第0話 鴉と兎‐傷跡‐
「あー、イライラする。だから、この時期は嫌いなのよっ」
 入れたてのアッサムに大量のミルクとガムシロップを注ぎ込みながら、ハクトは不機嫌も露わに酷く苛立たしげで重苦しい溜息を吐き出した。
 ソーサーに置かれた小型のスプーンで乱雑にカップの中のミルクティーを掻き混ぜ、そのまま一気に半分ほどを飲み干す。そして些か乱暴とも言える手付きでカップをソーサーの上に戻すと、再び先と同等の溜息を吐き出す。
 彼女の向かいの席に腰を下ろしたクルーエルが、そんなハクトに困惑の眼差しを向けていた。彼はハクトが何か大きな音や声を発する度に驚いた様な戸惑った様な複雑な表情になり、落ち着きなくハクトの様子をちらちらと盗み見ていた。
 ハクトはそういったクルーエルの挙動に気付いてはいたが、敢えてそれを無視した。面倒だというのも理由の1つではあるが、それだけではない。1番の理由は、彼に余計な事を悟らせない為だ。
 これは飽くまで、自分達の問題。必要以上に他人を巻き込むつもりは、毛頭ない。
「ハクトさん、少し落ち着かれた方が……」
 ハクトの隣席で黙々と紅茶を啜っていたソフィアが、控え目ながらも窺う様に声を掛けてくる。一向に機嫌の直らないハクトを見て、流石に思う所があったのだろう。
 そうやって、普段にも増してソフィアがハクトを気に掛けてしまうのも無理はない。他に類を見ないほどに熱し易く冷め易い性格をしているハクトの不機嫌が、ゆうに数時間も続いているのだから。
「……分かってるわよ」
 こめかみを押さえながら、ハクトはなんとかそれだけを返す。
 沈黙に覆われたダイニングで、3人がそれぞれの面持ちでそれぞれの時間を過ごしていた。ある者は、苛立ちながら。ある者は、沈黙しながら。ある者は、困惑しながら。
 今の彼女らには一片の笑顔すらなく、会話すらも必要最低限に抑えられていた。一種の気味の悪さを感じさせる、この面子にしては随分と異質な光景。その原因は、ここにいる誰もが知っている。
「あの、ハクトさん」
 束の間の沈黙を破ったのは、ソフィアだった。暗く伏せられた瞳で無心にテーブルを見下ろす彼女の声は、確かな憂いの色を帯びていた。
「その……セキアはさんは、まだ?」
「ええ、相変わらずよ。昨日からずっと、あの調子」
「そう、ですか」
 ハクトからの素っ気ない返答に、ソフィアは既に曇っていた表情を更に曇らせながら静かに俯く。それを横目に見ながら、ハクトはテーブル上の小皿から一口サイズのチョコレートクッキーを1枚摘み取って口内へ投げ入れた。そして、言った。
「クロ。ちょっとあの子の様子、見て来て貰えるかしら」
「! あ、うん。分かった」
 唐突に声を掛けられたクルーエルは戸惑いを露わにしつつも立ち上がり、ダイニングを出て直ぐの所にある階段を目指し足早にこの場を歩き去って行く。そんな彼の後ろ姿を見送ってから、ハクトは本当に本当にささやかな声で一言呟いた。
「馬鹿な子」
 ほんの僅かに震える、ハクトの声。その密かに呟かれた言葉を聞いた者は、いない。

