第1話 光と影より‐海の妖精‐
※このページの文中には過度の暴力シーンや流血シーン、及びグロテスクな描写が含まれています。


【前編】


 その記憶は、年月が経った今でも鮮明に引き出す事が出来る。
 辛かったけれど、決して忘れるつもりはない。良くも悪くも、自分の運命を大きく変えた大切な日だ。
 美しい大自然に恵まれたエーゲ海で、彼女は生まれ育った。
 何度目にしても見とれてしまうほど蒼く広大な海で、仲間と共に静かに暮らす。彼女はこの生活が、永遠に続くものと信じて疑わなかった。あの日までは。

 * *

「ソフィア、逃げて! 奴らが来たわ!」
 エーゲ海が抱える、多島の1つ。ギリシャに属する、某島にて。
 用事を済ませて集落へ帰って来た彼女を待ち受けていたのは、同族として共に暮らしていた仲間の1人――苦楽を共にしてきたアティナの、そんな切羽詰まった台詞だった。
 彼女はアティナが何を言っているのか、直ぐには理解が及ばなかった。それでもアティナの並々ならぬ様子に酷く不安を煽られ、神妙な面持ちで尋ねた。
「奴らって、誰の事?」
「例の、水棲馬達よ! 逆恨みして、私達を片っ端から襲いに来たみたい!」
「! そんな……っ」
 アティナの衝撃的な台詞に、彼女は愕然とした。
 ここ最近になって地中海からこちらへ渡って来たという複数の水棲馬に、彼女を含む同族達は頭を抱えていた。
 近辺の島までやって来ては酷い悪事を繰り返す彼らを、彼女の仲間達が懲らしめたという話を聞いたのはつい先日の事。まさか自分達のしてきた事を棚に上げて、仕返しに来るとは。
「他の皆は、もう逃げたわ。私達も、早く逃げないと!」
「う、うん……!」
 相手が相手だ。逃げなければ、恐らく殺される。為すがままに手を引かれて、彼女はアティナと共にほぼ無人と化した集落から駆け出した。
 海中は危険だ。水棲馬達が潜んでいる可能性が、極めて高い。
 けれど、ここは小さな小さな島。島内の木陰や岩陰に隠れたとしても、数の力を駆使して探し回られてはあっという間に見付かってしまうだろう。
 助かる道があるとすれば、たった1つ。水棲馬達がこの島や周辺を掌握してしまう前に、海を泳いで遠く離れた場所へ一時避難する方法だ。
 きっと、他の皆も同じ手段を取っているだろう。一時的とはいえ住み慣れた故郷を離れるのは辛いが、それで皆と無事に再会出来るならと堪える事にした。
「海沿いは、避けた方が良いかな?」
「そうね。ほんの少しでも、危険を凌げるんなら――」
 アティナの言葉が、不自然に途切れる。ほぼ同時に、アティナの足がぴたりと異常なほど唐突に止まった。
「アティナ?」
 彼女の声には応じず、ある一点を凝視するアティナ。微動だにしない。
 彼女は恐る恐る、自身の中に浮かび上がった嫌な想像を振り払いながらそちらに目を向けた。目を向けて、絶望した。
 こちらからの距離は、ほんの数メートル。今まさに2人が距離を置こうとしていた、海のほとり。『赤く染まった』海に浮かぶ、喰い荒らされた人の身体の残骸。
 手足はもげ、既に胴体の8割以上が喰い尽くされた無残な亡骸。呆然と見詰める内に、彼女は気付いてしまった。
「……イオ……?」
 彼女の隣で、アティナが呟く。瞳は大きく見開かれ、弱々しく掠れた声は小刻みに震えている。
 海に浮かぶ亡骸は、下半身から順に喰われていったらしい。まだ損傷のない首には、同じく損傷のない顔が繋がっていた。――血を失っておぞましく変色した、アティナの幼い妹の顔が。
「ああああっ!」
 アティナの口から迸る、凄まじい絶叫。彼女は、強過ぎる衝撃の余り声が出せないでいた。
 彼女がはっと我に返ったのは、完全に狂乱状態となったアティナが妹の遺体目掛けて全速力で走り出した時だった。
