第2話 罪と罰より‐交点‐
 忘れもしない。今から、およそ12年前。ヨハネスが丁度111回目の誕生日を迎える、その前夜の事だ。
「遠い所から、ご苦労だった」
 冷たい風に晒された、深夜の路地。暇を持て余し無音に佇んでいたヨハネスは、薄闇の中で中年男性の呼び声を聞いた。
 伏せていた双眸をゆっくりと開くと、開く前とさして変わりのない薄闇がヨハネスの視界を瞬く間に埋め尽くした。
 辺りは暗い。街灯がなんとか和らげてくれてはいるが、それでも仄かに暗い。
 緩やかに眼球を動かし、声の主を探す。声の主は、直ぐに見付かった。
 視界の右端。表通りの方向からこちらへ向かって近付いて来る、黒い影。近付くに連れて見えてくる、黒い影の全貌。薄闇の中で浮かび上がったのは、さしたる特徴もない至極一般的な姿形をした中年男性の姿。
 この中年男性こそが、ヨハネス達『番人』の司令部に所属する、自称人間の自称アームストロング司令官である。平たく言えばヨハネス達の上司に当たる存在なのだが、余りに謎が多過ぎるせいか『番人』達からの信頼はお世辞にも厚いとは言えない。
「まだこれからですよ、司令」
 実際の所ヨハネスもこの不審極まりない上司の事を大して信頼してはいなかったが、立場上は敬語を使う他ない。昔も、今もだ。
「さて……早々で済まないが、急いで貰いたい」
 ヨハネスの前に立つなり、司令官は持ち前の事務的口調で切り出した。台詞の割に全く済まなさそうに見えないのは、不本意だが水に流そう。
「分かってますよ。で、場所はどこです?」
「迷う事はないだろうが……念の為、即席の地図は渡しておく」
「はあ、どうも」
 地図を受け取る、ヨハネス。
 見た所、その気になれば徒歩でも充分に行けそうな距離だ。ある程度の特徴さえあれば、直ぐに見付かるだろう。
「確か、廃ビルって事でしたよね」
「ああ。健闘を祈る」
 余り健闘を祈っている風には見えないが、これも今は水に流しておく。
「そんじゃ、ちょっくら行って来ますか」
「頼む。――ああ、それから」
「はい?」
 まだ何かあるのかと、ヨハネスは半ばうんざりした様な表情で踏み出し掛けた足を引っ込める。
「先刻も言った通り、今回の標的の戦闘力は並み以下な訳だが……数の多さと戦場の広さを考慮し、我々の方で助っ人を呼んでおいた」
 涼しい顔で告げる、司令官。
「助っ人、ですか?」
「まだ新人だが、実力は確かだ。件の廃ビル前で、待たせてある」
 助っ人が新人とは、これまた妙な話である。何かと皮肉を交えた突っ込みを入れてみたい衝動を大人の精神で抑え付け、ヨハネスは素直に踵を返す。
「分かりました。お気遣い、痛み入ります」
 心にもない礼の言葉を背中越しに投げ掛けると、ヨハネスは今度こそ目的地へ向う為その足を前へと踏み出した。

