第2話 罪と罰より‐血の祭‐
※このページの文中には過度の暴力シーンや流血シーン、及びグロテスクな描写が含まれています。


【前編】


 言葉にならない。ヨハネスとはまた別の類の激情が、ロザリンドの胸を容赦なく締め付けていた。数々の負の感情の嵐に、吐き気がする。
 100年ほど前のあの事件以来、自分の身と心を守る為に続けていたひっそりと隠れ住む生活が、結果として無関係な吸血鬼達を死に追い遣ってしまった。
 もしロザリンドが身を隠す事なく堂々と生きていれば、この街の吸血鬼達は死なずに済んだかも知れない。そうでなくても、少なくとも彼らがロザリンドをおびき寄せる為の餌にされる必要はなかった筈だ。
「そんな……私が……」
 絶望感から零れた、無意識の呟き。双眸が仄かな熱を帯び、呆然と俯いた視界を微かに歪ませた。眩暈がした。
「ロージィ」
「!」
 前方を見据えたままのヨハネスに名を呼ばれ、はっと顔を上げる。
 ヨハネスは先程レムに向けたものとは大きく異なる、静かな声で断言する。
「お前は、何も悪くねえよ。全部、あいつが悪いんだ」
「で、でも……私が逃げたから……っ」
「違う。お前のせいじゃねえ」
 悲痛や絶望に晒されて震えが止まらない声で訴えようとしたロザリンドの台詞を、ヨハネスは強い口調で遮る。
「お前のせいじゃねえ」
 念を押す様に、繰り返し断言するヨハネス。
 彼の視線の先に立つレムという名のダンピールは、依然として邪悪にまみれた狂気の笑みを浮かべて悠々とこちらを見返している。心の底から、楽しそうに。
「お前はただ、仲間の為に戦っただけじゃねえか」
 淡々と、ヨハネスは言う。
「あいつは昔、お前の仲間の吸血鬼を殺しまくった。だからお前は、これ以上被害が出ない様に反撃に出ただけだろうが」
「……」
 ヨハネスの言っている内容は、紛れもない事実だ。が、それでもロザリンドの心は晴れない。
 あの日、仲間達を救えなかった自分。あの日、レムを仕留め損ねた自分。今日まで、レムから逃げ続けていた自分。
 こんなにも不甲斐なく、弱い自分が許せなかった。自分がもっとしっかりしていれば失われずに済んだ命があるのではないかと、思わずにはいられないのだ。
 故にロザリンドは、押し黙る事しか出来なかった。
「――お話は、それで終わり?」
 そのレムの一声と同時に、場の空気が変質した。強烈な悪意と殺意に満ちた、異空間に。
 ぞくりと、身の毛もよだつ寒気がロザリンドを襲った。一瞬にして全身に鳥肌が立ち、自分の顔が輪を掛けて強張ってゆくのを感じた。
 レムが放つ殺気は、おぞましい不協和音となって他者の心に言い知れぬ不安と恐怖の根を植え付ける。凄まじい恐怖に心が悲鳴を上げ、ここから逃げ出したい衝動に駆らせる。
 クルーエルの両肩が一瞬震え、セキアの短剣(ダガー)の切っ先とヨハネスの銃口が同時にレムの方へと突き付けられた。レムの殺気に圧倒されたのは、彼らも同じなのだ。
「ねえ、ロザリンド。レムの身体に付いた傷、まだ消えてないんだよ? だから、ただでは殺さない。いっぱい痛め付けて、苦しめた後で殺してあげる」
 満面の笑顔でロザリンドを見詰めながら、レムは悠長な足取りでこちらへ歩み寄って来る。ヨハネスやセキア達の身体に、力が入った。
「ヨ、ヨハン……!」
「大丈夫だ、ロージィ! 下がってろ!」
 ロザリンドの悲痛の言葉にさえ、構ってはいられない。そんな心情がありありと窺えるくらい、今のヨハネスの声には焦りと緊張が満ち溢れていた。
 ヨハネスも、気が付いたのだ。近付いて来るレムの両手の爪全てが鋭利な刃の様に尖り、彼女の腕1本ほどの長さまで伸びている事に。
「狡いよ。ロザリンドばっかり、皆に愛されて。人間からも、吸血鬼からもね!」
 ここに来て、初めてレムの顔から笑みが消えた。代わりに現れたのは、凄絶な憎悪の色。
 来る。一同の緊張が極限に達した時、長く沈黙していたセキアがおもむろに口を開いた。
