第0話 鴉と兎‐夜の茶話会‐
 ブランケンハイム家の夜は早い。
 午後9時にもなるともう既に住人全員が各々の自室に籠り始め、更にそれから1時間と経たない内にほぼ全ての部屋の灯りが消える。この時点で起きている者といえば、食事や睡眠を必要としない魔人クルーエルぐらいだ。そう、普段ならば。
「あれ、セキアさん……?」
 普段ならばという事はすなわち例外というものも存在する訳で、今夜はまさにそれだった。
 午前0時を少し回った頃。住人の1人であるソフィアは2階にある自室を出て1階の廊下へと降りて来るなり、誰もいない筈のダイニングに灯りが点いている事と、そのダイニングの中にいたのが少しばかり意外な人物であった事に目を丸くした。
「――珍しいね、ソフィー。どうかした?」
 ほんの数瞬の間を置いた後、リビングにいた意外な人物であるセキアはいつもの様に限りなく無表情に近いほんのささやかな笑みを浮かべながら、テーブルの上に無造作に置かれたゆうに10冊を超える分厚い本の内の1冊を読み進める手を止めた。その視線を受けて我に返ったソフィアは、慌てて笑顔を取り繕いながらセキアの元へと歩み寄る。
「ちょっと、寝付きが悪くて。本でも読もうと思って、降りて来たんです」
「そう。座る?」
「あ、はいっ」
 ソフィアが勧められるままセキアの向かいの席に着くと、それとほぼ入れ違いにセキアが緩慢な動作で立ち上がった。その動作を怪訝そうに視線で追うソフィアを見下ろしながら、セキアは静かに穏やかに言葉を紡ぐ。
「お茶、入れるよ。いつもので良い?」
「! はい。お願いします」
 セキアに正面から見詰められたソフィアは、緊張で裏声にならない様に細心の注意を払いながら努めて明るい声で答えた。そんなソフィアの心情を知ってか知らずかセキアは了解を示す様に軽く頷いて見せてから、自身が座っていた席の直ぐ後ろに設置された食器棚へとその華奢な腕を伸ばす。
 取っ手を引いて、食器棚を開く音。その振動で、食器が僅かに震える音。食器と食器が、触れ合い擦れ合う音。そんな普段ならまるで気にも留めない些細な音でも、静寂に包まれた深夜のダイニングの空気を震わすには充分だ。
 静寂を震わすそれらの音を何気なく聞きながら、テーブルに置かれた本の内の1冊を何気なく手に取る。見た所オカルト関連の本に見えるが、残念ながらソフィアには読めない。この本で使用されている言語は明らかにドイツ語ではなく、ソフィアには馴染みのない言語だった。
 ソフィアはこの本の持ち主がセキアである事から彼の母国語であるフランス語の可能性に思い至るものの、直ぐに違和感を覚えて考え直した。フランス語を操れないソフィアではあるが、セキア達の影響で何度か目にした事はあった為だ。
 加えてソフィアは出身がバラバラな知人や依頼人達の影響でこれまで幾つか他国の言語を見聞きする機会があったが、この本で使用されている言語は今までソフィアが見聞きしたいずれの言語とも違う気がする。
「それ、デンマーク語」
 1冊の本をぼーっと見詰めるソフィアの疑問を先読みした様に、不意にそんな声が直ぐ間近から聞こえた。ソフィアが視線を上げると、そこにはお茶を入れ終えて戻って来たらしいセキアがソーサーを手に立っていた。
「情報屋に借りた、古代北欧にまつわる魔術書だよ」
 セキアは抑揚に欠けた声で簡潔な説明をしながら温かい紅茶が注がれたティーカップと、鈍い黄金色の光を宿す小型のスプーンを載せたソーサーをソフィアの前に置いた。大好きな紅茶の心地よい香りが、ふわりとソフィアの鼻孔を擽る。
「有難う御座います」
「どう致しまして」
 セキアが再び向かいの席に腰を下ろしたのを確認すると、ソフィアはさっそく目前に置かれたカップを両手で持ち上げ顔を近付ける。お気に入りの紅茶の香ばしい香りがより一層強くなった。
 じっくりと香りを楽しみながらカップに口付け、天井から吊された電灯の光を受けて綺麗なライトブラウンに波打つ紅茶を口に含む。少し熱いが、とても美味しい。ついつい、口元が綻んでしまう。
「美味しそうで、何より」
「!」
 紅茶に気を取られて目前にセキアがいる事を失念してしまっていたソフィアは、そんなセキアの悪気はないのであろう言葉に緩んでしまった顔をほんのりと紅潮させた。
「あ、あのっ……えーと……セキアさんは、今日は何故こんな時間に?」
 紅潮した顔を僅かに俯けると、ソフィアは自分でも呆れるほどにわざとらしい話題転換を試みた。
 そんなソフィアのわざとらしい試みにも眉1つ動かさず、セキアは再開していた読書の手を今度は止める事なく答える。
「ちょっと、夢見が悪くてね。もう、2度寝する気も失せたよ」
「そう、なんですか?」
「うん」
 素っ気なく頷いたセキアはそのまま読書に没頭し始め、もうソフィアの方には見向きもしない。ソフィアも彼の読書の邪魔しない様にと気を遣いつつ、紅茶を味わうのに集中する。
 こうして口を開く者のいなくなったリビングは、暫しの沈黙に覆われる――事はなかった。

