第0話 鴉と兎‐指輪‐
 ソフィアは常日頃から、自らに与えられた使命に対し忠実だ。これ以上がないほどに誠実な姿勢をもって、使命に挑む。
 決して手を抜く事なく、戦闘能力のない自分に出来る数少ない使命を全身全霊で成し遂げる。それこそが、今の自分の存在意義に他ならないから。
 しかしながら、今この瞬間に限っては事情が違った。
 与えられた家事の一環である、掃除という名の手慣れた作業。フローリングの床を清掃するモップを持つソフィアの手が、先程から何度も止まっている。
「ハクトさん、あの――」
「煩い。黙ってて」
 今、目の前に広がる光景にソフィアは気が気ではなかった。
 目の前の光景。それは青い顔をしたハクトがダイニング内の棚やテーブルやソファに至るまで、とにかく無遠慮に動かしまくりながらダイニング中の床上を調べ回っている光景。
 声を掛けてもこの通りなので詳しい事情はソフィアには分からないが、どうやらハクトは探し物をしている様だった。
 それも、ただの探し物ではない。言葉では言い表せないほどに大切な物を、彼女は必死に探し回っているのだ。
 番人という命懸けの仕事に取り組んでいる時でさえ、余程の事態にならない限り決して取り乱したりはしないハクト。そんな彼女から、ここまで余裕を削ぎ落としてしまうほどの探し物。
 指輪。ソフィアが得た情報らしき情報は、これだけだ。
 蒼白顔をしたハクトがこのダイニング兼リビングルームに駆け込んで来たのは、現時刻から約5分ほど前。
 いつになく切羽詰まった様子のハクトが、ソフィアの存在にすら気付かないままダイニングを漁り始めた際に漏らした「指輪がない……!」という呟きを、ソフィアは偶然にも聞き取る事が出来た。
 だが手伝いを申し出ようとした所で、ハクトは聞く耳を持たない。
 自分で探さなければ意味がないとでも考えているのか、もしくはただ単純に聞く耳を持つ余裕が欠如しているだけなのかは不明である。
 そもそもハクトは普段、指輪などしていただろうか。
 ピアスやネックレスなどはともかく、腕や手に付ける類のアクセサリーは「仕事の邪魔になるから」と言って、所持すらしていなかった気がするのだが。謎は、尽きる所を知らない。
 珍しい。というより、初めてだ。あの強気なハクトが、ソフィアの前に自らの弱みを晒すのは。
 それ故にソフィアは、必要以上に心配になる。だが、対処方法も分からない。
 このまま放っておくのは、気が引ける。かといって事情が分からない上に、ハクト自身がそれを望んでいないにも関わらず無理矢理に手伝うのも得策ではない。
 ソフィアが躊躇する最中、遂にハクトはまるで力尽きたかの様にへなへなとその場に座り込んでいた。

 * *

 激しい恐怖と自己嫌悪が、ハクトの胸中を埋め尽くしていた。
 最悪だ。よりにもよって、あれを失くすなんて。ハクトは痛みを感じるほどに強く、自らの唇を噛み締める。
 自室は勿論、店内や応接室を含む思い当たる部屋は全て探した。リビング内も、家事に勤しむソフィアを押し退けてまで探し回った。なのに、見付からなかった。
 そして、思い当たる最後の場所であるこのダイニング内も探した。が、やはり見付け出す事は叶わなかった。
 どうしよう。どうしよう。この言葉ばかりが、ハクトの脳内を延々と流れ続ける。
 許せない。自分が、許せない。
 どうしてあんな、自分の命よりも大切な指輪を失くしてしまったのか。あんなにも、大切な――今は亡き最愛の母の形見の1つである指輪を、どうして自分は失くしてしまったのか。
 母が残した形見の中で、最も持ち歩きに適した指輪というアクセサリー。ハクトはそれを、家にいる間も出掛ける時も欠かさずに持っていた。
 普段は汚さない様にと柔らかな衣類のポケットやポシェットの中に仕舞って、時折取り出しては眺める。眺めて、亡き母に想いを馳せる。これが、ハクトの長年の密やかな日課だった。
 ハクトの身が、弱々しく小刻みな震えを帯びる。
 血の気の引いた顔を俯けて、ハクトは殆ど放心に近い状態で床を見詰め続ける他なかった。

