第2話 罪と罰より‐始動‐
【前編】


「良い? あんたの無駄口に付き合うつもりはないから、単刀直入に言うわ」
 ソフィアが命じられた紅茶を入れる準備に取り掛かったのと、普段以上に不機嫌な声で発せられたハクトの刺々しい台詞が聞こえ始めたのは同時だった。
 このハクトの声が、電話の向こうにいる『情報屋』に向けられているものだという事は、ソフィアも分かっている。けれど、ハクトの刺のある言葉は誰に向けられていようとも耳に入るだけで心臓に悪い。
 内心で冷や冷やしながらも、ソフィアはハクトの為にわざわざ持参した彼女ご用達の茶葉をミニバックから取り出す。
 ブランケンハイム家の一員となってから、早数年。ソフィアはその間1日も欠かす事なく、温かい紅茶を提供し続けてきた。
 最も美味しくなる分量の茶葉と湯を使い、ポットからティーカップへと注ぐ。ティースプーンの載ったソーサーに加え、ミルクや砂糖と共に少量の茶菓子をトレイに載せる。
 手慣れたものだ。ハクトの嗜好をとうに把握しているソフィアにとって、それらの動作は呼吸をするも同然の作業と言って良いだろう。
 ソフィアがトレイを持ってハクトの元に戻った頃には、既に通話は終わっていた。ハクトは僅かに視線を落として、何やら物思いに耽っている様子だ。
「ハクトさん? お茶、お持ちしました」
「ん。ここ、置いといて」
 おずおずと話し掛けてみた所、ハクトはこちらを見ないままソファー前のミニテーブルを指先で叩いて見せた。一応、ソフィアの声は届いている様だ。
 ハクトの指示に従い、トレイを置きにそちらへ歩み寄るソフィア。背後に第三者の気配が現れたのは、直後だった。

「忠実な召使いをお持ちの様で、羨ましい限りですわ」

 突如として自分の真後ろから聞こえて来た台詞に、ソフィアは驚きの余り思わず悲鳴を上げそうになった。
 恐る恐る振り返ったソフィアの視界に入ったのは、若い人間の姿をした長身の女性だった。
 ハクトの仏頂面とは真逆と言って良い、まさに『おっとり』と表現するに相応しい柔和な笑みを湛えた女性は右手に大杖を、左手には書類らしき数枚の用紙を携えている。
 目の前の女性はソフィアもほんの数回だけ会って話をした事がある顔見知りで、現在はデンマークを拠点に極めて重要な活動を続ける番人関係者の1人だ。
「じょ、情報屋さん……!」
 このおしとやかな女性こそが、つい先程までハクトと通話をしていた『情報屋』に他ならない。彼女の人間界での名を、メリッサ=ベルトラムという。
「あらあら、そう驚く事はありませんのよ?」
「普通、驚くでしょ」
 言葉では言い表せないほど吃驚して固まってしまったソフィアを見下ろす情報屋を、ハクトの冷めた瞳が捉える。
 だが情報屋は天使の様な微笑みを尚も継続させ、ハクトの刺のある視線と声を何事もなかった様に流してしまった。
「必要な情報は、これだけでよろしくて?」
 軽い足取りでソフィアの横を通り過ぎた情報屋は、テーブルの上に用紙を重ねてハクトに差し出した。
 ハクトは渡された用紙にざっと目を通してから、愛想の欠片もなく「充分よ」とだけ答えた。
「用は済んだんだから、さっさと帰りなさいよ」
「まあ、酷い」
 ハクトのぞんざいで辛辣な台詞に、口ではそう言いながらも情報屋の物腰は変わらない。
「行き過ぎた天邪鬼は、いつの時代も想い人を遠ざけるばかり……」
 突拍子もない事を呟き始めた情報屋の空いた左手が、不意にソフィアの手元へと伸びる。こちらに瞬時の反応をさせない、余りにも自然な動作だった。
「あっ!」
「なっ……ちょ、それあたしの!」
 ソフィアが持つトレイから、紅茶の入ったティーカップだけが情報屋の手によって奪われた。大きく反応を遅らせたソフィアが状況を飲み込むのと、ハクトが床を蹴って立ち上がるのは同時だった。
 ソフィアとハクトが困惑と抗議の声を上げる中で、涼しい顔をしてカップの紅茶を飲み干す情報屋。彼女はすっかり空になったカップをソーサーの上に戻すと、静まり返った室内で満面の笑みをその顔に咲かせながら言う。
「ご機嫌よう。今後とも、どうぞご贔屓に」
「あんたは1回、死んで来なさいっ!」
 情報屋が右手の大杖を振り翳した刹那、柔らかな風が瞬く間に彼女の全身を包み込んだ。空気の妖精エアリアルである、彼女の力だ。
 風が収束した時そこに情報屋の姿は既になく、彼女が姿を消す間際にハクトがぶん投げたクッションが虚しく空を切っただけだった。