「あら、何? 2人で密会?」

 なんの前触れもなく唐突に背後から飛んで来た声にソフィアは思わず飛び上がり兼ねないほどに驚き、条件反射で勢い良く背後を振り返った。
「ハクトさんっ?」
「姉さん、また音もなく……」
 ソフィアの驚き声と、セキアの呆れ声が見事に重なった。
 唐突な声の正体はセキアの父親違いの姉であり、ブランケンハイム家のリーダー的存在とも言えるハクトだ。ハクトは普段と僅かたりとも違わぬ芯の強そうな瞳で、ソフィア達を真っ直ぐに見下ろしていた。他者に何1つとして真意を読み取らせないそのクールとも言える表情は、弟であるセキアと良く似ている。
「姉さんも寝付けないとか目が覚めたと、そういう理由?」
「まあね。そんな訳だから、あたしにもお茶入れて」
 どんな訳だ。そんな突っ込みを入れる隙すら他者に与えないハクトは、素っ気なくセキアに頼み事という名の命令を投げ付けながらソフィアの隣の席に着いて脚を組んだ。そのまま背もたれにのし掛かり、リラックスモードに入る。自分で入れるつもりは、毛頭ないらしい。
 だが、そんな勝手極まりないハクトの言動にすらとうに慣れ切っているセキアだ。無言で肩を竦めつつ再び席を立ち、大人しくお茶を入れる作業に取り掛かった。
「――もうこの際だから、クロも呼んで茶話会でも開きましょうか。どうせ今頃、部屋で暇してるでしょうし」
「あ、良いですねっ」
 てきぱきと動くセキアをある種の尊敬と不憫の眼差しで見守っていたソフィアは、突然のハクトの提案にぱっと瞳を輝かせた。
 ブランケンハイム家のもう1人のメンバーであるクルーエルは、食事も睡眠も必要がない――というより、出来ない――為、いつも3人が寝静まってから翌朝誰かが起きて来るまでの間ずっと自室やリビングで時間を潰しているらしい。ごく稀に夜の屋外へ散歩に出掛ける事もある様だが、本当に稀なので今も高確率で自室にいるだろう。
「わたし、クロさん呼んで来ます!」
「ええ、任せるわ」
 ひらひらと手を振るハクトに見送られ、ソフィアはこれから始まる夜の茶話会に胸を躍らせながら2階へ続く階段を掛け上がった。
 種族も出身も異なる奇妙な同居人達の賑やかな夜が今、幕を開ける。


‐終‐


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