくなった地面には今し方倒したばかりの亡霊の集団が意識を失くして横たわり、激しい雨水に打たれ続けている。
ヨハネスの隣では司令部へ報告の電話を入れる、コールマンというらしい男性の姿がある。彼は軽度とはいえ怪我をしている様だが、本人が大丈夫だと断言したので構わないでおく事にした。
コールマンの『大丈夫』は、誰かさんのそれとは違って充分な説得力があった。だから、信用した。
「ヨハンさん!」
いつになく張り詰めたクルーエルの声は、圧倒的な緊迫感をこの場に漂わせた。
様子が可笑しいと、ヨハネスは思った。比較的大人しいクルーエルは、こんな風に声を張り上げる事など滅多にないのに。
彼がこんな声を出すのは十中八九、非常に良くない状況下に立たされて驚いたり焦ったりする時だ。少なくとも、ヨハネスが今まで見てきた範囲内では。
ヨハネス達の元に駆けて来たクルーエルが、この世の終わりの様な顔をしてヨハネスを見上げている。
「なんだよ、騒々しい」
クルーエルのただならぬ様子に胸騒ぎを覚えつつも、ヨハネスは飽くまで冷静に問い掛ける。
「どうした?」
「セキアがいない!」
「……は?」
何を言われたのか直ぐには理解が及ばず、ヨハネスの動作と思考は一時的な完全停止に見舞われる事となった。
「あれ? 可笑しいね。さっきまでそこで、一緒に戦ってくれてたのに……」
通話を終えたばかりのコールマンの声も、ヨハネスには酷く遠くの物音にしか聞こえない。
呆然と、辺りを見回すヨハネス。だがどの方角に目を遣っても、一向にセキアの姿を見付ける事は叶わない。
停止したヨハネスの思考が、緩やかに動きを再開する。クルーエルの言葉を含む現状に理解が及んでいくに連れて、ヨハネスの胸に膨大な怒りとそれ以上の焦りが吹き荒れた。
「あの馬鹿っ!」
ヨハネスは、声を荒げる。この声に驚いたクルーエルとコールマンが共に肩を震わせるが、気にするだけの余裕はない。
ヨハネスは極めて荒々しい手付きで上着のポケットから自身の携帯電話を引っ張り出し、同じく荒々しい手付きで番人関係者が多くを占めるアドレス帳をディスプレイに呼び出した。
* *
ハクトがブランケンハイムの家に戻った時、そこにはソフィアやロザリンドとは別に見覚えのある2人組が座っていた。
六芒星を象ったペンダントを首から下げている黒髪の少年と、ごく普通の人間の姿をした大学生の青年。
ハクトは、程なく理解した。
「ああ……あんた達も、そうだったわね」
「いきなり押し掛けたりして、済みません。でも、他に頼れる所がなくて」
青年ことフランツが真摯に謝罪の意を述べ、少年ことコンラッドがばつが悪そうに視線を低くする。
話によるとどうやら2人は出掛け先で急に人間がいなくなった事に気付き、何事かと外へ出てみた所で亡霊達に襲われたらしい。
戦闘力を持たないコンラッドと、ごく普通の人間でありながら番人を知り弾かれる対象とならなかったフランツ。
コンラッド1人なら、猫の姿に戻って幾らでも逃げる事は出来たのだろう。けれど、フランツも一緒となるとそうはいかない。
逃げ回りながら考えた結果、出た結論が今のこの状況である訳だ。
「別に、謝らなくて良いわ。一般人を守るのも、番人の仕事だもの」
ソファに腰を下ろし、ソフィアから紅茶の入ったティーカップを受け取りながらハクトは素っ気なくきっぱりと言い切った。
「寧ろこうやって目の届く所にいてくれた方が、守り易くて良いくらいね」
「ハクトさん……今、何が起こってるんですか? フランツさん達のお話にあった亡霊というのは、葬儀屋さんの?」
「そうよ」
再び着席したソフィアの質問に至って簡潔に答え、ハクトは出されたミルクティーをスプーンで延々と掻き混ぜ始める。機嫌が良くない時の、彼女の癖だ。
「葬儀屋って……あの葬儀屋?」
「コンラッド、知ってるのか?」
「グレゴリウス=ヴァイラント。フランツは知らないと思うけど、こっちの世界じゃ相当有名だからね。勿論、悪い意味で」
分かってはいたが、葬儀屋の悪名の高さには目を見張るものがある。番人でもないロザリンドやコンラッドですら、当たり前の様に知っているのだから。
「あ、あの……ヨハン達は、大丈夫なんでしょうか……?」
人が増えた事により更に大人しくなってしまっていたロザリンドが、怖ず怖ずと手を挙げて発言する。
「葬儀屋さんは高い魔力の持ち主だと、ヨハンから聞きました。だから――」
「残念だけど、それだけじゃないわ。今回、葬儀屋は亡霊達の他に共犯者を3人も連れてるそうよ」
