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泡沫

「あんたたち早く寝なさい。今何時だと思ってるの」
 みっちゃんのお母さんに言われ、時計を見る。夜中の二時。
「明りが近所の人たちに迷惑でしょう。ここいらはおじいちゃんたちが多いのだから。テレビの音も大きいし、周りの人たち起きちゃったらどうするの。怒られるのママなんだから早く寝なさいよ」
 みっちゃんの部屋のドアを物凄い勢いで開けると、みっちゃんのお母さんは鬼のような形相でそう言った。角を生やしてしまえば鬼そのものだ。それを想像したらおかしくて笑いそうになったのだけど、ここで笑ったら余計にみっちゃんのお母さんを怒らせると思った。だから腹筋に力を込めると、目線をずらし笑いをこらえる。これ以上顔を直視していると笑いを我慢できなさそうだった。
「もう黙りこくっちゃって。わかってるの? あんたは」
 みっちゃんは面倒そうにうんと答えた。
「わかってる、ごめんなさい、もう寝ます」
 ちょうど海が聞こえるのビデオが終わったころで、私はみっちゃんが言った通りにテレビとビデオの電源を切ると二人で布団の中に潜り込む。布団はひんやりと冷たかった。
「おやすみなさい」
 ふたりで布団の中で呟くと、みっちゃんが私の手を握り、そっちを振り向くとウインクをした。
「もう」
 何を言ったのかわからなかったが、みっちゃんのお母さんは愚痴愚痴と言いながら電気を消して部屋から出て行った。
 お母さんの足音が聞こえなくなって安心したのかみっちゃんはくすりと笑うと、布団から頭を出す。私も同様にする。
「ねぇハナちゃん」
 みっちゃんの声が耳元で聞こえて少しくすぐったい。
「もう一回見たくない?」
「え、また怒られるよ?」
「いいのいいの、お母さんは怒るのが生きがいなの。また来れば隠れればいいの」
 私が唸っているとみっちゃんがもぞもぞと動く。すると私を覆っていた布団がバッと姿を消して、冷たい空気が私の体を包み込んだ。さむっと呟くと「ハナちゃん」とみっちゃんが私を引き起こす。
「布団頂戴」
 私は手をみっちゃんの隠す布団に伸ばす。
 するとみっちゃんは布団を隠し、駄目と言った。
「寒いって」
 少し怒った口調。
「良いって言ったらね」
 楽しそうな声。
 私は黙りこむ。
「ハナちゃん?」
「…わかった」
 私が観念してそう言うとみっちゃんは小声で叫ぶ。
 するとリモコンを取り上げテレビの電源をつける。古いテレビだからヴォンと小さな音をたててテレビが起動し、大きい音が出ないようにすぐさま音量を下げる。十八あった音量は、すぐさま一桁台まで下がり、さらには零になった。つまりは音が出ていないサイレント状態。
 私はテレビの光を頼りに布団を手に取ると、みっちゃんの体に布団をかけてあげて、その中に私も潜り込む。
 ビデオの電源もつけるとビデオを巻き戻しして、初めから再生する。
 二人とも、布団を頭からかぶっていて、うつ伏せにしてテレビを見ていた。みっちゃんはベッドじゃなくて、敷布団だったからテレビを見上げる形になるが、それは傍から見ていたら寝ている状態に見えるはずだ。
「サイレントムービー」
 空気の混じった声でみっちゃんが言ったが、小声のつもりだろうけどあまりそれになっていない。
「これで白黒の映画だったら雰囲気でたよね」
「アニメじゃなくてね」
「そうそう。外国の映画とかだったらカッコいいよね」
「ローマの休日とか?」
「何それ。それって白黒?」
「多分」
「多分って見たことないの?」
 私はみっちゃんの輝いた目を見て目を逸らそうとしたが、あまりに純粋な目で逸らすことができなかった。
「うん」
 するとみっちゃんは一気に輝いた目を暗くさせ、なんだ、と呟いた。
 しばらくの間私たちは見つめあっていた。吸い寄せられるように、目を逸らすことができない。
 その時みっちゃんの弱いところを初めて見た。いつもは明るいのに、無邪気なのにこんな失望したような。
 なんでこんな目をしたのかがわかった。
 それから大きな音が聞こえて、食器の割れる音がした。
「今度のお泊まり会はハナちゃんの家でローマの休日を見よう」
 それを聞かないようになのか、さっきより若干みっちゃんの声が大きくなる。
そして歯を出して笑う。しかし目が笑っていない。またみっちゃんのお母さんの大きな声が聞こえる。なんでそんなこと言うの。そう聞こえる。私が黙っていると、またみっちゃんが声を出す。
「それで部屋を暗くしてさ、きゃっ面白そう。ね、ハナちゃん、やろう?」
 私の手を握るが、その力は痛い。みっちゃんはきっと知らないふりをしてほしいんだ。私は笑顔を作ってみっちゃんを安心させようと思った。
「でもみっちゃん、私の部屋テレビないよ」
 今度は男の人の怒鳴り声。それは低い声で聞きとりづらい。みっちゃんの顔がまたこわばる。きっと泣くのを我慢している。目がうるうるしていた。。きっと私も顔がこわばっていたのだろう、みっちゃんは私を抱きしめる。それは強い。
「じゃぁ次も私の家でする?」
 きっと私がこの家にいればみっちゃんも怖くない。私があなたを守ります。そう思って私もみっちゃんを強く抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だよ」
 そう言ってみるがみっちゃんはどのような顔をしているのだろう。思ったけれどみっちゃんの私を抱く力は強い。みっちゃんの頭をなでると、鼻をすする声が耳元から聞こえてきた。
「毎日なの。せっかくハナちゃん来てくれてるのに、うるさいね」
