第1話 光と影より‐海の妖精‐
【後編】
「なんでドイツ担当のあたし達が、こんな所まで出向かなきゃなんない訳? ギリシャ語だって、片言でしか喋れないって何度も言ってんのに……っ」
彼女の背後に現れた謎の少年少女が、こちらへ近付いて来る。
ギリシャではないどこか別の国の言語で苛立たしげに言葉を発する少女と、短剣(ダガー)を携えた物静かな少年。2人が並んで歩く姿を、戸惑う彼女はただ見詰める事しか出来ない。
「人手が足りないから、って聞いたけど」
少年が無表情のまま、抑揚のない声で先の少女の台詞に対して――と思われる――応答をする。
「国内が駄目でも、隣国の番人くらい探せば幾らでもいるでしょ!」
「相手が水棲馬な上、集団だからね。やりたくないから、理由を付けて断る人が多いんじゃないかな」
「……腰抜けばっかで、嫌になるわ」
彼女には2人が何を喋っているのかは分からないが、不満を吐き続ける少女を少年が宥めているのはなんとなく分かった。
半ば放心状態の彼女の元まで無事到達した少年少女の内、まず最初に声を掛けてきたのは少年の方だった。
「怪我はない?」
簡単なギリシャ語で、少年はそう尋ねた。
絶望と錯乱と困惑の最中にいる彼女は、即座に答える事は出来なかった。自らを必死に奮い立たせる事で、彼女は辛うじて頷くに至った。
「離れてて」
淡々とした落ち着きある口調で話しながらも、彼女を安心させる様に笑顔を作って見せる少年。
非常に小さく笑顔になり切れていない下手な作り笑いではあるが、彼女には何故かそれが酷く優しげなものに見えた。
少年は速やかに彼女の隣に立ち、短剣の切っ先を再び海面へと向ける。少年の表情は、既に無へと戻っていた。
ごぼっ。
不意に聞こえた、泡の音。
はっと海面に目を遣った彼女は、馬の頭部らしき物が海中からゆっくりと上がって来る姿を見付けてしまう。
少年からの攻撃を受けて1度は海中に沈んだ水棲馬が、恐らくは反撃の為に現れようとしている光景。怯える彼女の凍り付いた全身には、一斉に鳥肌が立つ。
少年が、大きく息を吸い込む。
瞬間、風が舞った。力強くも穏やかな風が、周辺の空間をふわりと包み込んでいた。
「姉さんは、その子を」
「ええ」
少年が何事かを伝え、少女が無愛想に頷く。
少女は迅速な動きで彼女の手を取り、放心する彼女にはっきりとした口振りで指示を出した。
「立ちなさい。急いで」
「……」
まともな思考力を失っている彼女は、少女に命じられるがままに弱々しく立ち上がった。
少女に手を引かれ、廃人と化した彼女は力なく走る。
* *
彼女は、泣いていた。少女に肩を抱かれ、声を出して泣いていた。
どうしようもなく、悲しかった。
拙いギリシャ語とジェスチャーで、少女が彼女に伝えてくれた事がある。
自分達が、ドイツ南部の『番人』である事。近頃この周辺に住み着いて悪事を働いているという水棲馬達を退治する為に、ここギリシャ南部で番人を務める知人が出した協力要請に応じてやって来た事。
これだけなら、まだ良い。問題は、その後。彼女を絶望の底まで突き落とした、最悪の報告。
それは少女を含む番人達が到着した時には既に、北の海面に大量の内臓が浮かんでいた事。彼女以外の生存者が、ただの1人も見付かっていない事。
どうしようもなく、悔しかった。
危険を承知して、彼女の帰りを待っていてくれたアティナ。彼女を生かす為に、たった1人で集落に残って彼女を待っていてくれたアティナ。
彼女の目の前で失われた、アティナの命。もう2度と会う事が叶わない、大切な友達。家族。余りに受け入れ難い現実に、彼女の心は壊れ掛けていた。
今日という1日で、彼女は何もかもを失ってしまった。仲間も、居場所、生きる希望も。自分は、1人ぼっちだ。
どれだけ泣いて悲しんでも、皆が生き返る訳ではない。頭ではちゃんと分かっているのに、尚も現実から目を背けようとする自分がいる。自分はただ、悪夢を見ているだけなのではないかと。
少女は何も言葉を発する事なく、相変わらずの仏頂面で彼女に寄り添ってくれている。先程までと違っている所といえば、円盤(ペンタクル)を手にしている事くらいか。