 * *

 予測通り、目的地は直ぐに見付かった。
 あの路地から比較的近い場所に建っている上、廃ビルという極めて目立つ外見をした建物なのだ。余程の方向音痴でもない限り、見付けられない方が可笑しいというもの。
「さて。助っ人君は、どこかね」
 さして興味がないながらも、一応は辺りを見渡してみるヨハネス。
 辺りは、当然だが暗い。表通りからやや外れている事も手伝い、一切の灯りがない廃ビルは最早お化け屋敷を軽く凌駕するほどの不気味さと圧迫感を孕んでいる。
 お化けの存在を信じていない者であっても、多少の緊張感は拭い切れないだろう。まさに、子供の肝試しに絶好の場所と言える。
「――マンシュタインさん、ですか?」
「うわっ!」
 不気味なほどの沈黙の空間に、極めて唐突に割り込んで来た声。ものの見事に不意打ちを食らったヨハネスは、文字通り飛び上がった。
 慌てて声のした方を振り返り、声の主を探す。良く良く目を凝らして見てみると、ヨハネスの直ぐ斜め後ろの若木に何者かの影がもたれ掛かっているのが分かった。
 見る限り、背はさほど高くない。顔は目深に被ったキャスケット帽のせいで良くは見えないが、やや若い顔立ちに見える。
「お、お前……っ、いつの間に!」
「貴方が来る前からずっと、ここにいましたよ」
 彼は抑揚のない冷めた声色で、きっぱりと答える。
 それなりに警戒していたにも関わらず、ヨハネスは彼の存在に全く気付く事が出来なかった。ヨハネス=マンシュタイン、一生の不覚である。
「……お前が、司令官の言ってた助っ人か?」
「初めまして、ブランケンハイムです」
 彼は変わらず無愛想のまま簡潔に自己紹介を済ませると、静かな足取りでヨハネスへと歩み寄る。
「現在は、姉さ――姉と共に、ドイツ南部を担当しています。お見知り置きを」
 そう言ってから彼は、目深まで被っていたキャスケット帽を取った。ここに来てようやく、ヨハネスは彼の顔をまともに見る事が出来た。
 前言撤回。やや若い、ではない。どう見積もっても、彼は成人すらしていない。精々10代半ばか、それよりも少し上が良い所である。若いどころか、まだ子供と言っても良いレベルだ。
 でも、とヨハネスは考え直す。
 この人外の世界では、外見年齢はほとんど当てにならない。かく言うヨハネスも、実年齢とは違い外見年齢は20代前半で止まっているのだから。
 見た目は子供でも、中身は大人といったお約束の事例がこの世界には腐るほど存在する。案外彼も見掛けに寄らず、ヨハネスよりも長い時を生きていたりするのかも知れない。
 そんな小さな期待を込めて、ヨハネスは聞いてみる。
「1つ、聞いても良いか?」
「どうぞ」
「お前、幾つだ?」
「18です」
 ヨハネスのささやかな望みは、このたったの一言で脆くも打ち壊されてしまった。
 辛うじて成人はしている様だが、それでも脱力せざるを得ないヨハネス。
「中身まで、餓鬼じゃねえか……」
 そんなヨハネスのぼやきが、聞こえたのか否かは分からない。彼はキャスケット帽を被り直すと、そのまま何も言う事なく廃ビルの方へと歩き始める。
「ちょっ、勝手に行くな!」
 慌てて後を追う、ヨハネス。ヨハネスの台詞もまるで聞こえていないかの様に、彼は歩みを緩めようとはない。
「こら、待てって……!」
 早足に追い付き、なんとか彼の右腕を掴む事に成功する。しかしながら、それは本当に僅か一瞬のみの成功だった。
 腕を掴まれた瞬間、彼は即座にびくりとその身を強く震わせた。そして、荒い手付きでヨハネスの手を跳ね退けたのだ。
 完全に予想を超えた展開にヨハネスは酷く間の抜けた表情になり、弾かれて宙舞った手を引っ込める事すら忘れた。伸ばしっ放しの手が、宙で虚しく硬直を続ける。
 けれど、どうやら驚いたのはヨハネスだけではなかったらしい。
 キャスケット帽から密かに覗く彼のヘイゼルの瞳も、ヨハネスのそれと同じく大きく見開かれていた。まるで自分の行動に、自分で驚いているかの様に。
「っ、済みません」
 彼はばつが悪そうに双眸を伏せ、ヨハネスの視線から逃れる様に背を向ける。ヨハネスは、ここに来てようやく合点がいった。
「お前はよ……何をそんなに、怖がってんだ?」
 先程からずっと、漠然と気にはなっていたのだ。彼の言動の全てが、ずっと引っ掛かっていたのだ。
 台詞、声色、表情、視線。それら全てが余りに堅く、余りに冷たかった。自分達が初対面である事を差し引いても、その上で尚も異常であると思えるくらいに。
 彼の言動の端々から垣間見えた、棘。強い警戒。敵意。密かに自分に向けられていたそれらの感情を、ヨハネスはようやく理解したのだ。
「……」
 彼は押し黙ったまま、ヨハネスにその冷たい視線を向けるのみだ。行き場を失った手をコートのポケットへ突っ込みながら、ヨハネスは悠然と彼を見返す。
 どのくらい、そうしていただろうか。やけに長く感じはしたが、実際はほんの数秒の沈黙だったのかも知れない。
 沈黙を破ったのは、意外にも彼の方だった。
「大人は、嫌いです」
「はあっ?」
 思わずひっくり返りそうになってしまったヨハネスは、その場で素頓狂な声を上げてしまう。
 彼はそんなヨハネスに構わず、再び無言のまま目的の廃ビルへ向けて大股に歩き出してしまう。だがヨハネスは、今度は止めなかった。
「奇遇だな。俺も、子供は嫌いだ」
 口元を笑みの形に歪めながら、ヨハネスは誰にでもなく言う。
 それに対しての彼からのコメントはなかったが、関係ない。飽くまで自分は、今やるべき事をやるだけだ。
 歩みを再開するついでに、左手の腕時計にちらりと目を遣る。23時55分。間もなく、明日がやって来る。
 どうやら今年は、最悪の誕生日になりそうだ。柄にもなくそんな事を考えてしまいつつも、ヨハネスは遠ざかって行く彼の頼りない小さな後ろ姿を追い掛けた。


‐終‐


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