第2話 罪と罰より‐前途多難‐
 その日は、本当に静かな夜だった。
 風の音も、虫の音もない。更には人の話し声や、足音すらも聞こえない。極め付けには自動車や自転車の走る音すらまばらにしか聞こえて来ないという、まるで深夜と見紛うほどの静けさだ。
 夜とはいえまだ深夜には程遠い時間帯であるというのに、奇妙なものだ。ここが田舎であればまだ分からなくもないが、この家は思い切り街中であると主張しても過言ではない場所に位置している。にも関わらず、この異様な静けさは如何なるものか。
 人は光や音がないと不安になると聞くが、どうやらそれは事実であるらしい。
 幸いな事に、光はある。今自分がいる、この我が家の灯り。周囲にある、建造物の灯り。街灯。
 だが、音はない。音のない世界に今、自分はいる。
 何も、ある筈がない。何も、起こる筈がない。そんな事は分かり切っているのに、拭い去れない小さな不安が胸中に絡み付く。上手くは言えないが、なんとなく気味が悪い。
「――馬鹿馬鹿しい」
 溜息と共に、自分への仄かな嘲笑の言葉を吐き捨てる。
 こんな下らない事を考えてしまう、自分の思考に呆れる。自分で自分の気分を害するなど、馬鹿馬鹿しいとしか形容のしようがないというものだ。
「さて……そろそろ、ハインが帰って来る時間ね」
 部屋全体を覆う清潔な白一色の壁に掛けてある時計を、何気なくちらりと見遣る。時刻は、間もなく20時を迎える。
 1人でいるから、こんな余計な事を考えてしまうのだ。夫が帰って来てくれれば、きっとこの嫌な気分も晴れるだろう。

 こつん。

 唐突な音。何か硬い物が同じく硬い物にぶつかった様な、自分以外に誰もいないこの場にはやや不自然な音だ。
 反射的に芽生えた不信感が、緩み掛けていた脳に再び一縷の不安と緊張を注ぎ込む。僅かながらも不安に駆られた脳が無意識に眼球を動かし、音の出所を探させた。
「……外?」
 徐々に冷静さを取り戻していくに連れて、その音が家の外から聞こえて来た事に理解が及ぶ。
「猫、かしら……」
 だとしたら、取るに足らない。気にする価値もない、ごくありふれた現象だ。不安がる事など、何もない。――そう。本当に、動物の仕業なのなら。

 ばん!

 びくりと、自分の両肩が大きく跳ね上がるのを感じた。先程とは比べ物にならないほどに大きく、強く荒々しい音が室内に轟いたのだ。
 硬い物がぶつり合ったなどという、生温いものではない。それは寧ろ硬い物を力一杯殴り付けたかの様な、一瞬ながらも激しい音。耳をつんざく様な、恐るべき轟音だ。
 何だ? 何があった? 思考ばかりが、空回りする。
 全身に立つ、鳥肌。沸々と湧き上がって来る、この言い知れぬ胸騒ぎ。おぞましい。恐ろしい。
 1人で家にいる事を、ここまで怖いと感じた事はない。夫は、まだか? 夫はまだ、帰らないのか?
 早く、早く帰って来てくれ。祈る様に望みを掛け、間もなく帰って来るであろう夫の姿を探すべく窓の外へと目を遣ろうとして――見てしまった。
「ひっ!」
 条件反射で上げた、悲鳴。後退ろうと下げた足が恐怖の余り絡まり、その場に尻餅を突いた。
 外へ目を遣るよりも一瞬早く、全く違う物体が勢い良く視界に飛び込んで来たのだ。窓に貼り付く、逆さまの少女の姿が。
「あっ……あ……!」
 完全に腰を抜かし、立つどころか這う事すら出来ない。ただただ双眸を見開いて、がたがたと身を震わせながら窓を凝視する事しか出来ない。
 逆さまに窓に貼り付いた少女はその小さな両手をべったりと窓に密着させ、無表情にじっとこちらを見詰め続けている。
 激しい恐怖故に真っ青になった顔と、逆さまの無表情な顔。2つの顔は、暫し無言で見詰め合う。まるで、時間が停止してしまったかの様に。
 けれども、変化は直ぐに訪れた。
 逆さまの少女が、笑ったのだ。大きく口の端を上げ、大きく瞳を見開いた狂気の笑み。純粋な邪悪を宿す、壊れた笑顔。
 最早声を出す事すらままならないこちらの姿を見据えたまま、少女はこれ以上がないほどに無垢で心の底から楽しそうにその小さな口を開き、狂気の高声を上げた。

「みーつけた」

 喉の奥から迸る、絶叫。それは、断末魔の叫び。避けられない、死の予兆。
 長く尾を引く自らの声を意識の片隅で聞きながら、ただただ目の前が真っ赤に染まっていく様を凍り付いた蒼白顔で見詰めていた。
 己の命が尽きる、その瞬間まで。