 * *

 そこら中を探せば幾らでも見付ける事が出来る、なんの変哲もないごくありふれた集合住宅地。その内にある1つ、グレーをベースに着色が施されたコンクリート製小型マンションの前にヨハネス達はいた。
「2階の、向かって右端の部屋だな」
 走り書きの即席メモを確認しつつ、ヨハネスは言う。
 傍らを見れば不安げな面持ちのロザリンドと、特に表情のないセキアとクルーエルがいる。3人がちゃんと付いて来ているのを確認しつつ、ヨハネスは進む。
「あれ……? あそこにいるのって」
 間もなく、クルーエルが何かに気付く。
 マンションの出入口に向けられた彼の視線を追った所、マンション内部へと繋がる硝子戸を背に傲然と佇む見知った男の姿があった。
 一見すると普通の人間にしか見えないながらも、一切の感情が存在しない人形の様な瞳。人間はおろか、番人達ですら顔を合わせるのを億劫に感じるほどの近寄り難さが彼にはある。
 司令官の存在を認識すると共に、彼が何故ここにいるのかをヨハネスは瞬時に理解した。
「彼は確か、司令部の……?」
「ああ。本当、どこにでも現れんだよ。あの司令官」
 密かに囁き合う、ロザリンドとヨハネス。
 目の前に立つあの男こそが、形の上ではヨハネス達の上司に当たる司令部の一員。ほぼ全ての個人情報が公表されていない、自称ウォーレン=アームストロング司令官である。
 程なくして、司令官の方もこちらに気が付いた様だ。ある程度こちらとの距離が縮まるのを見計らった後、彼は即座に何食わぬ顔で声を掛けてきた。
「来たか。ご苦労だった」
 出入口の前で立ち止まったヨハネス達を、司令官の事務的な労いの言葉が迎える。
「お久し振りです。アームストロング司令」
 司令官の事務的な労いの言葉に対し、セキアが同じく事務的な挨拶を送る。
 極めて淡々とした彼らの遣り取りにどこか居心地悪そうに口を噤んでいたロザリンドが、不安げにヨハネスの顔を見上げてくるのが横目に分かった。
「このマンションが、そうなんです?」
 ロザリンドの精神面によろしくない空気は、さっさと断ち切ってしまうに限る。
 ヨハネスは強引にでも話を進めるべく、敢えて分かり切った質問を司令官へと投げ掛ける事にした。
「ああ。今、話を付けた所だ。後は、君達に任せる」
「了解です」
 ヨハネスの試みは、大方成功したらしい。司令官は言うべき事を言い終えるなり早々と身を翻し、ヨハネス達の脇を通り過ぎて行く。
 司令官は擦れ違い様に1度だけロザリンドへと目を向けるも、彼がそれについて何かを言及してくる事はなかった。
「あの人、やっぱり怖い……」
「慣れない内は、そうかもね」
 今度はクルーエルとセキアが、去り行く本人に聞こえない様にこっそりと囁き合う。やはり皆、思う所は同じなのか。
 漠然とそんな事を考えながら司令官の背中を見えなくなるまで見送った後、ヨハネスは速やかにロザリンド達3人を振り返った。
「行くぞ」
「! は、はい」
 緊張も露わに、やや裏返った声で慌てて応答するロザリンド。セキアやクルーエルも続けて頷き、それぞれが了解の意を示した。
 玄関口で目的の部屋に割り当てられたインターフォンを鳴らして身分を明かすと、直ぐ様ロックが解除された。
 ヨハネス達は特に苦労もなく、2階の丁度中心にある部屋の前まで到達した。
 扉は既に半開きの状態で、室内からこちらを窺う様にひょっこりと顔を出していた住人と早速目が合った。
「ブルーノ=アウストさんで、間違いないですね?」
「はい……私です」
 ヨハネスが確認した所、オートロックを解除する際に聞いたものと同じ声をした男性が肯定する。
 扉の向こうから現れたのは、黒縁の丸眼鏡を掛けた見るからに気弱で大人しそうな男性だった。外見年齢は、30代後半から40代前半といった所か。
「皆さんは、その……」
「ええ。番人の者です」
 暗く微かな声でぼそぼそと話す男性ことアウストに軽い苛立ちを覚えつつも、ヨハネスは飽くまで淡々と対応する。
 ヨハネスの言葉にアウストは酷く緊張気味だった表情を僅かながら和らげ、安堵の溜息らしきものを吐く。
「どうぞ、中へ……」
 こちらに向かって一礼した後に、そう言ってヨハネス達を促すアウスト。半開きだった扉は程なくして、彼の手によって開け放たれた。
 ヨハネス達4人は互いに顔を見合わせてから、1つ神妙に頷き合った。


‐前編 終‐


【前*】【次#】

あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!