オカルト世界で馴染みの深い五芒星を軸とする、神秘的な紋様の刻まれた円盤。少年が手にしていた短剣同様、魔術道具の一種なのだろう。
鬱蒼とした森の中に身を潜めているとはいえ、水棲馬に見付からず確実に遣り過ごせる保証などどこにもない。
「あんた、他に身寄りは?」
「!」
随分と長い間沈黙を保っていた少女の唐突な問い掛けに、彼女は反射的に少女の仏頂面を見上げる。見上げた所で、少女の内情や意図はさっぱり読み取れなかったが。
再度沈黙し、大人しく彼女の答えを待つ少女。こちらを見据えるヘイゼルの瞳には、状況に不釣り合いな特有の静けさが宿っている。
「……いません」
傲然とした少女の振る舞いに半ば気圧される形で、彼女は嗚咽混じりに回答した。
「皆、いなくなっちゃいました……。わたしは、何も出来ませんでした……」
涙は次から次へと絶え間なく溢れ、震えっ放しの声ではまともに言葉を紡ぐ事すら叶わない。
それでも、彼女は話し続ける。自分の中の負の感情を、目の前の少女へと残らず吐露するかの様に。
「誰1人として、助けられませんでした。……アティナは、こんなわたしを守ろうとしてくれたのに……!」
喋れば喋るほど声は激しい嗚咽を伴い、他者に聞き取れるか否かさえ怪しくなってくる。
ただでさえ言語の壁というものがあるのに、こうも酷い震えを纏っていては伝わるものも伝わらないだろう。今の彼女のギリシャ語は、果たしてどこまで少女に伝わっているのか。
「あんたは、これからどうしたいの?」
「……え?」
またしても、唐突な問い掛け。
「ここに残るのか、どこか別の場所で生きるのか、仲間の後を追うのか……選ぶのは、あんたよ」
残酷な様にも聞こえるし、ただ冷静に事実を言っているだけにも聞こえる。少女の表情からは、明確な判断は出来ない。
しかしながら、彼女には確実に言える事が1つだけあった。
「わたしは……死ねません。後追いなんかしたら、きっとアティナに怒られるから……」
命懸けで自分を助けようとしてくれたアティナの気持ちを、踏みにじる様な真似は出来ない。
自分には、生きる義務がある。何があっても、絶対に。
「でも……生きる方法も、分かりません」
「……」
たった一言の、弱音。
こんな事を言っても、目の前の少女を困らせるだけかも知れない。甘えるなと、叱られるかも知れない。
けれど、本当に分からないのだ。
人は、1人では生きていけない。これは、アティナを含む仲間達との長年の『支え合い』の生活の中で、彼女が行き着いた動かしようのない現実である。
では一体、誰と支え合えば良いのか。誰を頼り、誰を助ければ良いのか。皆、いなくなってしまったのに。死んでしまったのに。
加えて、彼女は外の世界を知らない。
外には、どんな世界が広がっているのか。誰が、どうやって暮らしているのか。知らないのだ。何1つとして。
「ごめんなさい……わたし……」
甘ったれた弱音を初対面の少女に吐いてしまった事を反省し、彼女は依然として頼りない涙声で謝罪の意を述べた。
懸命に涙を拭いながら、彼女が少女からの叱咤を覚悟した時だった。
「――あんたの生き方の参考になるかは分からないけど、協力しても良いわ」
僅かな空白を挟んだ後の、少女による突然の言葉。瞬時に意味を飲み込む事は出来なかったものの、完全に想定外の内容に彼女は驚いた。
目を丸くしてそちらを見返す彼女に、少女は表情も口調も変える事なく続ける。
「あんたの境遇に、少し思う所があったの。勿論、無理にとは言わないけど」
彼女は自分の頬を伝う新たな涙の存在に、やや遅れて気付いた。
少女はまるで子供をあやすかの様に、彼女の頭部に掌を置く。ずっと仏頂面だったその顔に、やがて微かな笑みが浮かんだ。
ともすれば目の錯覚を疑ってしまうほどのささやかなこの少女の笑顔が、単なる作り笑いなどではない事を彼女は確信した。
ソフィア=ブランケンハイムが誕生する、ほんの少し前の記憶。
‐後編 終‐
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