 小さい声で言う。私はみっちゃんが毎日こんな思いをしているのかと思うと悲しくなった
 みっちゃんの両親はずるい。まだ幼いみっちゃんにこんな思いを毎日させている。毎日喧嘩だなんて、こんな怖い思いを、泣きたくなるくらい怖い思いを、娘にさせて何を考えているんだ。自分たちのことばかりで、みっちゃんの思いを考えていない。うるさいって私たちに言ったけれど、お母さんたちのほうがよっぽどうるさい。怒鳴ったり食器を割ったり、この家は負に包まれている。
 それに比べて私は幸せだ。お母さんたちは喧嘩をしたりしない。お母さんもお父さんも優しい。お父さんは仕事っていって毎日遅くに帰ってきているが、お母さんはそれを毎日待っていることを私は知っている。夜中にトイレに起きた時も、リビングでふたりで仲良く喋っていた。今日華子がこんなことをした。あの子はなかなか笑わないけど、みっちゃんが今日も遊びに来て、みっちゃんには笑顔を見せるの。私たちに笑顔を見せないのは悲しいけど、みっちゃんと一緒にいるのは本当に幸せそうよ。みっちゃんって里中さんのみっちゃんか? そうそう、あの子たちは本当に仲が良いわ。中学も一緒っていうから、しばらくは安心ね。そんな会話をしていた。私はなんだか嬉しくなって、その日はなんだか眠れなかった。
みっちゃんが私の家に生まれて、私の代わりに私の家の子になって、私がみっちゃんの家の子になれば、こんなに苦しい思いをしなくて済んだのに。私は喧嘩を聞いたのは今日が初めてだから少しだけ怖いだけだけど、毎日だったらきっと慣れるだろう。あんな元気なみっちゃんの泣いている姿は初めてだったから、少し驚いていもいる。いつものみっちゃんならこんなこと大丈夫だって笑って、いつもあんなに喧嘩をしているの。馬鹿みたいでしょうだなんて笑っているに違いない。少し怒りが込みあがってきた。滅多に怒らない私でも、みっちゃんを苦しめる存在を許せない。自分が苦しい思いをするのはいい。でもみっちゃんを苦しめる存在は許さない。
いつの間にか喧嘩の声は止んでいた。みっちゃんも泣きつかれたのか、私を抱きつきながら眠りについていた。私はみっちゃんを起こさないようにそっと手をほどくと、テレビとビデオの電源を切って布団の中に体を入れる。みっちゃんの体温で、布団は温かくなっていて気持ち良い。
すると廊下の床がギシギシときしむ音がした。とっさに目を瞑ると、息をひそめてみっちゃんのお母さんの反応を待つ。すると部屋のドアがゆっくりと開いて、疲れきったようなため息をついて、部屋の中に入ってくる。
起きて、みっちゃんのお母さんに怒鳴ってやろうかという気持ちが湧いてきた。みっちゃんは喧嘩を聞いて泣いていたの。なんで自分たちの娘を泣かすことができますね。みっちゃんの気持ちも考えてください。
でも勇気が出ない。それであなたに関係ないでしょう。みっちゃんは強いの。こんなことでは泣かないわ。あの子のために喧嘩をしているの。なんて言い返されたら私はなんて返事をしよう。
考えていると、しばらく立ち尽くしていたみっちゃんのお母さんは部屋の中に入ってきて、私のほうに歩いてくると膝をついて、私の頭を撫でる。布団の中には私とみっちゃんの微かな息遣いだけがいやに響いていた。
「ハナちゃんごめんね。みっちゃんをよろしく」
 小さく言って、布団をかけなおしてくれる。
 起きているのがわかっていたのだろうか。目を開けるか悩んでいると、みっちゃんのお母さんは早く寝なさいね、と言って立ち上がるとまたギシギシと廊下を鳴らして帰って行った。
 起きてるってわかってたんだ。私は閉まったドアを起き上がって見ると、みっちゃんのお母さんも苦しんでいるんだと思った。声は疲れ切っていたし、言葉の合間合間に鼻をすすっていた。みっちゃんのお母さんはみっちゃんんが泣いていることを知っていたんだ。それなのに毎日喧嘩するの? 私にはわからないことだった。大人は難しい。私たちは単純に笑って、人と違うところを見つけるとそれを批判していじめが発生する。泣くことなんて少なくて、ただ楽しい毎日だったはずなのに。難しい大人なんかになりたくないな。
そう思うとみっちゃんが寝がえりを打つ。私はおやすみと呟くと布団にもぐりこんで、みっちゃんのお母さんがしたようにまた布団をかけなおしてあげる。
みっちゃんは何語かわからない声で「おはふ」とふやけた声を出した。
おかしくなってクスリと笑うと目を閉じた。寝よう、もう時間は遅い。だけど不思議と眠くなかった。さっきまで騒いでいたからか、それとも友達の家にお泊まりが初めてで興奮しているのか、さっき少し怒りを覚えたからか。
部屋の中にはみっちゃんの寝息と時計のカチカチという音が響いていた。冬だからか少し寒い。
「ん、いや」
 みっちゃんがまた言った。どんな夢を見ているのだろう。私は目を開いてみっちゃんを見た。瞳を閉じていて、また寝息をたてている。寝言みたい。また身じろぎながらまた寝がえりを打つ。その拍子にみっちゃんの足が私に当たった。体温は高くて温かい。なんか幸せな気分になってその足に自分の足を絡める。
 その態勢のまま、針の音をそっと数える。
 いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち。
 そうしているうちにいつの間にか寝に入っていた。

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あきゅろす。
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