「イオ! イオっ!」
「アティナ、駄目!」
 アティナの腕を掴もうと、彼女は咄嗟に自らの右手を目一杯に伸ばした。だが僅かに間に合わず、手は虚しく宙を切るに留まった。
 彼女の制止の試みを無に帰す様に、妹の遺体が浮かぶ海へと疾走するアティナ。彼女はそれを、必死になって追い掛ける。
 彼女に追い掛けられながら、アティナは程なくして海のほとりに立った。
 水中から突如として生える様に現れた、2本の『前足』が一瞬にしてアティナの身体へと伸ばされたのは、眼下に広がる蒼く紅い海を見下ろすアティナに彼女が追い付き掛けたその時だった。
「……え?」
「あ……」
 アティナと彼女が、同時に声を漏らす。――瞬間、2本の前足は凄まじい早さでアティナの身体をがっしりと掴んでいた。
 アティナの身体は彼女の目の前で瞬く間に海中に引きずり込まれて、瞬きするより速く彼女の視界から姿を消した。文字通り、あっという間の出来事だった。
 彼女が状況を把握する暇は、与えられなかった。
 見開かれた彼女の双眸が捉える視界の中で、今し方アティナが引きずり込まれて行った辺りの海水が真っ赤に染まった。
 海中から『ぶわっ』と沸き出る様にして広がった赤はアティナの妹の遺体から提供されたものと混じり合い、美しい海の色を更に浸蝕していった。
「あ……あ……」
 最早悲鳴すら上げられない彼女を前に、アティナの妹の残骸までもが残らず海中へと引きずり込まれた。
 ごぼっ、ごぼっ。恐ろしく生々しい音と共に、海中から上る幾つもの赤い泡。
 そして――地に縫い付けられたかの如くこの場から動けず立ち尽くす彼女は、遂に見てしまう。海中から、2つの赤い物体が上がって来たのを。
 海面に上がったこの物体の正体に気付いた時、彼女の心の中で硬直していたものが一斉に弾けた。
「きゃああああっ!」
 絶望と恐怖に腰を抜かして、両の目に涙を浮かべて、彼女は絶叫する。
 眼下に広がる、未だかつてない悪夢。水面に浮かんだ、2人分の内臓。食べ残し。
 叫んだ。声が、枯れてしまうほどに。もう、何も考えられなかった。
 間もなく、少なくとも2人分の肉体を平然と喰らった存在が水面に姿を現した。
 頭、顔、首、胴体。馬の姿をしたそいつの狂気の瞳が、彼女を見据える。
 彼女を見据え、彼女には理解出来ない言語で何事かを呟く馬――水棲馬。
 水棲馬は大きく口を開けて、直ぐにでも彼女を喰らう為に2本の前足をこちらへ伸ばして来る。つい先程、アティナを喰らったのと同じ様に。
 しかしながら、こんな状況になっても彼女は動かなかった。動けなかった。身体も感情も、完全に麻痺していた。
 水棲馬の前足が、目前に迫る。
 ああ、殺されるんだな。食べられるんだな。アティナ達みたいに。まるで他人事の様に、彼女は頭の片隅で漠然と悟った。
 けれども、現実は違った。
 喰われる寸前。彼女は自分の真横を、見えない何かが刹那的な速さで通り過ぎたのを感知した。

 どすんっ!

「ぎゃっ」
 重く鈍い音と同時に聞こえた水棲馬の短い悲鳴は、彼女の耳に酷く残った。
 僅か一瞬だけ宙に浮いた水棲馬の身は、何かに押し倒された様な形で巨大な水飛沫を上げながら海中に沈んでしまった。
 今、彼女の脇を通り過ぎた『何か』。彼女は恐る恐る、その何かが飛んで来た背後を振り返った。
 振り返った先にあったのは、見た事のない2人組の姿だった。
 無表情の少年と、仏頂面の少女。いずれも、外見は若い。
 不機嫌に腕組みをする無言の少女の隣で、少年の握った短剣(ダガー)の切っ先が真っ直ぐにこちらを向いていた。


‐前編 終‐


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