 * *

 クルーエルがリビングに戻って来た時、そこには異様な空気が漂っていた。
 どこがどう異様なのか、クルーエルの言葉では上手く説明出来ない。クルーエルに言えるのは、ただ何かが可笑しいという事くらいだ。
 普段の明るいリビングの空気ではなく、かといって番人として命懸けで戦っている時の張り詰めた空気ともまた微妙に異なる気がする。
「ソフィー?」
 クルーエルのより近くにいたソフィアに、控え目に声を掛ける。
 モップを持つ手を止め、立ったままの状態である方向をなんとも言えない表情で見詰めるソフィア。彼女の見詰める先には、こちらに背を向ける形でダイニングに座り込んだハクトの姿があった。
「ソフィー、何かあったの?」
「それが……」
 クルーエルを横目に捉えながら、ソフィアは言葉を濁す。
 不審に思いつつも再び視線を戻したクルーエルは、ここでようやく決定的な異変に気付いた。
 座り込んだハクトの身が、小刻みに震えている。
 クルーエルは、この震えを知っていた。この震えは決して気温や体調などから来るものではなく、強烈なマイナスの感情から来るものだと。
 何故なら沢山の悲劇と犠牲を伴う番人の仕事の中で、被害者や犠牲となった者達の遺族が良く見せていたものと極めて似ているからだ。
 だからなんとなく、クルーエルにも分かった。どうしてハクトがこんな事になっているのかまでは、流石に分からないが。
 座り込んで頭を垂れ華奢な身体を震わす今のハクトは、普段の強気な態度からは想像も出来ない。クルーエルには、ハクトの背中がいつになく小さく見えた。
「探し物を、されてるみたいなんです。けど……」
「見付からない?」
「……はい」
 なんとか、状況はだけは把握した。では、その探し物とはなんなのだろう。
 クルーエルが引き続き、控え目に問おうとした時だった。

「姉さん、いる?」

 リビングの扉が静かな音を立てて開かれ、時を同じくして聞き慣れた少年の声が室内に飛び込んで来る。クルーエルはその不意打ち故に思わず飛び上がりそうになった。
 やむを得ず言葉を飲み込んだクルーエルは、ソフィアと共に一斉にそちらを振り返った。
「! セキア」
「ああ、クロも来てたんだ」
 扉の向こうから現れたセキアが、いつもながらの表情に乏しい顔をクルーエルへと向ける。
「姉さんは――いる、みたいだね」
 それから程なくしてハクトの後ろ姿を見付けたらしいセキアは、迷う事なくそちらへと足を踏み出した。
 果してあの状態のハクトに話し掛けて良いものかと不安を抱いたのはクルーエルだけではないらしく、隣にいるソフィアの表情も酷く不安げである。
 ソフィアは複雑な面持ちでクルーエルと暫し顔を見合わせるが、かといってセキアに制止の声を掛ける様な素振りも見せない。ただ、セキアとハクトの後ろ姿を見守るのみだ。
 少し悩んだ末、クルーエルも彼女に倣い大人しく2人を見守る事に決めた。
「姉さん」
「……」
 ハクトの様子を覗き込む様にして斜め背後に立った、セキアによる静かな呼び掛け。ハクトは、答えない。
「姉さん」
「っ、煩いわね……!」
 再度の呼び掛けが来るなりがばりと大袈裟な動作で顔を上げ、険しい双眸でセキアを睨め上げるハクト。
「あたしは今それどころじゃないんだから、ほっとい」
 ハクトの台詞が、不自然な箇所で途切れる。
 ハクトと目線を合わせるべくしゃがみ込んだセキアの手の中で、何かが光っているのをクルーエルは見付けた。
 ここからでは、はっきりと形やデザインが認識出来ないほどに小さな金色の――否、白金色の物体。白金色のそれは、良く目を凝らして見れば輪状をしている様だった。
 指輪。クルーエルはようやく、その白金色の物体の正体に思い至る。
 セキアが水平に開いた自らの掌に載せた指輪を、ハクトの目前に翳している。ハクトの瞳が、大きく開かれる。
 突然の事に、思考が追い付いていないのだろう。ハクトは瞳を見開て暫しその場で固まった後、やがて恐る恐るといった動きで自分の掌をセキアのそれへと差し出した。
 白金色の指輪がゆっくりとセキアの掌から滑り落ち、直ぐ真下に到達したハクトの掌へと載せられる。
「廊下の隅の……凄く、見え辛いとこに落ちてた。もう、失くさない様にね」
 セキアはこの一連の動作を無事見届けるなり立ち上がって、自らの掌に載った指輪を凝視するハクトに言った。いつもと同じ様に見えて少し違う、不器用な微笑を浮かべながら。
 ハクトは礼を言う余裕すらないままに指輪を強く抱き締めて沈黙していたが、それに対しセキアが何かを言う事はなかった。
 何も言わずに踵を返して静かにリビングを去って行くセキアを、クルーエルはソフィアと共に目で追った。しかしながら、結局彼の背中に掛ける言葉はただの1つも見付ける事が出来なかった。
 クルーエルは、まだ知らない。
 あの指輪が、ハクトにとって何を意味する物なのかも。去り際に見せたセキアの笑みが、どこか寂しげに見えた理由も。

 * *

 その夜。セキアは自分が勝手に喋った事をハクトに内密にするのを条件に、あの指輪が今は亡き母の形見である事をソフィアやクルーエルに話してくれた。
 だが話してくれたのは本当にそれだけで、その他の事情について彼は一切口を割らなかった。
 文句を言うつもりは、毛頭ない。けれども、2人は少しばかり悲しんでいた。
 自分達がまだセキア達にとって過去を打ち明けて貰えるほどの存在になれていない現実が、ソフィア達には悲しかったのだ。


‐終‐


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あきゅろす。
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