第1話 光と影より‐魔人‐
【前編】


 夜がすっかりと更けた森林の奥深くに、彼はいた。
 暗闇に溶け込む様な漆黒の衣装をその身に纏った彼は、ただそこにいた。
 夜空を彩る無数の星々を見上げながら、彼は静かにその時を待っていた。自分の創造主が現れ、次の指示が出されるのをただただ待ち続けていた。それしか、自分に出来る事はなかったから。
 凶器であり、兵器。道具であり、傀儡。そう扱われる以外の存在価値を持ち合わせていない自分は、大人しく主人が戻って来るのを待つだけだ。
 余計な事はしない。主人に命じられた事だけを、忠実に実行する。それが魔人であると、ずっと教えられてきた。
 主人の言う事が真実であるのかどうか、実際の所は分からない。
 だが、真実であるか否かは大した意味を持たない。主人がそう言うのであれば、自分はただ従うだけだ。『呪文』がある以上、逆らう事など決して出来はしないのだから。
「――待たせたな」
 背後から掛けられた、低い声。破られた、長い長い静寂。音もなく現れた、人の気配。
 主人だ。そう理解が及ぶまでに、さして時間は掛からなかった。
「時間が惜しい。1度しか言わんから、良く聞け」
「……?」
 何か、様子が可笑しい。
 今自分の目の前にいるのは間違いなく主人だが、何故かいつもの余裕や威厳が感じられない。なんとなく焦っている様な慌てている様な、そんな気がした。
「『番人』が来た。お前はここに残り、奴らを足止めしろ。無論、殺しても構わん」
 番人。こちらの世界と人間の世界の、均衡を護る者。こちらの世界の者が不用意に人間の世界を荒らす事のない様、見張り取り締まる存在。前に1度、そう教えられた。
 その番人が、主人を取り締まりにここへ来た。
 それの意味する所を理解するのとほぼ同時に、出来る事ならば理解したくはなかった事にまで理解が及んだ。
 なんとも言えない鬱々とした感情が静かに沸き上がって来たのを漠然と感じ取っていたその時、主人が舌打ちらしき音が耳に飛び込んで来た。直後。
「『クローディア』」
「っ!」
 呼ばれた本名。遮断される思考。びくりと痙攣する身体。『呪文』を使われた事実に、数秒遅れて気付く。
「命じる。『囮になれ』」
「う……」
 彼が、ぎこちなく頷く。
 こうなると、もう自分の意思などなんの意味もない。本人の感情がどうであろうと関係なく、身体は命じられた通りに動いてしまうのだ。
 自分の物である筈の身体が思い通りに動かないという不快感と恐怖心が、一瞬にして胸中に沸き上がる。人間ほど豊富な感情を持ってはいない彼でも、この感覚は確実に不快であり恐怖だった。
「それで良い。くれぐれも、しくじるなよ」
 分かっている。自分が魔人である事ぐらい。主人にとって、自分は物でしかない事ぐらい。分かっているのに。
 こちらの返答に満足したのか主人はそのまま踵を返し、ただの1度も振り返る事なく足早にこの場を去って行く。
 ただ1人取り残された彼は、静かに番人が現れるのを待つしかない。
 魔人は、主人の為だけに動く操り人形同然の存在。故に主人に害を与える存在は、全てが自分の敵だ。
 敵は、倒す。必要ならば、殺す。それが、主人によって造られた魔人である自分の役目。
 どうせ、逆らえやしない。身体は、自分の意思を無視して動く。だから『呪文』の力に、全てを委ねる事にした。
「……」
 耳に届いた微かな足音と雑草達が揺さぶられ擦れ合う微かな音を聞いて、彼は顔を上げた。
 『敵』はもう、直ぐそこまで来ている。少しずつではあるが、確実に敵はこちらを目指して歩いて来ている。地を踏む足音も雑草達の音も、次第にその音量を増していく。
「――ここ、みたいね」
 音が、彼の5メートルほど手前で止まった。代わりに聞こえてきたのは、若い女性の声。
 暗闇の中をじっと見据えると、そこには人型をした2人の男女が立っていた。
 男性と女性――否、この場合は少年と少女と表現した方が適切なのだろう。それほどまでに2人の外見は若く、彼が抱いていた番人のイメージとは程遠いものであった。
 この場には酷く場違いな気さえ起こさせる番人の外見に、安心とも拍子抜けともつかない微妙な感覚を味わいながらも彼は油断なく目の前の2人を見据え続ける。年齢がどうであれ、敵は敵だ。
「魔術師ジークムントに仕え、殺戮を繰り返した魔人。君で、間違いないね?」
 今度は少年の方が、無表情にこちらに目を遣りながら問い掛けてくる。その表情からも声からも、何1つとして思考が読み取れない。
「そうだよ」
 彼は少年の言葉を、迷う事なく肯定する。
「だったら、話は早いわ。でも、肝心のジークムントは先に逃げたみたいね」
 肩を竦め、面倒臭そうに少女。
 そんな少女の隣で悠然と佇んでいた少年は、無感動な瞳を僅かに細めると少女に視線だけを寄越して静かに口を開いた。
「姉さん」
「ええ。気乗りしないけど、ここはあんたに任せるわ」
 少年の意図を瞬時に理解したらしい少女は、少年の言葉を最後まで聞く事なく大地を蹴り前方へと足を踏み出した。