 * *

 セキアは毎年、この時期になると体調を崩しがちになる。
 まだ付き合いの浅いクルーエルがこの事実を知ったのは、つい先日の事だ。
 セキアが部屋から出て来ないという不可解な日々が目立ち始めたある日、クルーエルは思い切ってセキアの姉であるハクトに淡い期待を寄せて事情を尋ねてみた。そんなクルーエルに対し、ハクトは露骨に渋い顔をしながらただそれだけを教えてくれたのだ。
 何故、体調不良が続くのか。何故、この時期なのか。残念ながらその辺りは、ハクトの巧みな話術によりはぐらかされてしまい聞き出す事は適わなかった。後になって聞いた話だが、クルーエルよりもセキア達との付き合いが長いソフィアもこれについては教えて貰えなかったらしい。
 これは飽くまでセキア達の問題、という事なのだろうか。ただの同居人でしかない自分達が、彼らの事情に踏み込むべきではないという事なのだろうか。
 だがどんなにそれが正論であると分かっていても、胸中を渦巻く寂しさは拭い切れるものではない。クルーエルにとってもソフィアにとっても、セキア達は家族以上の存在なのだから。
 人間ほどの強い感情を持たないクルーエルですら、これだ。人間と同じくしっかりとした感情と人格を持つ上、セキアに対し好意を抱くソフィアの寂しさは計り知れない。
「セキア、起きてる?」
 廊下の突き当たりにあるセキアの自室の前に立ったクルーエルは、目前にある閉じられた扉を控え目にノックした。しかし、室内からの返答はない。閉ざされた扉の向こうは、依然として静寂に満ちている。
「寝てる、のかな?」
 もしくは、返事をする気力もないほどに弱っているのか。そんな洒落にならない想像を思考から追い出しつつ、クルーエルは暫し立ち往生したまま意味もなく扉と見詰め合った。
 眠っている所を起こしてしまうのは、少なからず気が引ける。しかし、今は状況が状況だ。万が一の事態を考えると、そんな呑気な事も言っていられない。それにセキアを心配するハクト達の事を思うと、やはりこのまま何もせずに立ち去るのは憚られる。
「……よし」
 ここに来てようやく意を決するに至ったクルーエルは、閉ざされた扉へ緩慢な動作でその細い腕を伸ばした。
 電灯に照らされて鈍いオレンジ色の光沢を放つドアノブを掴み、ゆっくりと捻る。音を立て過ぎない様にと細心の注意を払いつつ、握ったノブをこちら側へと引き寄せていく。
「セキアー?」
 控え目に名前を呼んでみながら、クルーエルは扉を開ける事で露わになった室内へと緩やかに足を踏み入れた。呼び掛けへの返答はなかったが、室内に入る事で微かに聞こえ始めたセキアのものと思わしき寝息にクルーエルは密かに胸を撫で下ろす。
 扉を閉めるのすら忘れて、セキアが眠っているであろう部屋の西側に設置されたベッドへと歩み寄る。覗き込んでみるとそこには、身体を仰向けに横たえ規則的な寝息を立てるセキアの姿があった。
 顎の辺りまでを毛布で覆い尽くしたセキアの瞳は今は完全に閉じられていて、少なくとも現時点で彼が目覚める気配は感じられない。
 どうしたものかと思考を巡らせようとした丁度その時、クルーエルの視界の端に何かが映った。瞬時に湧き上がった、小さな違和感。
「これは……」
 ベッドの直ぐ脇に設置された、なんの変哲もない至ってシンプルなミニテーブル。そこに観葉植物と共に置かれた、何故か伏せられた状態の写真立て。何かの拍子に、倒れてしまったのだろうか。
 不思議には思うものの特に深く考える事もなく、クルーエルは写真立てにすっと自らの手を伸ばした。そのまま軽く持ち上げて隠されていた表面を覗き込むと、そこにあったのは若い女性の写真。優しげに微笑むその女性の正体を、クルーエルは知っていた。
 この女性はセキアやハクトの、今は亡き実母に当たる女性だ。思い出すのに数秒の時間を要してしまったが、間違いない。
 クルーエルはこれとほぼ同じ写真を、以前ハクトに見せて貰った事があった。
 この女性の事を語る時のハクトの声と表情は、普段の強気で高飛車な振る舞いからは想像し難いほどに穏やかなものだった。ハクトがこの女性を心から愛しているという事実がひしひしと伝わって来たのを、クルーエルは今でも鮮明に覚えている。
 あのハクトが、あれほどまでに褒め称えるのだ。余程、素敵な女性だったのだろう。
「――それ、伏せといて」
「うわっ!」
 余りにも唐突に掛けられたその声に、クルーエルは驚きの余り写真立てを持った右手の力を自身でも気付かぬ内に緩めてしまう。咄嗟に左手を使って支えたので床に落として壊してしまうまでには至らなかったが、本当に危なかった。
 床に落としてしまわない様にと慎重に慎重を重ねた末にやっとの思いで写真立てをテーブル上に立て直す事に成功したクルーエルは、ここでようやく声が飛んで来た方向――セキアが眠っていたベッドの方へと、向き直る事が出来た。
 つい先程までは完全に閉じられていたセキアの瞳はいつの間やらうっすらとではあるが開かれていて、具合が良くないせいか暗く虚ろな眼球が力なくクルーエルの姿を捉えていた。
「ごめん、セキア。起こしちゃった?」
「良いから、伏せといて」
「え? でも」
「伏せて」
 力の籠もらない声で、不可解な事をセキアは言う。そんな彼の意図が全く理解出来ないクルーエルではあったが、結局は写真の持ち主である彼の意思に従う他ない。だが、当然ながら納得は出来ない。
 何故、こうやって伏せておく必要があるのだろうか。ハクトとは対称的に、セキアにとって実母はさして大切な存在ではないという事なのだろうか。
「嫌い、なの? この人の事」
 無意識の内に口を衝いて出て来た、余りにも率直な問い。断じて意図的なものではなかったが、それでもクルーエルは後悔の念に駆られた。ただでさえ弱っている相手に、問い掛けるべき内容ではなかった。
 しかしながら、当のセキアはほんの僅かたりとも動じる素振りを見せなかった。飽くまで、見せなかっただけなのかも知れないが。
「――違うよ」
 ほんの少しの間を置いた末に、セキアはクルーエルからの問いをただ一言で否定した。その顔からも声からも、一切の感情を読み取る事は出来なかった。
「違うんだ」
 セキアは力なく、ただ繰り返す。そして最後に、こう付け加えた。
「でも、今は……合わせる顔がない」
「セキア……?」
 何か言わなければと思う反面、焦りと緊張が先走って掛けるべき言葉が何1つとして浮かんで来ない。そんなクルーエルの内心での葛藤を余所に、セキアはそれきり黙り込み再び瞳を堅く閉ざしてしまう。もうそれ以上は何も、話すつもりはないとでも言う様に。
 室内に、静寂が戻る。半ば呆然とセキアの寝顔を見下ろすクルーエルにはもう、何も言う事が出来なかった。


‐終‐


【前*】【次#】

あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!