第1話 光と影より‐魔人‐
【後編】


 いつ閉じてしまったのかすら覚えていない瞼を開くと、傍らに無表情に戻り切ったあの少年が立っていた。
 何も言わずそこに立ち、静かに彼を見下ろす少年。何を考えているのか、その瞳からは一向に読み取れない。
 彼は、慌てて身を起こした。
 しかしながら、身構える間など与えられなかった。彼の額に触れるか触れないかぐらいの際どい位置に、少年が短剣(ダガー)の切っ先を向けてきた為だ。
 ――殺される。
 恐怖故に双眸を見開いて食い入る様に見返すしか出来ない彼を前に、少年は抑揚のない声でどこの言語とも付かない短い言葉を呪文の様に悠長な発音で唱えた。
「! あ……」
 彼の曖昧だった思考が、それを機に鮮明なものへと変わった――否、戻った。
 恐怖、混乱、苦痛。加えて彼があれほどまでに執着していた『主人を護らなければ』という強い意思や衝動すらも、彼の中から完全に取り除かれていた。
 目まぐるしい現状の変化に思考が追い付かず、彼は呆然と言葉を失う。
 更に少年はこれ以降は何もしようとはせず、あっさりと下ろした短剣を上着の内ポケットの中へ片付けてしまった。
 彼は恐る恐る、少年に尋ねる。
「こ、殺さないの……?」
「殺す理由がないから」
「え?」
「君は『討伐対象』に該当しない」
 少年は淡々と、飽くまで事務的な口調で返答する。
「番人で定められてる討伐対象は、好き好んで人間に牙を剥いた者だけだよ。だから、君は含まれない」
「でも、ぼくがやった事は……!」
「そうだね。変わらない」
 あっさりと、少年は認めた。ぞっとするほど、平淡な声だった。
 肯定された事に、密かに傷付いている自分がいるのを彼は自覚した。少年の台詞は、何も間違ってはいないのに。
 自分は一体、目の前の少年に何を期待していたのだろう。
「購いたい?」
 変わらない調子で、不意に少年が問う。が、彼には言葉の意味が理解出来ない。
「アガナイ?」
「償うって事」
 短く説明する少年。今度は、彼にも理解出来る言葉だった。
「……償いたいよ。だけど……どうやったら良いのか、分からない……」
 消え入りそうな声でぽつりと、彼は答えた。
「これからどうやって生きていけば良いのかも、何も分からない……!」
 声は次第に大きくなり、徐々に震えを帯びてゆく。胸の内をぶち撒ける様に、彼は悲痛の声を上げていた。
 魔術師ジークムントによって造られ、ジークムントが命じるがままに汚い仕事を請け負う。それが自分。それ以外の生き方を、彼は知らない。分からないのだ。
 訪れた沈黙。
 微動だにせず、無表情に無言を続ける少年。内心では何を考えているのか、彼には想像も付かない。
 沈黙の間、彼は気が気ではなかった。
 次に来るであろう、少年の言葉。想像するのが、怖かった。
 何も言えない沈黙。何も言われない沈黙。怖い。
「――君の事は、なんて呼べば良い?」
 未だかつてないほど長く感じた異様な沈黙の後に、少年は先程とは全く違なる別の問いを彼に投げ掛けた。
 なんの脈絡もない上、その質問が出て来る意味が彼には全く理解出来なかった。固まる彼に、少年はただ繰り返す。
「なんて呼べば良い?」
「ぼ、ぼくは……クロ」
 クローディアと名乗り掛けて、とっさに台詞を切る。
 危ない所だった。魔人にとって、本名は『呪文』だ。味方でもない相手に、おいそれと名乗る訳にはいかない。
 そんな事情から答えを渋っていた彼だが、少年の表情は動かなかった。
「クロ?」
「……え?」
「クロ、で良いのかな」
「う、うん……」
 気圧されて思わず頷いてしまったものの、訂正する利点がない以上は黙る他ない。
 少年の華奢な手がそっと彼の目前へと差し出されたのは、その時だった。
 柔らかな動作で差し延べられた、少年の手。当然ながら、彼には少年の意図が掴めない。
「じゃあ、クロ」
 差し出された手を呆然と見詰める事しか出来ない彼に、少年は言った。
「人間の世界で、人間として生きてみる気はない?」
 彼にはなんとなく、本当になんとなく少年が微笑んだ様に見えた。
 淡泊で素っ気ないのに、どこか優しげで。強い筈なのに、どこか儚げて。本当に、不思議な少年だ。
 だから、惹かれたのかも知れない。
 この少年を、もっと知りたい。番人達の事を、もっと知りたい。そう思った。
 彼が恐る恐る伸ばした手を、少年は柔らかく繊細な手付きで握り返してくれた。
 それは、生まれて初めて出来た大切な記憶。忘れられない思い出。
 クルーエル=ブランケンハイム、誕生の瞬間だった。


‐後編 終‐


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あきゅろす。
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