 反射的に身構えた彼を完全に眼中から外して、仲間である筈の少年をこの場に残してこちらの前方を横切って行く。
 先程の2人の短い遣り取りと少女のこの行動とを照らし合わせ、彼はそのまま少女が主人を追うつもりでいる事を理解した。そう理解が及ぶのと同時に、身体が動いた。
 主人を、守らねばならない。なんとしても、先へ行かせる訳にはいかない。
 沸き上がった衝動のまま、彼は駆けて行く少女の背中に向かって魔法弾を放つ――筈だった。
「うぐっ!」
 魔法弾を放つよりも一瞬早く、彼は不意に自分の胴体に強く重い衝撃が走るのを感知した。
 見えない何かに全身を強く殴られた様な、そんな感覚。彼はその強い何かによって後方へと吹き飛ばされ、そこに佇む木々の幹に強かに身体を打ち付け大地に倒れ伏した。
 一体何が起こったのかが理解出来ず、彼は倒れたまま恐る恐る顔を上げて敵を見た。
 少年は先程と変わらない位置に立ってはいるが、少年の左手には先程まではなかった漆黒の柄を持つ短剣(ダガー)が握られていた。
 握られた短剣の切っ先は真っ直ぐにこちらへと向けられていて、彼は少年がこちらに向かってなんらかの魔術を撃ち込んできたのだという事実にようやく思い至る。
 主人を追って行った少女の足音は、もう殆ど聞こえて来ない。遠ざかった小さな足音は、草木を揺らす風の音によって容易に掻き消されていく。
「抵抗は、しない方が身の為だよ」
 少年はこちらを見下ろしたまま短剣を握った腕を下ろすと、緩慢な動作でこちらへ向かって歩いて来る。表情からも言動からも、微かな揺らぎすら窺えない。
 彼は早急に身体を起こし、少々ふらつきながらも立ち上がり体勢を立て直す。
 早くこの少年を倒し、走り去った少女を追わなければならない。その一心で、彼は距離を詰めて来る少年を睨み付けた。
 少年の歩みが、ぴたりと止まる。
「『呪文』か……」
 少年は、彼に引く気がないのを汲み取ったのだろう。少しだけ困った様な口調で意味ありげな呟きを漏らし、浅い溜息を吐いた。
「聞いて良いかな?」
 少年はゆっくりと、こちらに語り掛ける様に言う。
「人を傷付けるのは、楽しい?」
「な……っ」
 余りに唐突で率直な少年からの問い掛けに、彼は自分の感情と表情が大きく揺らぐのを確かに感じた。
 人間ほど鮮明な心を持たない魔人である筈の自分が、何故ここまで取り乱してしまったのか。残念ながら、分からない。
「人を殺すのは、楽しい?」
「っ、違う!」
 気付いた時には、逆上していた。己ですら理解に苦しむ怒りの衝動に任せた彼は、少年に向けて魔法弾を放つ。
 だが少年は顔色ひとつ変えず、速やかに短剣を振るうや否や生み出した風の力によりそれを容易く吹き消してしまった。
「ぼくだって、こんな……こんな事、したい訳じゃ……!」
「――そう。分かった」
 彼の叫びに、少年は独り言の様に頷く。一体、何を分かったというのだろう。
 不可解な台詞に半ば呆然とした状態で少年を凝視していると、視界の片隅にある短剣を握った少年の左腕が再び上がって行くのが見えた。
 まずい。そう直感するなり彼は全身から出せる限りの魔力を解放し、その全てを手中に集めた。先程少年や少女へ放とうとしたものとは比べ物にならない、視界の殆どを埋め尽くすほどの巨大な魔法弾。
 しかしながら、対する少年の反応も早かった。
 少年は彼が瞬時に生み出した余りに巨大な魔法弾を目にすると一瞬だけ驚いた様に瞳を見開き、直ぐに無感動を極めた表情を険しいものへと変化させた。
 少年は胸の辺りまで持ち上げていた短剣を、垂直に真横へ滑らせ空気を切った。そして険しく細められた瞳でこちらを見据えたまま、大きく息を吸い込んだ。
 刹那、嵐が生まれた。
「うわっ……!」
 何を考えるよりも早く、かつてないほどの動揺を宿した自分の声が口を衝いて出て来た。
 目の前の少年の華奢な身体から生み出された暴風は瞬く間に辺り一面を覆い尽くし、一片の容赦なく周囲の木々に殴り掛かって行く。
 凄まじい轟音。悲鳴を上げる木々達。これらの音は立っているのがやっと言っても過言ではない暴風の中に追い遣られた恐怖に、更なる拍車を掛けた。
「い、嫌だ……」
 嫌だ。怖い。逃げ出したい。
 未だかつて体験した事もない、巨大な嵐。膨大な魔力。
 無限に沸き上がる、恐怖と不快感。それこそが彼の動揺を誘い、魔術には必要不可欠な彼の集中力を霧散させた。
 魔法弾が力を失い、見る見る内に弱々しく薄れていく。維持出来なくなるのも、最早時間の問題だ。
「そこまでだよ。魔人の君」
 静かで揺るぎない、少年の声。
 彼が爆風に全身を強打され、意識を手放し地に崩れ落ちたのはその直後だった。


‐前編 終‐


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あきゅろす。
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