第0話 鴉と兎‐schwarzwald‐
 森があった。とうに太陽がその姿を隠した、夜色に包まれた森が。淡く儚い月の光に照らされた、薄暗い森が。
 炎があった。僅かな月の光に照らされた森の中で、唯一の力強い生命の光を放つ炎が。悪夢の様な奇声と共に燃え上がる、人外の者の生命を残さず喰らい尽くす悪夢を思わせる灼熱の炎が。

 森の奥深くに、1人の妖精が息絶えていた。その全身を灼熱の炎に覆われ、焼かれ、焦がされ、見る見る内に黒一色へと変色していく妖精が。
 妖精を喰らい尽くす炎の前方に、4つの人影があった。2人は男性で、2人は女性。多少の差はあれど、4人の男女はそれぞれが青少年であると主張してもまるで違和感がないほどに若い外見をしていた。
 1人の少年と1人の少女は炎を目前にして立ち、無表情に炎の中の妖精を見詰めている。4人の中で最年少らしき少女は、悲しげな表情で俯いて2人の後ろに控えている。更にその後ろに立つ最年長らしき青年は、複雑な表情で遣り場のない視線をせわしなくあちらこちらへと彷徨わせている。
 炎は少しずつ、少しずつその力を弱めていく。炎の中の妖精の姿は最早、判別する事すら出来ないほどにその原形から掛け離れていた。
「――帰りましょう」
 4人の内の1人。炎の前に立つ彼女が、小さな溜息を1つ吐きながら言った。
「いつまでもここにいたって、時間の無駄だわ」
 彼女は至って落ち着いた調子で、少しの躊躇いすら見せず先程まで凝視していた妖精に背を向けた。ブーツを鳴らしながら足を踏み出し、緩慢な動作で歩き始める。そんな彼女の隣に立っていた彼も、無表情のまま彼女の後へと続く。
「ほらっ! 行くわよ。ソフィー、クロ!」
 彼女は未だ俯いて動けないでいる1人の少女と、微かな戸惑いの色を浮かべてこちらを見詰める1人の青年をすれ違い様に急き立てる。だがそれでも2人は、各々の感情と動機からその場を動かなかった。彼女が自分達の脇を通過し徐々に距離を離して行っても、その場から一歩も動こうとはしなかった。

「この世界には、無数の生命がある」

 彼女に少しの遅れを取って歩いて来た彼は、動かない2人の丁度脇に並んだ所でピタリと足を止めた。
「無数の生命があるという事は、無数の思想や感情があるという事でもある」
 無表情のまま、抑揚のない声で彼は2人に語る。無言のまま、2人はただそれを聞く。一拍置いた後、彼は最後にこう続けた。
「噛み合わない事や、分かり合えない事なんて幾らでもあるんだ」
「でも……」
 静かながらも力強い彼の言葉に、少女が何かを言い掛けて止める。再び黙り込んでしまった少女を、青年が怪訝そうに見下ろす。
「クロ。ソフィーを連れて来て」
「え? あ、うん」
 青年に命じるなり、彼は随分と先に行ってしまった彼女を追って歩みを再開した。少しだけ歩幅を広げながら、振り返る素振りを見せる事なく歩いて行く。
 少女と共に取り残された青年は、承諾はしたもののどうすれば良いのかが分からないといった様子で、戸惑いの色を浮かべながら彼と少女を交互に見遣った。
 彼女と彼の後ろ姿が殆ど見えなくなってしまった後も、青年と少女はその場から動かなかった。厳密に言えば、それぞれの理由から動く事が出来なかった。
 少女と共にしばしの沈黙を強いられた青年は、普段滅多に感じる事のない居心地の悪さを感じていた。実際はほんの数秒であろう短い筈の沈黙を、途方もなく長いかの様に感じさせる重苦しい空気。人間ほどしっかりとした感情を持っていない『魔人』である青年でさえ、多少なりともそういったマイナスの感情を抱いてしまう。
 どうしたものかと思案する青年の眉が、微かに下がる。基本的な感情しか持たない青年には、少女がこんなにも思い悩む原因が分からない。こんな時にどうすれば良いのかが、全く分からないのだ。

「クロさん」

 物思いに沈んでいた青年の意識を、聞き慣れた声が呼び戻した。
 声の主は、青年の思案の種であった少女。いつの間にやら顔を上げ、青年の顔を見上げている。今の少女の表情は先程までとは打って変わり、何か強い意志を見る者に感じさせる凛々しいものであった。少女はいつもの優しく包み込む様な笑顔を浮かべて、言った。
「わたしは、もう大丈夫です。心配を掛けてしまって、ごめんなさい」
 そうして、深々と頭を下げる。青年は突然の少女の変化に内心戸惑いながらも、少女が顔を上げるのと同時にいつもの不器用な笑顔を作ってみせた。
「それじゃあ、帰ろうか。セキアと、ハクトに追い付かないと」
「はい」
 そう明るく頷いた少女からは、もう先程までの迷いは見えない。どちらからともなく、2人は元来た夜道を歩み始めた。
「ねえ、クロさん」
「ん?」
「今はまだ無理でも……いつかきっと、分かり合える日が来ますよね」
 何処か遠くを見る様な目をして、少女が青年に問い掛けた。独り言にも聞こえるその僅かな声に、青年はしかしはっきりと答えた。
「来るよ」
 どうして自分がこんなにもはっきりと意志を持った台詞を吐く事が出来たのか、青年は自分でも瞬時には理解する事が出来なかった。それはただ、無意識に口を突いて出て来た言葉なのだ。
「そうですよね」
 少女は心底から嬉しそうに、声を弾ませた。
「うん、きっとね」
 青年は答えた。そして――もしかしたら自分も、この少女の様にそうなる事を望んでいる1人なのかも知れない。漠然とそう思った。

 * *

 死した妖精の眼球があったと思わしき空洞が、去りゆく2人の背中を食い入る様に見詰めていた。徐々に弱まっていく炎の中で、妖精の身体はゆっくりと崩れていった。2人を見ていた空洞は、夜空を仰ぐ。
 最後の2人が去った。とうとう無人と化した深い夜の森の中で妖精を焼き尽した忌まわしき炎は、音もなく跡形もなくこの世界から消失した。


‐終‐


【前*】【次#】

あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!