 * *

 人間達の間では『吸血鬼は、陽光を浴びると灰になる』などという妙な迷信がある様だが、少なくともロザリンドはそこまでやわな肉体はしていない。
 しかしながら、それでも陽光が大敵中の大敵である事に異論はない。陽光を苦手とする者が、大半を占める吸血鬼。ロザリンドも、その1人なのだ。
 陽光は嫌いだ。眩しくて、熱くて、苦しい。
 そんなロザリンドにとって傘や帽子は、日中に出歩く際には必要最低限装備していなくてはならない重要アイテムである。だから今もこうしてやや厚着の服装、傘や帽子や手袋を装着して万全を期している訳だ。
 正直余り目立ちたくはないが、仕方がない。無理をして体調を崩したりでもしたら、ヨハネスに迷惑が掛かる。それだけは、どうしても避けたい。ただでさえロザリンドは今、彼に守られる立場なのだから。
「ロージィ、大丈夫か?」
「!」
 不意に上方から落ちて来た声に、ロザリンドははっと顔を上げる。
 どうやら、いつの間にか物思いに耽ってしまっていたらしい。隣には、珍しく少々不安げな面持ちでロザリンドを見下ろすヨハネスの姿があった。
 無言のまま心ここに在らずの状態を反意図的に保っていたロザリンドの姿を見て、恐らく具合でも悪くなったのではないかと疑ったのだろう。
 不覚だ。迷惑を掛けてはならないと、そう考えていた矢先にこれとは。我ながら、情けない。
「大丈夫ですよ。少し、考え事をしていただけですから」
 努めて平静を装い、自分が至って平常である事をアピールする。
「そうか? だったら、良いんだが……。なんかあったら、直ぐに言えよ?」
「はい」
 なんとか誤魔化せはしたが、いつまで誤魔化し通せるかは分からない。
 顔にも声にもさほど心情の滲み出ないロザリンドではあるが、その微かな変化を目敏く見破ってくるのがヨハネスだ。
 ヨハネスは、様々な場面で鋭い。故に、油断は出来ない。
 ほんの少しだけでも気分を入れ替えるべく、ロザリンドはこの真昼の駅を行き交う人々の動向を眺めてみる事にした。意識を拡散させる事により、憂鬱になった気分を紛らわそうという我ながらなんとも古典的な試みである。
 都会には遠く及ばないが、なかなかの賑わい振りだ。子供から老人まで、1人から家族連れまで。様々な人間が様々な目的で歩み、進んでいる。
 こんなに沢山の人間を目にするのは、久し振りだ。昨日までは家に籠もりっ放しだったが、たまにはこういうのも良いかも知れない。
「にしても……遅えな、あいつら」
「向こうにも、色々あるんですよ」
「いや、けどよ……」
「無理を言って頼んだのは、私達の方ですから。もう少し、気長に待ちましょう」
 ロザリンドが待っているのは、ヨハネスの友人――ヨハネス自身は、ただの腐れ縁だと主張している――であり、普段は主にドイツ南部を担当している若手の番人達である。今回の吸血鬼連続殺害事件の捜査を、ヨハネスと共に引き受けてくれる事になったらしい。
 若手と聞いて少なからず心配してしまっているロザリンドではあるが、熟練のヨハネスが認めるくらいだ。大丈夫なのだろう。多分。
「お、やっと来やがったか」
 ヨハネスの待ちくたびれたと言わんばかりの声に、ロザリンドはヨハネスの視線の先へと目を遣る。
 ホームから出て来た、男女4人組。その姿を見て、ロザリンドは思わず目を見張った。
 外見は皆、ヨハネスよりも更に若い。彼らの実年齢は聞いていないが、想像以上の外見的若さにロザリンドは軽く拍子抜けをしてしまう。
「彼ら、ですか?」
「おう。餓鬼ばっかだが、頼りにはなるぞ」
 ヨハネスがそんな風に他者を高評価するのも、珍しいと言えば珍しい。外見年齢など、あの4人の前ではなんの役にも立たないという訳か。
 ロザリンド達の姿を認め、真っ直ぐにこちらを目指し歩いて来る4人。4人がある程度こちらに接近するなり、ヨハネスは早速、4人に向かってささやかな非難の言葉を投げ掛ける。
「おーい、遅えぞー」
 ヨハネスの、ちょっとした軽口――だと思いたい――に対し、4人の中のウェーブが掛かった煌びやかな黄金色の髪をした少女の眉がものの一瞬にして釣り上がるのが見えた。彼女は不機嫌も露わにつかつかとヨハネスの目前まで歩み寄ると、間髪容れずに異議を唱える。
「いきなり呼び出しといて、何よその言い種」
「姉さん、一応は公共の場なんだから静かに」
「煩いわね。あんたは、黙ってなさい」
 台詞からして、彼女の弟なのだろう。彼女に少しの遅れを取って歩いて来た茶の髪をした少年が、無に近いながらもやや困った様な表情で彼女を宥める。が、彼女はまるで聞く耳を持たない。
 軽い溜息混じりに、密かに肩を落とす少年。端から見ても、不憫である。
「初めまして、ソフィアと申します」
「初めまして」
 そうこうしている間に、4人の内外見だけで判断すれば最年少の少女と最年長の青年が、ロザリンドの正面に立ち愛想良く挨拶を済ませた。
「ロザリンド=グレーシェルです。よろしくお願いします」
 そうやってなんとか返事はしたものの、ロザリンドは自分の中にある不安が消えるどころか更に膨らんでいくのをひしひしと感じつつあった。
 それはこの4人が信用出来ないとか、そういった意味合いで感じた不安ではない。なんというか、ただ単純に――。
「だから、軽い冗談だろうが!」
「あんたが言うと、冗談に聞こえないのよ!」
 言い争う2人と、肩を落とす1人。予想外に長続きするそれらの光景を見て、流石におろおろし始める2人。そして今、こうしてここに立っている自分。
 本当に、このメンバーで大丈夫なのだろうか。ただ単純に、心の底からそう思わざるを得ないロザリンドであった。


‐終‐


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