「足止めして」
 恐らくはクルーエルとヨハネスに向けて、セキアはそう囁いたのだ。
 クルーエルが頷き、ヨハネスが無言のままレムの足元への射撃を開始する事で了解の意を示すと、セキアは速やかに短剣を真横にスライドさせてゆっくりと息を吸い込んだ。
 クルーエルとヨハネスがレムの足止めをしている間に、セキアがなんらかの大技を放つ作戦なのだろう。
 だが――そこで、ロザリンドはふと気付いた。直ぐ近くにいる筈のアウストの姿が、どこにもない事に。
「え……?」
 想定外の事態に言葉を失いながらも、ロザリンドの瞳は反射的にアウストの姿を探していた。そしてまた、彼女は別の事態に気付く。
「セキアさん、危ない!」
 気付くなり、は叫んでいた。
 アウストを探すロザリンドの視界に飛び込んで来たのは、魔術に集中するセキアの背後に忍び寄る黒い影だった。
 ロザリンドの叫びを聞いたセキアは即座に反応して黒い影に目を遣ろうとするが、僅かに間に合わなかった。
 人の形をした黒い影がセキアに飛び掛かり、体当たりを仕掛けた。
 戦いに集中していたセキアは、為す術なく黒い影と共に硬く冷え切った床にうつ伏せに倒れ込む事となった。
「うっ!」
 セキアの押し殺した呻きと、彼の左手から滑り落ちた短剣が床に叩き付けられる金属特有の音が室内に響き渡った。
「! セキ――」
「う、動くな……!」
 咄嗟にセキアの元へ駆け寄ろうとしたクルーエルを、黒い影が制する。
 小刻みに震える、気弱そうな男性の声。この声には、聞き覚えがあった。
 ロザリンドは倒れたセキアの姿を目で追って、戦慄した。
 セキアに体当たりを仕掛け、今まさに彼の身体にしがみ付いて動きを封じている黒い影。その正体は、ブルーノ=アウストに他ならなかったのだ。
 一様に驚愕し、一時的に各々動きを停止させるロザリンド達。
 アウストは青ざめた顔を引きつらせ、見開いた双眸でセキアを見下ろし、彼の頸動脈に1本のナイフを宛てがっている。
 一連の行動の意図を、アウストに問いただしている時間はなかった。
「ヨハンっ!」
 ロザリンドがまだ聞いた事のない、切羽詰まった調子のセキアの声が木霊する。
 はっと我に返ったロザリンド達の瞳に映し出されたのは、こちらのほんの微かな隙を突いたレムが超人的なスピードで突進して来る光景だった。
 瞬く間にこちらの目と鼻の先まで距離を詰めたレムは、早くもロザリンドを斬殺するべく大きく腕を振り上げていた。長年の恨みを晴らせる、歓喜の笑みを携えて。
「ひ……っ」
「ロージィ!」
 絶大な怯えに凍り付いて動けなくなったロザリンドに容赦なく迫る、レムの爪。

 べりっ!

 刹那、肉を引き千切るおぞましい音がロザリンドの聴覚を支配した。
 しかしながら、ロザリンドの小さな身体にはなんの苦痛も発生しなかった。
 条件反射に閉ざした瞳を、恐る恐る開く。ロザリンドのその瞳は間もなく、地獄を映し出す。
 見えたのは、ヨハネスの背中だった。腕を振り上げたレムと凍り付くロザリンドの間に割り込み、両手を広げて立ち塞がったヨハネスの背中だった。
「――!」
 発砲が間に合わないと判断したヨハネスが、ロザリンドを庇ったのだ。彼が上げた筈の悲鳴は、声にもなっていなかった。
 切り裂かれたヨハネスの身体から迸った深紅と、彼の口内から溢れ出した深紅が床上に大量にぶち撒けられ飛び散った。一瞬遅れて、吐き気を催すほどの鉄の臭いが辺り一面に沸き上がる。
「ヨ……ハン……?」
 床上に出来た自らの血の海に仰向けに身体を沈めるヨハネスの姿を、ロザリンドは呆然と見詰めていた。
 そして、絶叫した。


‐前編 終‐


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あきゅろす。
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