「え……っ」
驚いたのは、ロザリンドだけではなかった。
「共犯者……? 下僕じゃなくて?」
眉根を寄せたコンラッドが口にした疑問は、もっともである。
基本的に一匹狼なあの葬儀屋が、亡霊以外の誰かと群れる様な事がこれまでにあっただろうか。少なくとも、ハクトの記憶の中には存在しない。
「その共犯者っていうのは、強いの?」
「現時点では、なんとも言えないわ。けど、あの葬儀屋がわざわざ弱者と手を組むとは思えない。それなりの実力は持ってる、って考えた方が無難ね」
ハクトのこの言葉により、瞬く間に室内が暗鬱とした空気に支配される。仏頂面のハクトを除く4人の顔には、心配と不安の色が滲む。
葬儀屋との戦いに身を投じた者への心配や、自分達はどうなってしまうのかという不安。理由は違えど、そういった感情故に表情が陰っているのは4人に共通している。
ハクトは掻き混ぜていた紅茶を1口だけ飲んでから、1人思考に沈む。
ハーフエルフと、人間の男。果してこれは、ただの偶然なのだろうか。だとしたら、ここまでたちの悪い偶然はない。
また、ハクトは思う。自分は一体、どちらを望んでいるのだろうかと。
現状が、偶然でない可能性。ハクトは長年、それを待ち望んでいた筈だった。
偶然でないなら、願ったり叶ったりだ。遂に、この日が来たのだから。
喜ばしい事なのだ。本来なら。なのに何故自分は今、こんなにも焦っているのだろうか。
「あ、ハクトさん……」
「え?」
ソフィアに声を掛けられてようやく、ハクトはポケットの中にある自分の携帯電話が着信を告げている事に気付く。
思考を妨害されて多少腹は立ったものの、状況が状況なので無視する訳にもいかない。
渋々ながら携帯電話を引っ張り出してディスプレイを確認したハクトは、たちまち眉を顰めた。
「……ヨハン?」
着信は、ヨハネスからだった。
セキアからでも司令部からでもなく、ヨハネス。悪い予感がする。
恐る恐る通話ボタンを押して、電話を耳に当てる。そうするとハクトが何を言うよりも早く、切羽詰まったヨハネスの声が飛び込んで来た。
『ハクト、済まねえ! セキアが、いなくなった!』
「な……」
突然の報告に、ハクトの反応は遅れた。
ヨハネスの言葉の意味を飲み込む内に、ハクトは自分の顔が恐ろしいほど強張っていくのを自覚せざるを得なかった。
「そんな、どうして……っ」
『俺らが偉ぇ数の亡霊の相手してる間に、1人でどっか行っちまったんだよ!』
「そうじゃないわよ! あたしは、どうしていなくなったのかって聞いてるの!」
自分の声が、聞いた事もないくらいに震えている。身体中から、血の気が引いている。動揺しているのだ。この自分が。
半ば以上叫ぶ様なハクトの声に、ソフィア達の視線が一斉にハクトへと集まる。これがただ事ではないのを、ここにいる誰もがハクトの様子から感じ取り察している。
『簡潔に言うと、だな……』
電話の向こうのヨハネスが、思考を纏めるべくほんの微かな空白を置く。ハクトには、その短い時間すらもどかしかった。
そして――沈黙の末にヨハネスが発した次の台詞を耳にするなり、ハクトの動揺は臨界に達する事となる。
『司令官の野郎が、セキアに言ったんだ。……約束は果たした、ってな』
がたん! という酷く荒々しい音と共に、ハクトは凄まじい勢いでその場から立ち上がっていた。
ハクトの身体がぶつかった事により大きく揺れたテーブルの上に、カップから零れた紅茶が落ちる。だが今のハクトに、そんなものに構うだけの余裕はない。
「あんた、今どこにいるの?……直ぐ行くわ」
最低限の聞べき事だけを聞いて、ハクトは通話を終える。
携帯電話を仕舞って顔を上げたハクトの視界に映るのは、強張った表情で呆然とハクトを見詰めるソフィア達。4人を代表する様に、ソフィアが尋ねる。
「いなくなったって、誰がですか……?」
「……」
ハクトは、答えない。代わりに彼女の口から出て来たのは、こんな言葉だった。
「ソフィー、ここにいて。ロージィ達を、お願い」
「え……ハ、ハクトさんっ?」
ハクトは、走り出した。
ソフィア達に背を向けて振り返る事なくリビングを飛び出した彼女は、久方振りに爆発した感情を抑え切れないでいた。
「ふざけんじゃないわよ……!」
地を這う様な声で吠え、ハクトは走る。
‐前編 終‐
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